公平な競争? そもそも「競争」ってなんでしたっけ リンク
生存競争しかしていなかった人類がいつの間にか競争していた
https://g.co/gemini/share/e2db41a39ce3
生まれと関係ない努力と公平な競争入試
科挙は公平?だった
科挙もSAPIX並みには地域や出身階層に依存するんだぞ、と言おうとして念のために自主ファクトチェックをかけたら近代(一番下の明、清)になると全土から満遍なく受かるようになってて驚いた。 https://t.co/LtXyqWUuRt pic.twitter.com/9OymHixgMf
— Shen (@shenmacro) August 8, 2025
https://x.com/shenmacro/status/1953644325159788780
こんなツイートがありました
国立大の筆記試験型入試と学費の安さは聖域であれよと思ってる。生まれ関係なく努力次第で人生の幅を広げれる公平な競争を庶民から奪ったら国民総無気力or世紀末化して国が滅ぶぞ
— わ (@kyotonow4649) June 29, 2025
https://x.com/kyotonow4649/status/1939223797934227746
公平な大学入試の実態
大学入試に関していえば、私が推薦入学研究を始めた90年代後半に入るまでは「日本は一発勝負の公平性を信頼する規範をベースに学力一斉筆記試験を重視し続けている」というのが日本の教育システム理解の通説だった。例えば、園田英弘は1983年に発表された論文のなかで、以下のように述べている。
「試験場にみなぎる神聖なまでの緊張感は、公平な選抜試験への信頼を、受験勉強の病理を十分に知っていながらも、宗教的ともいえる敬虔さでもっているところに由来するのではなかろうか。国立大学共通一次の「失敗」(私はそう考えるのだが)は、日本人は、学力による公平な競争以外、人を選抜するいかなる方法も信じていないことに無知だったからではないかと考える。日本人が近代に創出した公平観にもとづけば、第二次試験で、適性や面接という方法を導入することは、公平な評価の放棄である。」(園田1983)」
「結果として、1990年代では、推薦入学者が大学入学者数全体に占める比率はすでにおよそ3割に達しており、大学入学者選抜実施要項で推薦入学を募集人員の3割を超えないことを目安とするという厳しめの公的規制がかけられるようになったのである。こうした規制自体は1980年代までの公平性規範に基づくものといえるが、逆に言えば、放っておくと3割を超える定員で実施されてしまうということであり(上述の報道にあるように、実際に3割を超える私立大学は多数あった)、推薦入学は逆に規制が必要と見なされるほどありふれた入試方法になっていたということでもあった。だから、園田のような認識は、1990年代以降はすでにかなり当てはまりが悪くなっている、というのが私の理解である。ちなみに、その後はこうした規制にもかかわらず推薦入学はさらに拡大し、そこにAO入試(現在の総合型選抜)も加わる形となり、結局こうした規制は緩和される他に道はなく、現在は学校推薦型選抜については「附属高等学校長からの推薦に係るものも含め,学部等募集単位ごとの入学定員の5割を超えない範囲において各大学が定める」となっている(「令和5年度大学入学者選抜実施要項」)。制度的にも、学校推薦型選抜だけで5割までは公然と許容」
(第1回/全2回)
https://www.kawaijuku.jp/jp/research/unv/essay_03_1.html
日本の入試は批判者たちがいうほど「公平」ではないというのが、その第一の理由である。それは社会構造的な不平等のことだけをいっているのではなく(実はそうした社会構造的な不公平さは長期的にきわめて安定して存在しており、それも無視できないが、その点はあらためて論じたい。さしあたり松岡(2019)を参照)、手続き的な面でも「公平だ」と自慢できるほどではなく、なんとか日本の社会で許容される最低限のところを必死で保っているレベルではないかと考えるからである。厳密な公平性のイメージに近いのは、大学入学共通テストのマークシート採点だと思われるが、これだって批判をしようと思えば不公平の批判を浴びせることも可能なのである。つまり、「公平性の規範」のあり様は、程度問題でもなく、どこの国が進んでいてどこの国が遅れているということでもなく、社会・歴史・文化と絡んで成り立っている社会現象であり、相対的なもの
(第2回/全2回)
https://www.kawaijuku.jp/jp/research/unv/essay_03_2.html
入試のテストと公正
入学試験でテストによる点数を採用しない場合は公正さが低下することが研究で明らかに
https://gigazine.net/news/20221025-test-fair/
家族の所得と相関する学力テスト成績・大学進学率
都道府県別で見ると、1位の京都府が65・87%、2位の東京都が65・13%、3位の兵庫県は60・90%、4位神奈川県60・70%であるのに対して、44位が鳥取県の43・31%、45位が鹿児島県の43・28%、46位は山口県43・06%、 47 位の沖縄県40・19%となっている。
なお厚生労働省の『賃金構造基本統計調査の統計データ(2019年度)』によれば、都道府県別年収ランキングのトップテン内に京都府、東京都、兵庫県、神奈川県がすべて入っている。逆に、ワーストテンのなかには鳥取県、鹿児島県、沖縄県が入っている。
このデータを踏まえれば、県民所得の高い府県と低い府県とで大学進学率にはある程度の相関関係があり、大学進学率は家計所得によって左右
https://chuokoron.jp/society/116297.html
州間の驚くべき「教育格差」
このように米国の教育は依然として極めて分権化されたシステムであるため、州の間での教育格差も、州ごとの経済力が反映され、極めて大きなものとなっている。
https://gendai.media/articles/-/109745?page=3
https://gigazine.net/news/20150420-link-brain-anatomy-academic-income/
概略
H29 全国学力テスト
13~14歳中学生偏差値65以上の10%が経済的に困っていない、3%が生活保護世帯
「保護者の社会経済的な地位が子どもの学力形成に影響を与える」という主張は、すでに多くの人びとが日常の生活体験のなかで実感しているもので、それ自体に新味はない。
今回の調査結果のインパクトは、こうした実感が全国を代表するデータによって裏付けられた
https://synodos.jp/opinion/education/15429/
https://note.com/mototchen/n/n6b9a24fcb311
能力=平等主義を基盤とした教育の拡大要求は、学歴取得競争への参加者を拡大することに大きく寄与した。「生まれ」によらず、だれでもがんばれば「一〇〇点」がとれる。どの子にも能力の無限の可能性がある。このように能力=素質決定論を否定する能力=平等主義は、結果として努力主義を広め、「生まれ」によらずだれにも教育において成功できるチャンスが与えられていることを強調した。能力主義的教育への反発から生まれたこのような能力=平等主義の考え方は、学歴社会が前提としていた、教育による「生まれ変わり」という主張と重なり合っていたのである。だれでも、努力すれば、教育を通じて成功を得られる。だからこそ、だれにでも同じ教育を与えるように求める。その結果、より多くの人びとが同じ教育の土俵の上で競争を繰り広げることになった。教育における競争を否定する一方で、皮肉にも、能力主義教育を批判する議論が、教育における競争に人びとを先導する役割を果した
- 雑記帳https://web.archive.org/web/20160516195906/http://d.hatena.ne.jp/ced/20061112/1163290795
平等概念がどのように形成されてきたかを苅谷剛彦は、日教組の教育政策を検証し、文部省の教育行政(「適性適職主義」・知能レベルによってつける職業が違うという考え)を批判する運動の中から「だれでもがんばれば100点がとれる。生得的能力は決定的な差異がないという能力平等主義(注 能力はみんな一緒)」を普及させたと分析している
徳島県本部/中野 輝行https://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_tokushima29/jichiken/1/1_33.htm
参考までに、公平なテストはどういうものか
テストは公平でしょうか? 結論からいうと公平ではありません。そこで不公平の原因となる誤差を最小化する必要があります。お笑いのM1グランプリでは、審査員がつけたそのままの点数「素点(そてん)」を足して順位をつけています。ところが、審査員の点数を偏差値に直すと順位が入れ替わることがあります。 偏差値とは平均を50、標準偏差(ばらつき度)を10にしたものです。素点では高い点数をつける審査員の影響が大きく出ますが、偏差値はそれを矯正してくれます。しかし、偏差値にも弱点があります。0点の人にも点数がついてしまうのです。そのことが公平でない結果をもたらすときもあります。
テストの内容を公平にするには
テストの目的から公平を考えるとどうなるでしょう。入試などの選抜試験では合否ラインの点数差が大きく出る問題にしたほうが公平です。また、到達度を測るテストでは簡単な問題から難しい問題まで平均的に配分するべきでしょう。 しかし、能力をより正確に測るには、人によって異なるテストをしたほうが公平なのです。最新のコンピュータを使ったテストでは、まず偏差値50の問題を出し正解した人には偏差値55の問題を、不正解の人には偏差値49の問題を出します。これを繰り返して能力差を明確にします。同じテストで競ったほうが公平だと思うかもしれませんが、必ずしもそうではない
https://yumenavi.info/vue/lecture.html?gnkcd=g008050
https://telemail.jp/shingaku/academics-research/lecture/g008050
ペーパーテストは「公平性」を演出するシステム
https://note.com/sho_m_nishimura/n/n8551f6a0e27a
競争とはなんだったのか
競争の起源
ラテン語 com-petere(一緒に探す)が競争の語源
competitionの語源を遡るとどうだろうか?
「competition」は、ラテン語の「com-petere(一緒に探す)」に由来する。現代の「competition」が持つ「争う」という意味は全く含まれていない。
「競争」に該当するドイツ語「Konkurrenz」も、ラテン語由来だ。「con-curre(一緒に歩く)」。「対抗」し「競う」とは全く反対の意味だ。「協力」と意訳することもできる。
「com-petition」はいつの時代から「counter-petition」になったのか
日本には「競争」という言葉はなかった
文久2(1862)年の欧州巡歴から帰国した福澤は、チェンバーズの経済学の教科書の翻訳を試みます。そして、「コンペティションという原語に出会い、いろいろ考えた末、競争という訳字を作りだしてこれにあてはめ」(『福翁自伝』)
競争
https://www.kateigaho.com/article/detail/88369
competitionを競争と翻訳したのは、福沢諭吉です。
福沢諭吉が江戸幕府の勘定方に依頼され、経済書の目録を翻訳した際に、
competitionに該当する和語が存在しなかったため、
「競い争う」という案を出し「競争」と名付けたのです。
幕府の役人は、「競争」という言葉について、
「ここに争という字がある、ドウもこれが穏やかでない」
と指摘したのですが、それに対し福沢は、
「どんなことッて、これは何も珍しいことはない、日本の商人のしている通り、
隣で物を安く売ると言えば此方の店ではソレよりも安くしよう、また
甲の商人が品物を宜くすると言えば、乙はそれよりも一層宜くして
客を呼ぼうとこういうので、またある金貸が利息を下げれば、
隣の金貸も割合を安くして店の繁昌を謀るというようなことで、互いに
競い争うて、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利も決まる、
これを名づけて競争というのでござる」
と解説し、幕府役人は、
「なるほど、そうか。西洋の流儀はキツイものだね」
との感想を述べたとのことです。
福沢の「競争」に関する説明は、確かにもっともなのですが、
本来の「competition」という言葉には「勝ち負けをはっきりつける」という意味が
内包されています。人々を「勝者」と「敗者」に区分けする
戦国武将は天下統一競争なんかしていない
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e8658a2db06a2d08a5f0387379b136adca6168f3
ダーウィンによる生存競争という専門用語
彼は自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じると主張した。そしてこの過程を「生存競争」、「適者生存」(第5版以降)などのフレーズを用いて説明した。
しかし「生存競争」とは、私たちがイメージするような「二頭の飢えたオオカミが食べ物をえて生き残るため」の争いだけに限らないとダーウィンは言う。ダーウィンの意味する「生存競争」はもっと広いものである。例えば「砂漠のはずれに生えている一本の植物」が水を求めて日照りとたたかっているのも生存競争である。あるいは毎年1000粒の種子をつける植物も、自分の種子を芽吹かせるために地面のどこかを奪う必要があるという意味で「生存競争」をしている。つまり、ダーウィンの意味する「生存競争」とは、限られた資源をめぐっての個体同士の生き残りをかけた闘いであるとともに、それ以上に重要な意味として種が集団として行っている「子孫を残すための闘い」であるというのだ。
https://note.com/sonson01/n/nbcb58e386f0e
https://gendai.media/articles/-/125862?page=1&imp=0
「優勝劣敗」「生存競争」という標語の普及
進化論は、動物学者以外の一般人には、むしろ2)の「自然淘汰」説がアピールしたようで、その考え方も「優勝劣敗」「生存競争」という矯激な標語となって広まった。さらに、ダーウィンがいっさい示唆しなかったにもかかわらず、これを人間社会に適用して、食うか食われるかの帝国主義時代の指導理念として利用する傾向が生じた。これを社会的ダーウィニズム、ないし社会進化論という。自然法的な自由権というものは一種のイデオロギーであり、非歴史的に、いわばアプリオリな形で提示されるのを常とする。一方、進化論は種の変化を論じるもので、時間の経過を踏まえた通時的な議論を含んでいる。この通時性が学問的と見なされ、民権論の非歴史性を妄想と見なす傾向が生じた。たとえば後に触れる加藤弘之のように、「弱肉強食の原始の時代に天賦の自由なるものはなかった」「自由権は、文明がある段階に至ってはじめて、強者から弱者に恩恵的に付与される」と論じる傾向である。これはとりわけドイツで著しく、国家が強力になるまで自由権は制限されるべきだ、国家が強大になってようやく人民も自由を享受できるとする国権主義が発展した。この社会進化論は明治10年代中葉以降、日本および東京大学にも入り込み、民権思想圧迫の理論的支柱として利用されることになった。
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2005/tenji/index-o.html
個人競争
スペンサーにおける社会進化論と個人競争
スペンサーは競争の意義を否定しなかったが、それは競争が個人の向上心を刺激するからである。競争を通じた個人の努力と切磋琢磨が、資質の向上と社会全体の利益をもたらすのである。互いの競争で得られた資質の向上は次世代に遺伝するので、互いの利益になり、社会を発展させ、最後に平和的な共存を生むと考えたのだ。
従ってスペンサーの考える競争は、適者生存ではない。彼の想定する「進化した社会と人間」とは、協調的で利他性を重んじる社会とそれに適合した者の意味だった。その進歩のプロセスは、各人の努力によって未来に全員が最大の幸福を享受する理想的な社会が実現するという、楽天的な、ある意味ユートピア思想に基づくものだったのである。
しかし、そのプロセスは、こうした実際の想定と無関係に、適者生存、の言葉で呼ばれるようになったため、誤解されていつしかマルサス的な生存闘争の意味に捉えられるようになった
https://note.com/mototchen/n/n9087d1bb2355
個人競争の現在
スポーツなどの個人競争
余暇の遊びだったスポーツ、今では、生まれつきの個人肉体の資質とそれに適合した運動スキルの習得による、競争であるプロ・スポーツができています。
成功者が語る事は、結果を出した事に理由付けしているというのが半分ぐらいだと思う。アスリートもまずその体に生まれるかどうかが99%。そして選ばれた人たちが努力を語る。やればできると成功者は言うけれど、できる体に生まれる事が大前提。
— 爲末大 Dai Tamesue (@daijapan) October 21, 2013
https://x.com/daijapan/status/392419979707969536
https://president.jp/articles/-/11561?page=1
https://ameblo.jp/powersports/entry-11932381290.html
「スポーツは社会的に重要な役割を担っていて、それは、世の中を「平和」にすることだ。
スポーツは、「個人の欲望」の追求を許すためのものと言える。そして、「個人の実力が評価される場」が用意されるからこそ、加害や暴力を引き起こしうるリソースが、比較的安全に空費される。
スポーツなどの競技が存在しない社会では、自己の優位を獲得しようとする欲望は、他者を毀損する暴力に向かったかもしれない。一方で、今のような競技が盛んな社会において、自己実現の欲望は、「相対的な競争」の結果を出そうとする努力に向かいやすい。個人の優劣を競う競争があることで、潜在的に暴力を引き起こしうるリソースが安全に空費される。また、競争の結果として生じる序列は、各々に自分の立ち位置を納得させ、秩序を生み出す。
「絶対的な生産」の観点からは、スポーツのような「相対的な競争」は、単なるリソースの空費かもしれない。しかし、そのようなリソースの空費に多くの人が熱中するからこそ、暴力が抑制され社会が安定する。ワールドカップやオリンピックのような国際大会も、どこかが勝てばどこかが負けるという以上の話ではないが、相手を打ち負かそうとする感情がスポーツに費やされることは、平和維持にとっては大きな役割を果たしている。」
「スポーツは、リソースの空費だからこそ社会に平和をもたらす。そしてその効果は、ある種の「倒錯(勘違い)」によって成り立っている。
競技においては、実力のある者とそうでない者との間には大きな差が発生するが、それはあくまでも特定のルールの上でのものだ。いくら個人が肉体を鍛え技術を洗練させたからといって、「道具」や「集団」といった要素の前では誤差にすぎない。つまり、「絶対的な生産」の観点においては、個人が競技に注ぎ込む努力はほとんどがリソースの浪費であり、競争の勝者は、実際には無害化された個体にすぎない。
「相対的な競争」が重視される社会では、生産という観点からは大した能力のない「優秀な個人(競争の勝者)」が、有用な能力を持っているという「倒錯」が起こる。例えば、一般労働者の100倍の収入を得ているプロのスポーツ選手が、常人の100倍の労働力を有しているわけではない。
この「倒錯」が起こるからこそ、個人が「相対的な競争」に熱中することで加害性が抑えられるが、一方で、「絶対的な生産」を担う仕事が軽視されることになる。
ここまでの話をまとめると、スポーツにおいて、個人の能力向上(強くなっている)が全体のリソースの空費(弱くなっている)であるという「倒錯」が起こる。それが起こることのメリットは、平和を維持しやすくなることで、デメリットは、社会にとって必要な「みんなのため」の仕事が軽視されることだ。」
1.3 スポーツは「倒錯」によって「平和」をもたらす
https://basicincom.com/ch1/
スポーツ競争の勝者はどんな人か?
https://note.com/mototchen/n/n93c824dcda2f
個人競争が苦手な人
筆者も競争という概念を持ち合わせないので苦手です。w
https://hakkenkurashi.com/competitive-spirit/
個人競争への疑問を持つ人
https://note.com/kentarohayashi/n/n2ca1af79c005
https://note.com/vsakimoto/n/nb430eae32a35
https://note.com/france1989/n/n7e2143834b85
https://www.ueno-sakuragi.com/blog/2019/07/13/52234798/
https://toyokeizai.net/articles/-/5457?display=b
https://www.kyoiku-press.com/post-229131/
https://the-owner.jp/archives/13328
https://note.com/skkynote/n/nbf762210f37b
https://youtu.be/5LeSxtT1MJE?si=gm4XC4XJI3tYHUxC
競争に打ち勝つには才能より運だった
平等から始めても不平等の貧富の差になる数理
アメリカのタフツ大学経済学部のブルース・ボゴシアン教授が、「貧富の差は必ず生じる」という事実を「ヤードセールモデル」で説明します。それは、「得」と「損」がある取引が無限回行われると、必ず富は1人に集中するということです。
「ヤードセールモデル」をさらに現実に近づけるために、以下3つの改良を行ったところ現実に近似したそうです。
社会的なことまで数学で表せるのは驚きですが、最初は平等でも富が偏在するようになることまで証明され残念でもあります。
1.富の平均化:現実には富裕層に対する高額の課税と貧困層に対する補助金が存在するため、「取引」後にそれぞれの所持金を平均値に近づける。
2.情報格差:富裕層はローン金利の低下や財務アドバイスなどの経済的に優位な情報が得られるため、「取引」後に富裕層に対して有利になるようにバイアスをかける。
3.負債:住宅ローン、学生ローンなどの借金を考慮して、それぞれの参加者の所持金がマイナスになっても良いとする。ただし、無限に借金はできないので、所持金のマイナス値には限界を設定する。
https://www.scientificamerican.com/article/is-inequality-inevitable/
日経サイエンス2020年9月号【数理が語る格差拡大のメカニズム】
— サイエンスカフェ えむしーじじょう (@sciencecafe_mc2) August 12, 2020
ヤードセールモデルというのが面白そうだったので遊んでみました。
1000人が資産1000を持つ状態から開始
無作為で2人抽出
資産が多い方をA,少ない方をBとし
コイン表 Aの資産20%をBへ
コイン裏 Bの資産17%をAへ
これを100万回繰り返す pic.twitter.com/zhw4b951T4
成功するには運が大事
成功するには才能よりも運のちからのほうが大きそうです。
Advances in Complex SystemsVol. 21, No. 03n04, 1850014 (2018)
TALENT VERSUS LUCK: THE ROLE OF RANDOMNESS IN SUCCESS AND FAILURE
https://www.worldscientific.com/doi/10.1142/S0219525918500145
Talent vs Luck: the role of randomness in success and failure
https://arxiv.org/abs/1802.07068
成功を決めるのは「才能」でなく「運」 驚きの研究結果発表https://forbesjapan.com/articles/detail/20593
TALENT VERSUS LUCK: THE ROLE OF RANDOMNESS IN SUCCESS AND FAILURE
https://www.worldscientific.com/doi/10.1142/S0219525918500145
数理が語る格差拡大のメカニズム
https://www.nikkei-science.com/202009_080.html
集団競争
社会進化論による国家間競争
エルンスト・ヘッケルは国家間の競争により、社会が発達していくという内容の社会進化論を唱えた。
集団を競争させるバイアス 内集団バイアス
https://note.com/mototchen/n/n065b1b1183ca
国際スポーツとナショナリズム
国際大会がナショナリズムと結びついていることに懐疑的な人は多いかもしれないが、ナショナリズムの盛り上がりをスポーツで解消することは、平和を維持しようとする上で合理的な方法と言える。プロ競技のチームが地域に根付く形を取りやすいのも、ローカルな集団同士の争いの火種を比較的安全に解消する知恵として理に適っている。
1.3 スポーツは「倒錯」によって「平和」をもたらす
https://basicincom.com/ch1/#13
競争する人のパーソナリティ
https://note.com/mototchen/n/nf328cb6e49a4
https://note.com/mototchen/n/nf3a0acfeaa9b
