美味しいコーヒーの愉しみかた Acidity and Bitterness 第1話
あらすじ
住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。
看板娘の真鍋利津は毎日忙しくお店を手伝っている。
そんなある日、隣にコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」がオープンした。
どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……?
神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく。
定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと再生と美味しいコーヒーの物語。
第1章
「りっちゃん、今日のお魚定食ー」
「はーい。今日はサバ塩焼です」
「よろしくー」
今日もお昼は12時過ぎからサラリーマンが押し寄せている。
ここ『定食なまべ』は、昼はサラリーマン、夜は独り暮らしの学生さんがメイン顧客の定食屋だ。
常連さんと途切れることのない学生さんに支えられ、今年で創業20年。
私も、ここで働く父に育てられた24歳の女盛り……のはず。
キッチンに立つ父にオーダーを告げて、水を汲んでテーブルに置く。
「ありがとう」
この辺の人たちは、ちょっとした動きにも全部お礼を言ってくれる人が多くて、みんな温かい。
ここで育った私はそれが当たり前だと思っていたけど、世間というものに出てみたところ、これが全く当たり前でなかったことを知って相当参った。
「すいませーん、注文お願いしまーす」
「はーい」
店内の20席はすぐに埋まる。次々に入るオーダー、まわすのは私ひとりだけ。
水を配り終わってオーダーを取り終えたら、私もキッチンに入る。
とろ火で温めている味噌汁をお椀に入れお盆に乗せると、サバの匂いに包まれたキッチンで父が次々にサバを炭火に乗せている。3本の鉄串に刺さったサバに焦げ目がついてくると、串から抜かれたサバは平皿の上へ。
私は、あらかじめすり下ろしておいた大量の大根おろしをちょこんと山のように盛り付けてお盆に置くと、漬物を盛り付けた小皿、サラダを入れておいた小鉢を乗せて、大きなお茶碗に白飯をよそって席に持って行く。
「お待たせしました! 本日のお魚定食です」
「わあ、ありがとう」
12時前から13時過ぎまでを乗り切るのが、1日で一番大変。
でも、お客さんは優しいし、定食を提供するだけで喜んでもらえているから悪い仕事じゃない、と思う。
「ご馳走様ぁ」
「ありがとうございました!」
続々とお店を出て行くサラリーマンの人たち。
男性の割合が高いけれど、ここ数年は女性客も増えた。
「今日もコーヒー買っていく~?」
「あ、買う~」
最近、客の回転率が上がっている。
要するに、食事を終えた客が早く席を立って店を出るようになった。
隣にできたコーヒーショップに、コーヒーを買う時間分だけ早く切り上げる人が増えているのだ。
うちの店からもくもくと魚の煙が出ているというのに、隣からは上品な香りが漂ってくる。
その香りに誘われるように、常連さん達がコーヒーショップに吸い込まれるようになった。
私は、ちょっと面白くない。
うちだって、食後に100円でコーヒーが飲めるようにしているのに。
全くコーヒーが注文されなくなってしまった。
そりゃ、作り置きのコーヒーを飲むよりは、淹れたての専門店のコーヒーが美味しいのは分かる。
だけど、これってあからさまに営業妨害ではないだろうか。
あちらのコーヒーは500円もする。
うちの定食は1,000円だけど、お父さんは小料理屋出身だからちゃんと毎朝市場で仕入れをしているし、お米にもこだわっているし、その辺のチェーン店に比べて全てが美味しい。
お腹がいっぱいになるし、ちゃんと副菜も付けているのに。
ランチタイムがひと段落して、店内のお客さんが1人になった。
「利津!」
「はーい」
「隣でコーヒー買ってきて」
「はあ??」
とうとう、お父さんまでそんなことを言い出す始末だ。
みんな、どうかしている。
*
ああ、気に入らない。
だけど、これを機に敵を知るのは大事だ。
私はそんなことを考えながら隣のコーヒーショップに向かう。
そこは小さなお店で、テイクアウトは外に並ぶ仕組みらしい。サラリーマンのテイクアウト行列ができていた。
お父さんに混んでたって言って帰ろうかなあ……。
看板を眺める。『The Coffee Stand Natsu』か……。
ナツって人がやっているんだろうか。まあ、そんなところだろう。
おいナツさんよお……うちの町で随分勝手にやってくれてるようだなあ。
そんなガラの悪いことを頭の中で呪文のように唱えていたら、列が進む。
確かに香りはとてもいい。香りは。
あと、看板が都会的でやたらお洒落で……ロゴがカッコイイだけじゃなくて、看板の色や素材に至るまで独特でセンスがいい。でも、私にはそれがどんな風なのか説明できる能力がない。お洒落スキルが足りてない。
テイクアウトの薄茶色の紙カップに黒い蓋をしたコーヒー、カップに描かれたお店のロゴ。
あーあー、みんな、こういうのに騙されていくんですねえ。
お洒落なものを買う自分がお洒落ってやつですか。そうですか。
「お待たせしました」
いつの間にか私の番だった。
テイクアウトカウンターの向こう側に立っているのは、いかにも都会人という風貌の男の人。
顎に少しだけ髭を生やしている。無精髭とはちがう整えた清潔感のある髭で、短髪に合わせているのか似合っている。
麻の白シャツ、長いデニムのエプロンにはお店のロゴが……。
お洒落さんか!
「えっと、ホットコーヒーを……普通のサイズで1つ」
「ドリップコーヒーで宜しいでしょうか?」
「えっと、はい」
「豆はどれになさいますか?」
知らないよ。父親のオーダーだし。ああ口に出そう。
なによ、豆って。ああ、もう。ここ、初心者にハードル高い店じゃんー。
「豆、ですか」
「本日だと、ホンジュラスとブラジル、あとはエチオピアがあって、それぞれ焙煎も3段階でご用意があります」
「どれでもいいですね」
「どれでもいいんですか」
「はい」
本当にどれでもいいんで、早く私を解放してください。このお洒落沼から。
「じゃあ、個人的なお勧めでホンジュラスの中煎りにしておきます」
「はい」
作り置きがあったらしく、すぐにコーヒーが出て来た。
なんだ、うちと同じじゃん。
いや、うちとは違うか……豆の種類と焙煎の種類が選べるのか。
「お待ちいただきますが、店内でのご利用ですと淹れ方もお選びいただけますので、また是非」
店長なのか、お洒落アゴ髭男がそう言って軽く笑みを浮かべる。
これ以上選べると余計に困ります。
狭い店の店内も満席みたいで、木とコンクリートの内装がチラリと見える。
私はお洒落なロゴの入ったカップを受け取り、自分の店に帰って行く。
『定食まなべ』の建物は経年劣化していて、昭和さながらの雰囲気が漂っているというのに。いや、平成生まれなんだけれど。
ただ1杯のコーヒーを買っただけなのに、この敗北感は何だろう。
とりあえず、今日のお薦めはホンジュラスらしいよ、お父さん。
続き
2話 https://note.com/mukachannel/n/n26bf26206f53
3話 https://note.com/mukachannel/n/n409e1f5ada64
4話 https://note.com/mukachannel/n/nd28c249a2498
5話 https://note.com/mukachannel/n/n681eace289d1
6話 https://note.com/mukachannel/n/n734090455866
7話 https://note.com/mukachannel/n/n497852e50b76
8話 https://note.com/mukachannel/n/nb05e1f7c8e12
9話 https://note.com/mukachannel/n/n219c4ede75d7
10話 https://note.com/mukachannel/n/n18c28c85de01
11話 https://note.com/mukachannel/n/nf350a55fc2c2
12話 https://note.com/mukachannel/n/nc4607e037ee0
13話 https://note.com/mukachannel/n/n32d21e4cd016
14話 https://note.com/mukachannel/n/n9978a86d58cf
15話 https://note.com/mukachannel/n/n584b7a1a6480
16話 https://note.com/mukachannel/n/n7d0fd71202af
17話 https://note.com/mukachannel/n/n959a9e0871ba
18話 https://note.com/mukachannel/n/nb91e9cb637ba
19話 https://note.com/mukachannel/n/nf436527dee88
20話 https://note.com/mukachannel/n/ne080d6f7772b
21話 https://note.com/mukachannel/n/nf02a71072055
22話 https://note.com/mukachannel/n/n8545503e32f3
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