成田山新勝寺 不動明王と、歌舞伎成田屋の歴史 5)歌舞伎成田屋の歴史
ここからは、歌舞伎と、成田屋の歴史についてのお話。
歌舞伎の世界で、人気を博した市川団十郎でしたが
後継に恵まれず、成田山新勝寺で、当時の本堂である
薬師堂で、一心に願うと、待望の長男を授かった。
団十郎が、中村座で親子共演した舞台は、不動明王への感謝の気持ちを表した物で、不動明王をテーマにした初めての舞台で、これが大当たりした事に感謝して、成田山に大神鏡を奉納した。
また、この共演を機に市川家は、「成田屋」の称号を使うことになった。
成田山が、江戸深川で、行った出開帳に合わせ、
親子で演じた、成田山分身不動が、大変な人気となり
成田屋市川団十郎の深い帰依と、成田山の霊験が、江戸中に知れ渡った。
時は流れ、10歳で、団十郎を襲名した7代目も子は、多かったものの、男子に恵まれず、成田山のお不動さんに子授け祈願をすると、待望の後継ぎが授かり、
その子は10歳で、8代目を襲名。
美形の2枚目として人気を博す。
天保の改革により、7代目が江戸追放となり、8代目が、父の放免を願い、お不動さんに祈願するとついに追放処分がとかれ、この親孝行が、益々の人気に拍車をかけた。
7代目は、1000両の大金を奉納して 三升の額堂を寄進。
自身が、追放令が解除されたのは、不動明王のおかげと額堂の他、石像や、品々を奉納している。





当時の流行りでしょうか、成田山への寄進として
額を奉納する事が多くあったようだ。
江戸から出るのに 当時手形が必要だったが、
富士講では、旗を掲げたり、成田山では、額の奉納をする事で、関所を通り抜け易かったという事だ。
額堂の額を見ていると、当時の人々の想いが伝わってくる。
余談だが、江戸から成田山まで、当時は二泊三日の旅だったようで、宿場町では、よりたくさんのお金を使ってもらおうと、成田山は、女性はいない方が良いという、噂を流した。何故って?
夫婦でいると奥さんが財布を握り、無駄な出費をしないが、男だけのグループで来ると、ハメを外し酒を飲み、女を買い、大金を使ってくれるからだ。
額堂は、2棟あったが、火事により消失。
今は、一棟だけが、残っている。
そして、色の褪せていない芸術的価値のある物は、
平和大塔にある。
そこでは、1階で、貴重な額と歌舞伎成田屋と、成田山の関係が勉強できる。
2階には、とても大きな青い不動明王が日本の平和を思いながら私達を眺めているように鎮座している。
是非、平和大塔を拝観してほしい。
次回は、ちょこちょこある見所ご案内です。
最後までお読みいただきありがとうございました😊
