厳格な神秘主義者フェラポント神父~ゾシマと対をなすカリスマ性「カラマーゾフを読む」(31)
厳格な神秘主義者フェラポント神父~ゾシマと対をなすカリスマ性「カラマーゾフを読む」(31)
第四編 病的な興奮 一 フェラポント神父
前回の記事「ゾシマの説法と親鸞。そして死後の奇跡への期待「カラマーゾフを読む」(30)」ではゾシマの説教と奇跡への期待についてお話ししましたが、引き続きこの章について見ていきたいと思います。
ゾシマ長老の最後のお別れを見てきた私たちが次に目にするのはフェラポント神父についてです。
この章で語られていますように、この神父は厳格な苦行者であり、偉大なる神秘主義者として多くの人から崇拝されている人物でした。まさにカリスマです。
そして重要なのがこのフェラポント神父がゾシマ長老の最大の敵対者だったということです。フェラポント神父からすればゾシマ長老のあり方というのは許せないものがあったのです。
それはそうですよね。フェラポント神父は無言の行というほとんど人と話さない苦行を行っています。それに食べ物も粗末なものしか食べようとしません。しかも悪魔や天使が見えるという神がかり的な発言が次々と出る謎めいた人物でもありました。
これはゾシマのような「人々と共にあり、彼らに優しくわかりやすく語りかけようとするあり方」とは正反対の生き方です。
フェラポントからすればゾシマの生き方はぬる過ぎるのでしょう。僧院で美味しい食べ物を食べ、苦行もせずに俗人たちに優しく語りかけて人気になるなど、もってのほかだという感情なのではないでしょうか。
事実、フェラポントはその厳格さと神秘主義的な面から多くの支持者を得ています。厳格な神秘主義者というのはそれだけでカリスマ性があるものです。ゾシマはゾシマで圧倒的なカリスマがありますが、フェラポントはフェラポントで強烈なカリスマ性があります。だからこそフェラポントはゾシマを認めることはできないのでしょう。
また、フェラポント神父のような厳格な神秘主義者に付いていきたくなるような人が数多くいる。そのこともまずは私たちも抑えておきましょう。これが何を意味するかは後にわかってくると思います。ドストエフスキーがゾシマ長老の説法の直後にフェラポント神父を持ち出したのには何か意味があるはずです。この二人の対比はぜひ頭に入れておきましょう。
そしてここでドストエフスキーはやはりさすがだなと思うのが、このフェラポント神父を紹介するにあたって、以前も出てきた遠方出身の謎の修道士にインタビューさせるという手法を用いた点です。
ただ単にフェラポント神父を筆者目線で紹介するより、外部の第三者を通してフェラポントの人となりを明らかにした方がはるかに効果的です。
皆さんも読んでいてお気づきになったと思いますが、彼はまるで部外者のゴシップ記者のようです。ドストエフスキーはこうした役回りのキャラクターを用いて、修道院の有り様を様々な視点から描くことに成功しています。修道僧ということで、修道院事情にも通じたこの男ですが、ゴシップ的な興味関心を強く持っています。その男の目線でゾシマやフェラポントを読者に見せる。こうすることでドストエフスキーは多様な視点を物語中に入れ込むことに成功しています。細かいことかもしれませんが、やはり見事です。痺れますね。
そしてこの後「アリョーシャはあとになって思い出したのだが・・・」と自然に視点がアリョーシャに戻り、彼の良き理解者パイーシイ神父の花向けの言葉へと移っていきます。
例の修道僧からアリョーシャへの視点の移行があまりにスムーズなため私たち読者はほとんどそれに気づかぬくらい自然に読み進めてしまうことでしょう。これもとてつもない技術です。私もこうして改めてじっくり読んでいるからこそ「おお!」と驚きましたが、これは意識しなければ見逃してしまうでしょう。
そしてそもそもですが、このパイーシイ神父の花向けの言葉も非常に重要です。無神論者が力を増す近代において、それでもなお信仰はどうあるべきものなのかを語る神父の言葉は後のストーリーにも必ず絡んできます。ぜひここもじっくり味わって頂きたい箇所です。
続く
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