ゾシマの説法と親鸞。そして死後の奇跡への期待「カラマーゾフを読む」(30)
ゾシマの説法と親鸞。そして死後の奇跡への期待「カラマーゾフを読む」(30)
第四編 病的な興奮 一 フェラポント神父
ここからはいよいよ第二部に突入です。この第二部が長い長い『カラマーゾフ』の中でも特に重要な思想が展開される超重要パートになります。しかもただ思想的に重要なだけでなく物語としても超一級品となっていますのでぜひ心して楽しんでいきましょう。
さて、冒頭では死期を悟ったゾシマ長老が皆との最期の別れの時を過ごします。そして彼の遺言とも言うべき説法が語られます。これは以前見た一般信徒に対する説法ではなく、修道士に向けての言葉になります。受け取り手が違えば当然語る内容も変わります。僧侶である私にとってもこの章でのゾシマの言葉はわが身に対して語られたもののようにも感じられました。
その中でも「修道僧たる者、自分が世間のだれよりも劣っていることを自覚し、全ての人に対して罪を追っていることをわきまえねばならない。この自覚こそ地上のあらゆる人の栄誉である」という教えには私も驚きました。
なぜなら、この罪の自覚は親鸞の罪悪深重の自覚とも重なる点があるからです。親鸞も自己の罪悪深重性を深く自覚し、懺悔した仏教者でありました。彼の主著『教行信証』ではその内省の過程が驚くほどの苛烈さで記されています。
そして親鸞の師である法然もまさに「愚者の自覚」が仏道の根本にありました。こうした類似点に私は驚かざるをえなかったのです。
もちろん、仏教とロシア正教は全く異なる宗教ですから完全に同じということではありません。ですが、ゾシマの教えと法然・親鸞は不思議としか言いようのないくらい似ているのです。
また、この説法の後、ホフラコワ夫人によって届けられた奇跡の成就の一報が修道院を興奮に巻き込みました。
そして修道院内外の多くの人がゾシマ長老の死後、何らかの奇跡が起こるに違いないと期待したのです。
この死後に起きる奇跡への期待も法然にそっくりなのです。法然の伝記では法然の死に際して紫雲がたなびくなどの様々な奇跡が起こったことが記されています。
そして晩年の親鸞が編纂した『西方指南抄』という書物にもこの法然の死の奇跡がしっかりと書かれています。親鸞も法然の死後の奇跡を信じていたのです。残念ながら親鸞は法然の死には立ち会えず、その奇跡を目の当たりにすることはできませんでしたが、残された記録を基に親鸞は『西方指南抄』に奇跡の模様を記したのでありました。
法然親鸞が生きた平安末期から鎌倉時代初期は「死に様」で往生がうまくいったかどうかが判断されていた時代でもありました。だからこそ奇跡的な何かが起こることはその人が聖人であることの証だったのです。
ここから『カラマーゾフ』の世界までは600年以上も経っています。
時代も国も違いますが、宗教的精神というのはやはり共通するものがあるのかもしれません。現代の視点からすれば「迷信」と切り捨てるのは簡単なことですが、「それでも何かが起こるのではないか」と期待してしまう人間の心には大きな意味があるのではないかと私は思うのです。
ただ、そこはドストエフスキー。ただでは終わらせません。この後とんでもない爆弾を投下します。これがあるからこそドストエフスキーはさすがなのです。さて、ゾシマの奇跡は本当に実現するのか、乞うご期待です。
続く
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