僕も兄さんとまったく同じだからなんです・・・「カラマーゾフを読む」(22)
僕も兄さんとまったく同じだからなんです・・・「カラマーゾフを読む」(22)
第三編 好色な男たち 四 熱烈な心の告白ー異常な事件によせて
この章でも引き続きドミートリイの熱気あふれる自分語りが展開されます。
そして章題にもありますようにこの章ではドミートリイとカテリーナの異常な事件が彼の口から明らかにされます。
それにしても、ドミートリイの性格というのもどうにもならないですね。品行方正な現代日本人の感覚からすると大炎上確実です。さすがフョードルの息子です。やはり親子ですねこの2人は。
そしてこんなドミートリイの卑しさへの愛を聞きながら、アリョーシャが興味深い言葉を漏らします。
僕も兄さんとまったく同じだからなんです。
しょせん同じ階段に立っているんですよ。僕はいちばん下の段だし、兄さんはもっと上の、どこか十三段目あたりにいるってわけです。僕はこの問題をそんなふうに見ているんですよ、しかしどっちみち同じことで、まるきり同類なんです。いちばん下の段に足を踏み入れた者は、どうせ必ず上の段にのぼっていくんですから。
これは実は宗教の世界でも問題にされる根源的な問いでもあります。さすがゾシマ長老が見込んだアリョーシャです。しかもこれぞ親鸞とも重なる点でもあるのです。
アリョーシャが問題にしたのは、人間の善悪はしょせん程度の問題であって、絶対に悪をしないとは言い切れないということでもあります。
今は悪いことをしていないように見えても、すでにあらゆる人間はその階段に足を踏み入れているのです。縁さえあれば人間は何でもしでかしうる。この「しでかしうる」ということがアリョーシャにとってはすでに罪なのです。親鸞も同じように、人間の中にある罪悪の可能性そのものに目を向けています。自分がどう思おうが、縁さえ整ってしまえば何でもしでかしうる人間の恐ろしさを親鸞は見つめていたのです。有名な『歎異抄』でもこのエピソードは語られています。
何はともあれ、ドミートリイとの会話の中でふと現れたこのやりとりは真宗僧侶である私にとっては見逃せないものでありました。
そしてこの後、カテリーナとドミートリイの関係の始まりについて語られていくのでありますが、さすがドストエフスキーと言える展開です。いかにもドストエフスキー的などぎついエピソードですよね。
ドミートリイは自身を毒蜘蛛や南京虫のように言いますが、それでも金をそっくりあげてしまったという気前の良さはたしかにあるのです。ただ、そこに付随する暗黒面を彼がすべて自分でわかってしまっていることに悲劇があります。これは放蕩者の詩人ならではの苦悩です。感受性が豊か過ぎて自身の心の動きが全部わかってしまい、さらにそれが言語化されることで余計その感情が増幅されてしまうのです。
鈍感な人間ではこうもいきません。これはやはり詩人ドミートリイならではの苦悩なのです。
まあ、我々普通の人間からすれば、「なんでそんなことを考えなければならないのだろう。もっと普通にしていればいいのに」と引いてしまいがちですが、それを軽々飛び越えてしまうのがカラマーゾフなのです。
そしてカテリーナとのエピソードは次章へとさらに展開していきます。
続く
次の記事はこちら
前の記事はこちら
連載記事「『カラマーゾフ』を読む」記事一覧はこちらのマガジンにて
以下の記事ではドストエフスキー小説をもっと楽しむためのおすすめの解説書をまとめています。ぜひこちらもご参照ください。
ドストエフスキーのおすすめ書籍一覧はこちら
「おすすめドストエフスキー伝記一覧」
「おすすめドストエフスキー解説書一覧」
「ドストエフスキーとキリスト教のおすすめ解説書一覧」
ドストエフスキー年表はこちら
「ドストエフスキーの旅」はこちら
関連記事
