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俺は奇跡を信じているのさ「カラマーゾフを読む」(23)

俺は奇跡を信じているのさ「カラマーゾフを読む」(23)

第三編 好色な男たち 五 熱烈な心の告白ー《まっさかさま》

カテリーナに金を渡したドミートリイ。彼からすればそれで終わりになってもおかしくない状況だったのでしたが、「アラビアン・ナイトのような意外さ」で事態が急転しました。

なんと、本当にカテリーナが「妻になります」と手紙を送ってきたのです。

さすがのドミートリイもこの手紙には心を突き刺されたようです。

しかしここからが大変です。なんと、今度はこの問題のためにドミートリイがさし向けたイワンがカテリーナに惚れてしまったというのです!なんてことだ!

これが後にドミートリイとイワンを泥沼に落とすことになるのですが、それはまだ先のお話。

それにしても、どうしてカラマーゾフ家はこうも自ら地獄に飛び込んでいこうとするのでしょう。いや、ひょっとすると地獄に引き寄せられてしまうと言った方が正確かもしれません。そして問題は彼らが一度引き寄せられてしまったら立ち止まれないという点にあります。「理性」では自分を引き留められないところにこの物語の悲劇があるのです。

そしてそんなドミートリイに対し、アリョーシャはさすがの一言を語ります。

でも僕は、あの人が愛しているのは兄さんみたいな人で、イワンのような人じゃないと、信じていますよ

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P285

しかも、これに対するドミートリイの返しがあまりに鋭い!

彼女が愛しているのは自分の善行で、俺じゃないんだよ

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P285

これはカテリーナという女性を見ていく上で核心的な分析です。しかもこれが「ふいに」ドミートリイの口をついて、「心ならずも」飛び出したことが重要です。

ドストエフスキーがこうした「ふいに」、「突然に」などの言葉を多用する作家だということは以前もお話ししましたが、ここでもまさにそれが使用されています。

ドストエフスキーは論理を越えた人間の謎をこうした言葉で表現しています。ドストエフスキーの人間観はこうした混沌、複雑怪奇さが肝になっています。

理性的、合理的な判断とはあまりにかけ離れた行動や思考。

それは人間心理の奥底にある【不条理な魂】の叫びと言ってもよいかもしれません。

人間は二二が四のような数学的、合理的な存在ではない。もし人間がそういう存在なら機械となんら変わることがないじゃないか。それがはたして人間と言えるのだろうか。

ドストエフスキーはそれを問いかけてくるのです。こうした人間観が赤裸々に語られているのが『カラマーゾフ』の15年以上も前に書かれた彼の中編小説『地下室の手記』です。地下室人の叫びはこの『カラマーゾフ』にも連綿と受け継がれています。

そしてドミートリイとアリョーシャの問答は続きますが、その終盤の次のやりとりにも注目です。

「兄さん、ねえ、どうしたんです!」アリョーシャは席からとびあがる、錯乱したかのようなドミートリイを見つめながら、叫んだ。一瞬、兄が発狂したかと思った。
「なんだい?べつに気がふれたわけじゃないぜ」まじまじと、なにか厳粛ですらある顔で見つめながら、ドミートリイが言った。「心配するな、お前を親父のところへ差し向けはしても、俺は自分が何を言ってるか、ちゃんと承知しているんだから。俺は奇跡を信じているのさ」
「奇跡を?」
「神の思召おぼしめしの奇跡をさ。神さまは俺の心をご存じだ、俺の絶望をごらんになってらっしゃる。いっさいの光景を見ておられるんだ。恐ろしいことの起るのを、はたして神が見逃しておくだろうか?アリョーシャ、俺は奇跡を信ずるよ、行ってきておくれ!」

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P298-299

狂ったかのように見えたドミートリイ。しかし彼は「俺は自分が何を言っているか、ちゃんと承知している」とけろりとしています。

このドミートリイの言葉、もしかすると『ドン・キホーテ』から来ているかもしれません。

『ドン・キホーテ』も騎士道に狂った老紳士の物語です。騎士道復活の理想に燃え、突飛な冒険を繰り返すドン・キホーテでしたが、その彼もまさに「自分が本当の狂人でないことを知っている」と言っているのです。

『ドン・キホーテ』がヨーロッパ社会においてどれだけ巨大な影響を与え続けて来たかは言わずもがなですが、ドストエフスキーもこの作品を高く評価していました。そしてこの『ドン・キホーテ』をモデルのひとつにして書かれたのが『白痴』でもあります。

それほどドストエフスキーは『ドン・キホーテ』に思い入れがあるのですが、その中でも上の言葉というのは屈指の名言として知られています。自分が狂人だと言われているのも知っているし、自分が実際に何者かも知っているというその言葉はあまりに意味深です。

こんな謎かけのような言葉ではありますが、もしかすると狂気の騎士ドン・キホーテの言葉になぞらえてこのドミートリイの言葉があるかもしれません。

そしてここでドミートリイが「奇跡を信じている」と話すのも重要です。

ここで彼の言う「奇跡」はアリョーシャの考える「奇跡」とは質が違います。修道僧アリョーシャの考える奇跡と熱血漢で詩人のドミートリイの言う奇跡ではその内容も自ずと変わってくることでしょう。

私はこれまでこの物語が聖と俗の振り子運動であることをお話ししてきましたが、ドストエフスキーはここでも巧みに聖と俗の対比を描き出しています。

一言で「奇跡」と言っても、人間ひとりひとり全く同じ人間がいないのと同じようにそれぞれ考えることも異なります。そんな複雑怪奇な人間模様をドストエフスキーはここでもさりげなく描いているように私には思えてなりません。

続く

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