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大審問官の物語のあらすじをざっくりと解説~ドストエフスキーの究極の物語をぜひ!「カラマーゾフを読む」(41)

大審問官の物語のあらすじをざっくりと解説~ドストエフスキーの究極の物語をぜひ!「カラマーゾフを読む」(41)

第五編 プロとコントラ 五 大審問官

さあ、いよいよ『カラマーゾフ』最大のハイライトたる「大審問官」の章
までやってきました。

ここまで見てきましたように、ドストエフスキーは生涯変わらず抱き続けてきた「神と人間」という根本問題をこの最後の作品で描いています。

そして、この小説における重大な山場が何度も申し上げている「大審問官」の章であります。

「大審問官」の章は冷徹な知性人である次男のイワンが見習い修道僧である心優しき主人公アリョーシャに語り聞かせたある叙事詩が中心となっています。

その叙事詩の表題こそ、『大審問官』になります。

舞台は16世紀のスペインの街セビリア。異端審問により多くの人が火あぶりにされていた時代です。

セビリアといえば私も2019年の世界一周の旅で訪れた街です。

セビリア大聖堂 上田隆弘撮影

セビリアはスペインでも随一の勢力を誇った街であり、ローマ・カトリック信仰の一大中心地でありました。上の写真のセビリア大聖堂は世界でも最大級の大聖堂として有名です。

コロンブスの墓

私がこの大聖堂を訪れたのはコロンブスの墓を見に行くためだったのですが、くしくもこの大聖堂とその周辺が『大審問官』の舞台となっていたのでありました。

さて、これよりその物語を見ていくことにしましょう。

異端審問全盛の16世紀のセビリアに突如現れたイエス・キリスト。

人々に気付かれぬようにそっと姿を現したのですが、不思議なことに誰もがその正体を見破ってしまいます。

人々はキリストに殺到し、祝福を求め、彼の後についていきます。

そしてキリストは人々に懇願されるままに盲人の視力を回復したり、死んだ少女を生き返らせたりという奇跡を授けます。

群衆はいよいよ歓喜にむせび、キリストを讃嘆します。

しかしまさにその時、カトリックの異端審問を司る高位聖職者、大審問官がその現場を通りかかったのです。

大審問官は少女が生き返る奇跡を目にしました。

大審問官の顔は暗くなります。その男がキリストであることに彼も気付いたのです。

そして大審問官は護衛にキリストを捕らえるよう命じました。民衆は彼の絶大な権力に恐れおののいていたため、キリストを守ることなくおずおずと護衛たちの前に道を開けていきます。

キリストは抵抗することなく捕えられ牢屋に引き立てられていきます。その様子を眺めながら、民衆は引き立てられていくキリストではなく大審問官にひざまずくのでありました。

こうしてセビリアに突如現れたキリストは牢屋に監禁されることになったのです・・・。

そして舞台は牢屋と変わり、ここから大審問官とキリストの一騎打ちが始まります。この一騎打ちこそ「神と人間」「信仰と自由」という問題を極限まで突き詰めた文学史上最高峰のドラマになります。

大審問官はキリストに対し、「お前は今さら何をしに来た。我々の邪魔をしないでくれ。お前の役目は終わったのだ。お前に今さらカトリックを修正する権利はないはずだ」と切り出します。

キリストは答えません。

実はこの叙事詩ではキリストは終始一言も発しません。この一騎打ちは大審問官の独白であることに大きな意義があります。

さて、大審問官は聖書に書かれている悪魔の誘惑を持ち出します。

キリストが断食修行をし、悪魔と対決した山上の洞窟。イスラエル、エリコ。上田隆弘撮影。詳しくは「エリコの誘惑の山~キリストと悪魔の宿命の対決の舞台!『カラマーゾフの兄弟』とも関係 イスラエル編⑦」の記事参照

悪魔はキリストにこう問いかけました。

「神の子なら、そこらにある石がパンになるように命じたらどうだ」

「神の子ならここから飛び降りたらどうだ。神の子なら天使がお前を支えるから死ぬことはないだろう」

「もしひれ伏して私を拝むなら、全ての国々をお前に与えよう」

しかしキリストはこの3つの誘惑を全て退けます。 「人はパンだけで生きるものではない。」という有名な言葉はここでキリストが語ったものです。

大審問官はこの3つの問いこそ人間の本性を言い当てる最も叡智に満ちたものであると言います。

ここから先、大審問官はこの3つの問いを基にしてキリスト亡き後ローマカトリック教会がいかに発展していったのか、そして自分たちがどのようにして人々を導いてきたかを語ります。

彼らの秘密とは悪魔の誘惑を退けたキリストの教えをあえて修正し、悪魔に従うことで民衆を支配しているというものでした。

大審問官は言います。「われわれはお前の偉業を修正し、奇跡・・神秘・・権力・・の上にそれを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の群れのように導かれたことになり、あれほどの苦しみをもたらした恐ろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを喜んだのだ」と。

あの3つの問いは奇跡と神秘と権力を表していたのです。人々はそれに隷属することを望みます。しかしキリストはそれを否定し、「自由」を人々に課してしまったのです。

人々にとって「自由であること」は何よりも恐ろしいものであり、一刻も早く手放したいものだと大審問官は断定します。そしてキリストこそ、人々に自由な信仰を与えた張本人であり、結局のところ人を途方に暮れさせてしまったのだとキリストを責めるのです。人々にとって自分で善悪を決めることは重荷であり、圧倒的な神秘と権威にひれ伏すことこそ人間の願望なのだと言うのです。

ここのところはキリスト教の知識や宗教的な背景がわからないとかなり難しい部分です。予備知識がない人が『カラマーゾフ』に挫折したりつまらないと感じる理由はこの辺りにあると思われます。

私自身、これを初めて読んだのは20歳の冬です。宗教の知識も浅い未熟者だった私がその時どこまで読み込めていたのかはわかりません。

しかしこの大審問官の独白は私にとてつもない衝撃を与えることになりました。

ここまで痛烈に宗教を攻撃する言葉を私はその時初めて目にしたのです。しかもその言葉を吐いているのがカトリックの高位聖職者たる大審問官であり、こともあろうにその相手はあのイエス・キリストであります。

大審問官は異端者を火あぶりにする責任者です。その彼がキリストを攻撃するのです。なんという逆説でありましょう!

しかしその大審問官も根っからのキリスト批判者ではありませんでした。いや、むしろかつては熱烈なキリスト讃美者でした。キリストのために生き、キリストの説く自由な信仰を熱烈に求め修行していたのです。

ですが最後にはカトリック側についてしまったのです。彼にも抗いようのない苦しみや葛藤があったのです。

この辺の描写にも私は唸らされるわけであります。

当時の私は知りませんでしたが、ドストエフスキー自身はロシア正教を熱心に信仰していました。ドストエフスキーは熱烈に信仰を求めたからこそ、信仰上の問題を極限まで突き詰めて論じていったのです。表面上は激烈なまでに無神論的なこの「大審問官」の章ですが、実はこの章があるからこそ、後の展開が開けてくるのです。このことについてもこの連載ではじっくり見ていきますので後の展開をお楽しみに。

それにしても、この「大審問官」の章は圧倒的です。

私とドストエフスキーのご縁もここから始まったと言ってもよいでしょう。それほどこの物語は衝撃的でした。

私はまさにこの物語に「お前は僧侶としてどう生きるのか。お前はどちらに立つのか」を突きつけられました。まだ僧侶としての人生が始まってもいない若造にとって、この問いはあまりに重く、あまりに巨大なものでありましたが、「これは絶対に軽く見てはいけないものだ」という妙な確信を持ったのも事実。私は私なりにこの問いの重大さを直感したのでありました。

私はこれから先も一生この物語と生きていくことでしょう。ここで語られた問いは一生かけて考え続ける価値があると私は信じています。

さて、これにて『カラマーゾフ』の上巻は終了です。

ここまで来ればもう怒涛のように物語は進んでいきます。最初は読むのにも苦戦した方もたくさんおられたと思いますが、ここから先はもう大丈夫です。ここまで来れたならばあとは一気に突き進むのみです。

では、次の記事から中巻の内容に入っていくことにしましょう。

続く

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