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孤独になった人間にとって、全体のことなぞ、何の関係があるだろう「カラマーゾフを読む」(48)

神父諸師よ、修道僧とはいったい何であろうか?「カラマーゾフを読む」(48)

第六編 ロシアの修道僧 三(E) ロシアの修道僧と、考えられうるその意義について数言

ここからの数章はゾシマの説法が語られていきます。

物語としてはここからは動きがあまりないので、宗教にあまり馴染みのない方にとっては少し苦しい箇所になるかもしれません。

そういう時は無理せず流し読みするというのもひとつです。無理して全てわかろうとしても疲れてしまいます。この連載の序盤でもお話ししましたが、まずは楽しく読み切ることです。

ここはゾシマの語る宗教的な教えが語られているということがわかれば十分です。

ただ、この箇所で語られることというのは重要なものばかりというのも事実です。

例えばですが、冒頭の「神父諸師よ」で始まる言葉など、私はドキッとしたものです。せっかくですので読んでいきましょう。

神父諸師よ、修道僧とはいったいなんであろうか?現代の文明社会において、この言葉は時にはすでに嘲笑とともに口にされ、またときには罵言として用いられている。そして、日を追うごとに、ますますその感が強い。なるほど、たしかに修道僧の中にも怠け者や、淫乱な人間、好色漢、恥知らずな浮浪者などが大勢いる。それらをさして俗世の教養ある人々は言う。「お前らは怠け者で、社会の無益な屑だ。お前たちは他人の労働で生きているのだ、恥知らずな乞食め」だが実際のところ、修道僧には、孤独を渇望し、静寂の中での熱烈な祈りを望んでいる謙虚で柔和な人がきわめて多いのである。そうした人たちのことを世間はあまりさし示そうとせず、まったくの沈黙で逃げようとさえしている。だから、もしわたしが、孤独な祈りを渇望しているこれらの柔和な人々から、ことによると、ふたたびロシアの大地の救いが出現するかもしれない、などと言えば、世人はさぞ驚くだろう。

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(中)』P126-127

皆さん、この修道僧という言葉を僧侶に置き換えてみてください。そうです。私はまさにこれを日本の僧侶に対しての言葉として読んだのです。

私自身、僧侶であることに対して昔から悩みや葛藤を抱えてきました。特に僧侶が世間からどのように思われているのかということについては過敏すぎるほど悩んでいたのです。ゾシマがここで修道僧をけなす言葉の具体例を挙げてくれましたが、それは私がテレビや様々な本、ネットなどで見聞きしていたものと重なります。私自身、学生時代に飲食店でアルバイトをしていたのですが、お客さんからそのように言われたことも何度もあります。悔しい気持ちにもなりましたが、だからこそ私は僧侶として自信を持って歩みたいと逆に強く思うようになったのです。

そんな私にとってこのゾシマの言葉は実に深く刺さるものがありました。

たしかに修道僧はけなされもしているが、真に求道に励む者もいる。そしてその真に求道に励む人たちがいつの日か世を照らすのだ!

私はゾシマに背中を押されたような気がしてなりませんでした。私の僧侶としての道にはゾシマの言葉があります。そういう意味でもこの章で語られるゾシマの言葉は私にとって大きな支えとなっています。

そしてこの直後に語られる「科学と自由の時代」への批判も強烈です。これはまさに現代を生きる私たちにもそのまま当てはまるものでしょう。

特に「孤独になった人間にとって、全体のことなぞ、何の関係があるだろう」という言葉はまさしく現代を表しているように思えてなりません。

この章のゾシマの言葉は私たちの生き方にも直結する教えです。難解な神学や哲学はここでは展開されません。ゾシマらしい率直な言葉で私たちのありようを問いかけてきます。

宗教的説法ということで現代日本人にはなかなか馴染みにくいかもしれませんが、傾聴に値する大事なお話だと私は信じています。

続く

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