ほぼすべ|第五話(最終話) ポストカード
「送らな、届かへんよ」
スミレがそう言うと、ヨッシーはスマホを見たまま固まった。
サイゼリヤのテーブルには、ほとんど空になった赤ワインのデキャンタと、骨だけになった辛味チキンの皿があった。
ミラノ風ドリアも、もうすっかり冷めている。
「今、送る流れやんな」
「まあ、流れとしてはね」
「でも、送信ボタンって、なんか怖ない?」
「怖い」
「怖いよな」
「怖いよー」
スミレは、あっさりうなずいた。
ヨッシーが少し意外そうな顔をした。
「スミレでも怖いん?」
「怖いに決まってるやん。私を何やと思ってんの」
「ほぼすべの神」
「神、サイゼでアイスティー飲まへんやろ」
「飲むタイプの神かもしれん」
「庶民派すぎる」
スミレは笑った。
でも、ヨッシーの指は、まだスマホの画面の上で止まっていた。
地球の人。
地球と描いて、SAKABAと読む店で出会った人。
ヨッシーは、その人に送る文章を何度も見直していた。
この前はありがとう。
少しやったけど話せて楽しかったです。
またよかったら、ごはんでも行きませんか。
スミレが直した文章だった。
硬すぎず、軽すぎず。
ヨッシーらしさが、少しだけ残るくらいの普通の文章。
「あんね」
スミレが言った。
「私、ひとつ思い出した」
「何を?」
「ポストカードの話」
「ポストカード?」
「新人の頃の話。なりたての時」
ヨッシーはスマホから顔を上げた。
「それ、ほぼすべ?」
「ほぼすべではないかも」
「珍しいな」
「でも、送信ボタンの話ではある」
スミレは、アイスティーのグラスを両手で包んだ。
「新人の頃な、めちゃくちゃ怖い先輩がおってん」
「怖い先輩」
「うん。指導者の先輩。今思えば、ちゃんと教えてくれてたんやけど、その時の私はもう、毎日びびってた」
「新人あるあるやな」
「廊下の向こうからその先輩が歩いてきたら、資料探すふりして棚見るくらい」
「完全に避けてるやん」
「避けてた。話しかけるのも怖いし、怒られるのも怖いし、何か言われる前から心の中で謝ってた」
「先に謝るタイプ」
「そう。心の中で土下座してから出勤してた」
ヨッシーは小さく笑った。
「で、ある日」
スミレは続けた。
「休みの日に、ショッピングモールでその先輩を見かけてん」
「最悪やな」
「最悪って言うな。でも、その時はほんまに、うわ、見つけてしまった、って思った」
「声かけたん?」
「一瞬、無視しようと思った」
「正直やな」
「正直、柱の陰に隠れようかと思った。でも、その先輩がポストカード売り場で、めっちゃ真剣にカード選んでてん」
「ポストカード売り場」
「花柄とか、犬とか、外国の街並みとか、いっぱい並んでるところで」
「似合わんな、怖い先輩」
「そうやねん。病院では怖いのに、ポストカードの前では、普通に迷ってる人やってん」
スミレは少し笑った。
「それ見たら、なんか急に、あ、この人も仕事以外の時間あるんやって思って」
「そらあるやろ」
「新人の時って、先輩のこと先輩としてしか見られへんねん。家帰ってごはん食べるとか、買い物するとか、カード選ぶとか、そういう想像が全然できへん」
「わかる気がする」
「で、勇気出して挨拶してん」
スミレは、少し背筋を伸ばした。
「お疲れさまです」
「休みの日に?」
「休みの日に」
「先輩は?」
「めっちゃびっくりしてた」
「そらそうやろ」
「でも、“あ、スミレさん”って、普通に笑ってくれて」
スミレは、グラスの氷を見た。
「それだけやねん。その日は、それだけ」
「うん」
「でも、次の日。私の連絡ボックスに、ポストカードが入っててん」
ヨッシーの表情が少し変わった。
「その先輩から?」
「うん」
スミレは、ゆっくり言葉を選んだ。
「そこにはね、“私のこと怖いと思ってるかもしれないけど、私も指導に慣れてなくて、ごめんね”って書いてあって」
ヨッシーは黙って聞いていた。
「“スミレさんは、ちゃんと成長しています。体調に気をつけて、一緒に一人前の作業療法士になりましょう”って」
スミレは少し笑った。
「一緒に、って書いてあったんよ」
「ええ先輩やな」
「うん。めっちゃ怖かったけど、ええ先輩やった」
スミレは、アイスティーのストローを指で少し回した。
「あのカードがなかったら、たぶん私、もうちょっと早く折れてたと思う」
「そんなに?」
「うん。新人の頃って、褒められてるかどうかより、自分がここにおってええんかどうかがわからん時あるやん」
「あるな」
「でも、そのカードで、あ、私はここにいてもええんやって思えた」
ヨッシーはスマホを伏せた。
スミレは続けた。
「気持ちって、心の中に置いてるだけやと、相手には届かへんのよ」
「うん」
「ポストに入れて、初めて相手の連絡ボックスに届くねん」
ヨッシーは、しばらく何も言わなかった。
ドリンクバーの方から、またメロンソーダの泡立つ音がした。
「……やっぱ、送らなあかんかな」
「うん」
スミレは笑った。
「送らな、届かへんよ」
ヨッシーは、スマホを手に取った。
画面を開く。
その瞬間、通知が鳴った。
二人とも、少しだけ動きを止めた。
ヨッシーが画面を見た。
目が、少し大きくなる。
「……来た」
「え?」
「地球の人」
ヨッシーは、嬉しさを隠せていなかった。
そして、隠す努力をする前に、スミレに画面を見せた。
こんばんは
今度、ご飯行きませんか?
スミレは画面を見た。
短い文章だった。
でも、ちゃんと届いていた。
少しだけ息を止めて、それから笑った。
「ほら」
「ほら?」
「向こうは、ちゃんとポスト入れてきたやん」
ヨッシーは、スマホを見たまま笑った。
「ほんまや」
「よかったやん」
「うん」
「返信、硬くしたらあかんで」
「また添削してくれる?」
「有料です」
「デキャンタ代?」
「今日は私の勝ちやから、払わん」
「まだ判定してへんやろ」
「してる。今日のベストオブほぼすべは、ポストカード」
「ほぼすべちゃうって言うてたやん」
「でも、すべってない」
ヨッシーは笑った。
「タイトルつけるなら?」
スミレは少し考えた。
「未配達のポストカード」
「ええタイトルや」
「でも、ほぼすべとしては弱いか」
「いや、今日のは強いわ」
ヨッシーは、スマホを大事そうに持っていた。
スミレは伝票を見て、デキャンタ代がヨッシー側になるように、そっと向きを変えた。
「おい」
「勝者やから」
「自然に寄せるな」
スミレは笑った。
「私、ほぼすべらんなー」
ヨッシーも笑った。
テーブルの上には、空になった赤ワインのデキャンタがあった。
辛味チキンの皿には、骨が何本か残っていた。
ミラノ風ドリアの器には、焦げたチーズの薄い膜だけが、端の方に少し張りついていた。
アイスティーのグラスでは、溶けた氷が音もなく小さくなっていた。
さっきまで確かにあったものが、少しずつ形をなくしていく。
でも、皿の上には、ちゃんと跡だけが残る。
スミレはその跡を見ながら、もう一度だけ笑った。
ヨッシーに見えるくらい、いつもの顔で。
― 完 ―
『ほぼすべ』は全五話で完結です。
