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大條宗直(大條家第七世)【下】

前半はこちらをご覧ください。

「独眼竜」の異名をもつ伊達政宗と時代を共にしたことで、大條家の中でトップクラスの知名度でありながら、最も苦難に満ちた人生を歩んだ大條宗直について記述いたします(後編)


1. 豊臣秀次事件と忠誠を誓う起請文

時は流れて文禄4年(1595年)、京都では「豊臣秀次事件」という激震が走っていました。

豊臣秀次事件とは
1595年に豊臣秀吉の甥 豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられた事件です。
豊臣秀吉に実子(豊臣秀頼)が誕生した後、後継者問題が表面化。豊臣秀次は高野山へ追放され、自害を命じられました。
一族も連座して処刑され、豊臣家凋落の伏線となった悲劇です。

豊臣秀吉の甥 豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて高野山へ追放され、切腹へと追い込まれたこの大事件は、豊臣秀次の一族や近しい大名たちをも巻き込み、豊臣家凋落の大きな引き金となりました。

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豊臣秀次像
(瑞泉寺蔵)

そして、この豊臣秀次事件の飛び火を受け、伊達政宗も謀反関与の強い疑いをかけられるという絶体絶命の危機に直面したのです。

このような緊迫した状況の中、京都に滞在していた伊達家の重臣たちは、伊達政宗の無実を愚直に訴え、同時に豊臣秀吉への変わらぬ忠誠を誓うための連判起請文を提出しました。

この起請文には当時の伊達家を支える19人の重臣が名を連ねており、その中に大條宗直の名前もしっかりと刻まれています。

一對公儀 政宗不義之趣、從先年及三度、雖入御耳候、被聞召分御免被成、身上被相立之由御諚之旨、深重忝存候、今度 秀次樣御謀叛ニ付、種々達上聞候處ニ、重疊御免許、政宗進退無恙被仰付被下、家老之者迄難有存候事、
一此御芳恩ヲ忘、自然政宗覺悟違、對公儀別心表裏之義於有之者、急度致言上、御諚次第ニ政宗子息兵五郎ヲ取立、可抽忠節事、
一御當代之儀者不及申、後之御代ニ至迄、此御厚恩ヲ不忘、政宗傳子係、御奉公仕候樣可存事、
右條々若私曲偽於御座候者、此靈社上参之起請文、御罰深厚麗蒙、今生而者白瀬黒瀬之重病ヲ受、 弓箭之冥加七代迄盡、來世者阿鼻無間之地獄ニ墮、罪仕未、來劫浮事不可有之者也、仍前書如件、
文禄文禄四年八月廿四日

石川中務大輔義宗
伊達藤五郎成實
伊達上野介政景
亘理兵庫頭重宗
伊達彦九郎盛重
泉田安藝守重光
大條尾張守宗直
桑折點了齋不曲
白石若狹守宗實
石母田左衞門景賴
大内備前守定綱
中島伊勢守宗求
原田左馬助宗資
富塚内藏頭信綱
遠藤孫六郎玄信
片倉小十郎景綱
山岡志摩守重長
湯目民部少輔景康
湯村右近親元

施藥院法印
民部卿玄以法印

寺西筑後守殿
岩井丹波守殿

平重道『伊達治家記録』1973年

一、公儀(豊臣秀吉)に対して
政宗が不義を働いたということが、先年から三度にわたり、公儀の耳に入りましたが、その都度、公儀はよく聞き分けられ、政宗を許し、身の上を立ててくださったとのお言葉を賜り、深く重く感謝し、身に余る思いでおります。
今回、秀次様の謀叛に際し、種々の噂が上聞に達しましたが、重ねてお許しを賜り、政宗の進退についても無事であるようお言葉をくださり、家老の者たちまでが難なく過ごせるようになりましたこと、誠にありがたく存じます。

一、このご恩を忘れ、もし政宗が覚悟を誤り、公儀に対して別心を抱き、表裏のある行動を取ることがあれば、急ぎその旨を言上し、お言葉に従って政宗の子息・兵五郎(伊達秀宗)を立て、忠節を尽くすべきこと。

一、今の御代はもちろん、後の御代に至るまで、このご厚恩を忘れず、政宗の子孫に至るまで、公儀に奉公するよう心がけるべきこと。

右の条々に、もし私心や偽りがあるならば、この霊社に参り、起請文を立てた通り、厳しい罰を受け、今生においては白瀬・黒瀬の重病に苦しみ、弓箭の加護も七代まで尽き、来世においては阿鼻地獄・無間地獄に堕ち、罪を償い、来世においても浮かぶ瀬がないことを誓います。よって、前書の通りです。

文禄四年八月二十四日

石川中務大輔義宗
伊達藤五郎成実
伊達上野介政景
亘理兵庫頭重宗
伊達彦九郎盛重
泉田安藝守重光
大條尾張守宗直
桑折點了斎不曲
白石若狹守宗実
石母田左衛門景頼
大内備前守定綱
中島伊勢守宗求
原田左馬助宗資
富塚内蔵頭信綱
遠藤孫六郎玄信
片倉小十郎景綱
山岡志摩守重長
湯目民部少輔景康
湯村右近親元

施薬院法印
民部卿玄以法印

寺西筑後守殿
岩井丹波守殿

筆者訳

起請文の署名欄を見ると、石川義宗、伊達成実、伊達政景、亘理重宗、伊達盛重といった「一門衆(伊達家の近親者)」に続き、大條宗直の名前は全体で7番目(一門衆を除けば泉田重光に次ぐ実質2番目)に記されています。

この署名順からも、大條宗直が一門衆に次ぐ極めて高い家格と重きをなし、伊達家を支える中心人物として活躍していたことがはっきりと分かります。

2. 関ヶ原合戦と本領・大枝城の奪還劇

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
伊達政宗は徳川家康から「百万石のお墨付き」を取り付け、東軍として奥州・出羽で西軍の上杉景勝軍と激しい攻防を繰り広げました。

徳川家康領地覚書(百万石のお墨付き)
仙台市博物館蔵

「百万石のお墨付き」とは
慶長5年(1600年)8月、関ヶ原の戦い直前、徳川家康が伊達政宗に与えた領地約束状を指します。
政宗の東軍への協力を条件に、豊臣秀吉から与えられていた58万石に加え、当時上杉景勝が治めていた刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の7郡(約50万石)の獲得を認めたものです。
これらの地域はいずれも伊達家の旧領で、政宗が奪還を強く望んでいた土地でした。
家康は政宗に対し、自ら戦ってこれらの土地を奪取することを認めることで、東軍への積極的な参加を促したのです。
この約束は、関ヶ原の戦いにおける家康の巧みな戦略を示すとともに、政宗の領土拡大への強い意欲を物語るエピソードとして知られています。

伊達軍の至上命令は、豊臣秀吉によって奪われた旧領・伊達郡の奪還でした。
伊達軍は破竹の勢いで伊達郡へと侵攻し、大條宗直の先祖代々の居城であった「大枝城」へと攻め寄せます。
猛攻の末、伊達軍は一時的に大枝城を占領することに成功しました。
176年続いた本領を失ってから9年、大條宗直にとって会心の奪還劇だったはずです。
しかし、梁川城を守る上杉景勝方の猛烈な反撃に転じると、激しい白兵戦の末に大枝城は再び奪い返され、伊達軍はやむなく撤退を余儀なくされたのです。

梁川・松川の合戦
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いと同時期に奥州で勃発した伊達政宗と上杉景勝の激突です。
関ヶ原での東軍勝利の報を受けた伊達政宗は旧領回復の好機とみて上杉領の福島盆地へ侵攻し、松川(現・福島県福島市)付近や梁川周辺で激しい攻防が繰り広げられました。
伊達軍は鉄砲隊を駆使した戦術で攻め立て、上杉軍も梁川城代 須田長義らが猛烈な反撃を展開するなど、双方が死力を尽くす激戦となります。
しかし、上杉軍の強固な防衛線を完全に切り崩すには至らず、伊達家は悲願であった伊達郡・信夫郡の完全奪還という絶好の機会を逃すこととなりました。

この戦いの詳細な布陣記録は残されていませんが、慶長5年(1600年)10月9日には、大條宗直が桑折点了斎や白石宗直とともに連名で、伊達政宗から労いの書状を受領しています。

桑折点了斎宗長ほかニ名宛宛書状
『仙台市史 資料編11』

今度之動、仕合能満足ニ候、
今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ候條、能候ト存候
(中略)

十月九日
政宗

点了斎、白石、大尾

仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 11』2005年

今回の戦(または動き)は、結果として非常に満足のいくものでした。
少しの未解決な事象や課題もありますが、この時勢の中では仕方ないことであり、十分によくやったと考えています。
(中略)

十月九日
政宗

点了斎、白石、大尾(大條尾張)

筆者訳

3. 本領喪失の無念と気仙郡長部への転封

伊達郡大枝の地理や風土を隅々まで知り尽くしていた大條宗直の参戦は、伊達軍にとって欠かせないものでした。
旧領民への調略工作においても、大條宗直が重要な役割を果たしていたと推測されます。
それだけに、大枝城を奪い返され撤退を余儀なくされたことは、先祖代々の地を取り戻す千載一遇のチャンスを逃す結果となってしまいました。

大枝城跡
Wikipediaより)

もしこの時、伊達軍が大枝城を含む伊達郡を完全に奪還できていれば、徳川家康もその領有を認めざるを得なかった可能性が高いでしょう。
しかし、この敗戦が響き、徳川家康から約束されていた「百万石のお墨付き」は、刈田郡を除いて反故にされてしまったのです。

東照大権現像
(大阪城天守閣蔵)

大條宗直は大枝での敗戦後、5年間にわたり志田郡蟻ケ袋に留め置かれたのち、
慶長9年(1604年)、仙台藩の最北端である気仙郡長部へ所領を移されました。

悲願であった大枝奪還を果たせなかったことに対する、伊達政宗の手厳しい人事評価であったのかもしれません。

Google Mapsより(一部加筆)

ちなみに、弟の大條実頼は一足早い慶長3年(1598年)、伊達郡にほど近い伊具郡丸森に知行地を賜っていました。
この時期の大條実頼の活躍は非常に目覚ましく、伊達政宗からの信頼や存在感においては完全に兄を超えていました。
大條家の中で唯一「分家(着座大條家)」を興すことを許されたのも、この大條実頼の抜群の功績によるものでした。

大條宗直の話に戻りますと、慶長9年(1604年)8月28日、気仙郡のうち今泉、長部、竹駒、坪、高田、広田などに2,000石を賜りました。

この時に伊達政宗から拝領した黒印状は『晴宗公采地下賜録』と繋ぎ合わせ、木箱に収められ現代まで大切に保管されてきたようです → こちら

これが大條宗直にとって、生涯最後の転封となりました。

4. 境目の重責:二日市城と防備の強化

気仙郡長部の二日市城に入った大條宗直は、すぐさま精力的な領地経営に着手しました。
南部藩(南部利直)との国境に接する極めて重要な「境目(国境警備)」の拠点であったため、慶長年間に55人もの足軽を直属として組織(今泉足軽組)
二日市城の北麓にあたる田の浜に足軽屋敷を建設し、南部領に対する防備を格段に強化しました。

慶長九年より大條尾張殿為館主同年南部御境〆之為御足軽五十五人御取立罷成直々山田出雲指引被仰付候

小泉家文書
陸前高田市史編集委員会『陸前高田市史』1995年

慶長9年(1604年)から、大條宗直が館主となり、同年に南部領の境を警護するために、足軽55人を採用しました。
彼らは直接、山田出雲の指示を受けて任務に就きました。

筆者訳
二日市城(旧足軽屋敷)跡
Googleストリートビューより

5. 動乱の世を駆け抜けた生涯と真価

それから数年後の慶長15年(1610年)7月10日、戦国の動乱と度重なる転封に翻弄され続けた大條宗直は、苦難に満ちたその生涯に静かに幕を下ろしました。

伊達天正日記』において「大枝殿」と敬称付きで記されていたように、大條宗直は伊達家内において常に重厚な敬意を払われる存在でした。
真面目で実直な人柄と深い忠誠心は、伊達政宗からも揺るぎない信頼を得ていました。

しかし、生まれ落ちた時代があまりにも劇的すぎたのかもしれません。
日本の歴史上で最も個性的かつ苛烈な英雄たちがひしめき合った戦国時代の只中において、不器用で華々しい自己主張が得手ではなかった大條宗直の才能は、派手な大功という形では結実しませんでした。
それでも、大條宗直が貫いた真面目で実直な生き様こそが、大枝喪失という大苦難の中でも大條家の血脈と矜持を守り抜き、後世へと伝える確固たる礎石となりました。

華々しい名声こそなくとも、主君への忠義を貫き、堅実に領地と家臣を治め続けた姿勢こそが、乱世を生き残る最大の力となったのです。

地に足の着いた誠実な生き様が、結果として乱世における家名存続の鍵となった――
大條宗直の足跡は、歴史の真実と武士の真価を静かに物語っています。


◼️参考資料
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭志』1966年
平重道『伊達治家記録』1973年
陸前高田市史編集委員会『陸前高田市史』1995年
野本禎司『古文書が語る東北の江戸時代』2020年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 10』2005年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 11』2005年


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