私が彼の「灯」になるまで ――愛の証明問題(別解)|(1)
【あらすじ】
完璧な優等生を演じ、家庭という戦場を生き抜くために自らをも「ハック」する少年・相沢直哉。その仮面の裏側に潜む「泥」のような本性を、同じ学び舎の少女・古谷遥だけが見抜いていた。周囲から「高嶺の花」と仰がれる遥もまた、冷徹な選別眼を持つ計算高い魂の持ち主。彼女は直哉の「聖域」に踏み込むべく、執拗に、そして甘美な毒を持って彼を侵食していく。
中学時代の衝撃的な告白から、高校時代の理科室での危うい攻防、そして、……。
ヒロイン・遥の視点から描いた、緊迫感溢れる回顧録的ラブストーリー。
ーー15歳の彼は家族をハックした。ーー
序章:深夜二時の聖域
深夜、海から吹き上げる潮風が、窓をわずかに揺らしている。
寝室のカーテンの隙間から差し込む月光が、隣で眠る男――相沢直哉の横顔を淡く照らしていた。
規則正しい寝息。社会人として、あるいは二児の父として、日中の彼がいかに「誠実で、論理的で、完璧な男」を演じているか。その反動が、この無防備な沈黙に凝縮されている。
私は、彼が寝返りを打つたびにわずかにのぞく、その白い首筋を見つめる。そこには、私がかつて衝動に任せて刻みつけた「焼き印(歯形)」が、今は見えない痕跡となって私の記憶の中にだけ鮮明に焼き付いている。
小学校から高2までは相沢くんと呼んだ。
高3のときから子供が生まれるまでは、直哉あるいは直哉さんと呼んだ。
今では「あなた」あるいは「お父さん」と呼ぶことばかりになった。
今、私の隣で平然と眠っているこの男は、かつての私--古谷遥、今は相沢遥--にとって、攻略すべき難攻不落の城塞だった。
小学校から高校まで、同じ学び舎で同じ空気を吸い、同じ景色を見て育った。けれど、彼という人間に本当の意味で「触れた」のは、あの中学時代の放課後、夕闇がすべてを曖昧に溶かし始めた、あの階段だった。
第一章:泥の聖域 ――中学三年の「告白」
中学の頃の彼は、涼しい顔で学年上位の20%に居座る、鼻持ちならないほど出来の良い優等生だった。
塾にも行かず、必死さも見せず、教科書を一度なぞるだけで、その程度の成績を軽く出してみせる。
そんな彼が、高校入試直前になって本気を出した途端、学年順位一桁の常連になった。
まるで「その気になればいつでも獲れる」と、周囲を見下すように証明したのだ。
けれど、その傲慢で毅然とした仮面の裏側に、私は「冥い(くらい)何か」を感じていた。
年に一度、その内面の歪みが、制御不能な破壊衝動となって爆発する。
あの日、彼がクラス中から毛嫌いされていた傲慢な男子――女子の99%から嫌われていた、あの救いようのない男子を殴り飛ばしたと聞いたとき、私は驚かなかった。
むしろ、すとんと腑に落ちたのだ。
「ああ、やっぱり持っていたのね」と。
中学校のグラウンドに下りるコンクリートの階段。
夕闇が迫り、鴉の声が響く中、私は玄関前で彼と鉢合わせた。
例の暴力事件に興味が湧いて、彼を呼び止めた。そして、コンクリートの階段に並んで腰を下ろして、ゆっくりと話をした。
驚いたのは、お互いに顔と名前を知っているだけの間柄なのに、彼が初対面に等しい私に対して、自らの「内なる泥」を一切隠さず、淡々と、けれど喉を掻き切るような切実さで語り始めたことだ。
「俺の家は教員の家系で、親2人も教員なんだ。だから、何かあれば『さすが先生の子』とか『教員の子のくせに』とか言われる。そのレッテルに、もう、ウンザリなんだ。嫌なんだ」
彼の声は、海に沈む夕日のように冷たく、暗かった。
「特に母が最悪だ。外面ばかり取り繕って、家の中では姑の顔色を窺い、父からは見捨てられて……その鬱屈をヒステリーに変えて俺たちにぶつける。兄貴たちは壊れたよ。一人は口先だけで逃げ回り、もう一人は自分の世界に閉じこもった。でも、母は兄の日記を勝手に盗み見て、なじり倒すんだ」
彼は、兄たちが壊れていく様を観察し、家という戦場で生き残るための「最適解」を導き出していた。
「学業で成果を出し、家事を完璧にこなす。そうすれば、あの女の矛先は俺には向かない。……古谷さん、引かないで。俺、家に帰りたくないんだ。あの母親がいる家に帰るのが怖くて、毎日わざと遠回りして、時間を潰して帰ってるんだ」
「……例えば、そうそう、母親が怒り狂うパターンが読めたから、家の掃除のタイミングを計っているんだよ。ちょうどあの女が帰宅する時間帯に、目の前で掃除するって感じで。父親も賛成したよ。『それなら、掃除してない!私に家事を全部、押し付けるのか!と怒り出す口実を潰せるな(笑)』だってさ。この程度の知恵も、父や兄には無かったのさ」
私は震えた。
明朗な優等生というメッキの下に、これほどまでに荒廃した風景が広がっていたなんて。
相沢くん、あんたはまだ15歳だよ。
お兄さん達はまだまともよ。私だってお兄さん達のように反応するわ。
でも、君のやり方は・・・・・・。
とても中学生が編み出した方法とは思えない。
お母さんと商売の取引でもやろうっていうの?
……いいえ、お母さんをコントロールしようっていうの?
自分の学業成績と家事手伝いを差し出して、そういうことでしか、家の中で息もできないの?
……いや、彼はこう言った。お母さんの「矛先が俺には向かない」って。
……え?お母さんをコントロールしているってこと?それを高校、そして大学まで続けようと言うの?
「アイツを殴った翌日の夜、両親が詫びに行ったんだ。俺は車の中で待たされた。アイツのクソみたいな母親から、一時間も嫌味を言われ続けている両親を思って、俺は決めたんだ。もう、二度とこんな思いはしたくない。だから、俺は徹底的に『孝行息子』を演じ切ることにしたんだ」
その告白を最後に、彼は私を避けるようになった。
自分の弱さを晒したことへの後悔、あるいは気後れ。
「これ一回だけだし、高嶺の花の古谷さんなら、後腐れなく吐き出せる」とでも思ったんでしょう?
でも、私は逃がさないと決めていた。
だって、あの日、彼が私に見せたのは「泥」ではなく、誰にも触れさせない「聖域の鍵」だったのだから。
「……何それ。お母さんのこと、攻略対象のラスボスみたいに扱ってるの?」
あの日、私は、自分の声が少し震えているのがわかった。
実家の商売を通して、大人の汚い裏側は見てきたつもりだった。
けれど、自分の親を黙らせるために、掃除のタイミングまで「計算」して、完璧な息子を演じてみせるなんて。
自分の魂を切り売りして、家の中に「自分の居場所」を無理やりこじ開けている。
そのあまりにも歪んだ、中学生離れした「生存戦略」に、私は恐怖と……それ以上の、猛烈な好奇心を感じていた。
「かわいそう」なんて、安っぽい言葉じゃ足りない。
誰も見つけていない、毒を含んだ未知の元素。
触れたら指が焼け落ちそうだけど、絶対に手放したくない。
「……なおや……いや、相沢くん。あんた、それ、一生続けるつもり?」
……そう、彼の内面を知っているのは、恐らく、彼のお父さんを除けば私だけだわ。
直哉との間に子をなした妻……いいえ、正嫡の妻になった今だから、お義父さんの言葉の意味がはっきり分かるわ。
……お義父さんは彼の内面を知っていた。
お義父さんは、私にはっきりとそう言った。
「直哉は自分の領域を守るために、家族の中で役割をきっちりこなす。だから、内面には入らせない。大学時代も、直哉は就職試験の模試の結果通知を、ここに送りつけて、俺と母親の小言を完封して見せたよ」って。
お義父さんは彼と組んで、お義母さんのヒステリー発動条件を押さえ込んだ同志、戦友。そして父子だわ。
……直哉、大学まで自分のやり方で、完全にご両親をハックしてみせたのよね。15才から22才にかけての8年間!
お義父さんとお義母さんは明言しないけど、直哉を「自慢の子」だと誇らしく思っているみたい。言わなくても分かるわ。
……ねえ、直哉、あなたはどう思っているの?
……思い出した!あなた、こう言ったわ。
「家族も、親でさえも、義務を果たして、初めて対等に話をできるんじゃないかな」って。
なら、私、あなたにとって完璧な女なの?
ひょっとして、直哉。
……もう、演技なのか、それともその振る舞いを血肉化したのか、あなたにも分からなくなったの?
