大作冢 徑百餘歩 〜 自分の世界 〜
大作冢 徑百餘歩
魏志倭人伝に書かれた「卑弥呼の墓」の形状を表した有名な一文である。
何度この文字を見返したことか・・。
この文字から私が受けたインスピレーションをChatGPTに描いてもらったのが上の図である。
太陽信仰があったと思われる卑弥呼がいた時代に始めて古墳(墳丘墓)を造るとしたら、やはりこの形(半球)じゃないだろうか。
多くの人が同意すると思いたいが、どうしても身近で見られる高さが低い円墳や、変なカタチの前方後円墳のイメージが先入観としてあるので同意しにくい、といったところか。
Don't think. Feel.
「徑百餘歩」だけでなく、「水行二十日」「水行十日陸行一月」など、魏志倭人伝の文章には解釈が分かれる文が幾つもあるが、それらが一つの正解を導き出さない事は、ここ数百年の歴史が証明してきた。そしてまた、数多の歴史学者や古代史マニアは既にその正解を必要としておらず、オリジナルの答えを導き出す事に生き甲斐を感じている。いやむしろ、これまで何年、何十年も研究してきた自分の説が根底から覆されるのが怖く、正解が分からない事を願っている人の方が多いかもしれない。まさに自分の世界。
時はきた!
最初に断っておくが、私は終末論者ではない。しかし近いうちに「南海トラフ地震」はくると思うし、再び「核戦争」が起きるかもしれない。そして肥料高騰、不足が食糧危機を招くことが現実味を帯びてきている。それらにより色んな形ある物が壊れるのも間違いないだろう。
私が “邪馬台国” だ “卑弥呼” だと言い出して既に1年が過ぎた。何かに導かれるように山鹿市に辿り着いたのだが、卑弥呼が “そろそろ見つけて欲しい” と私に訴えかけている気がしてならないのだ。
知っている人は知っている
前回記事の中では、「神社」などの建物を卑弥呼を守る結界のポイントから外したが、最後の結界には四坊とある人物も絡んでいるようなので、それを最後に示しておこうと思う。

そしてその間にはある人物の御墓がある
現代に生きていた人物が関係しているのを見ると、やはり ”知っている人は知っている“ のが分かる。
以前、応神天皇陵を発見した時も同じ様な感覚を覚えた(下記記事)。
ここのところ毎回記事に載せている「卑弥呼墓」だが、またあらためて載せておく。

最近分かった事たが、頂には ”祠“ が祀ってあり、近隣の人々からは「権現さん」と呼ばれ親しまれている。
しかし、誰もこれを “古墳(墳丘墓)” だと知らない。

(追記)
これも地元の人に聞いた話だが、昔はこの卑弥呼墓の裏手から八方ヶ岳に登るルートがあったらしい。
