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他人の違和感を、自分の基準にしない。


自分が人前で何かを話したり、表現する時、

他人が違和感を感じる瞬間が、怖かった。

首をかしげたり、
「ん?」という表情をしたり。

少しでも人のそんな動作を感じ取ると、途端に体の奥が反応して、自分をガッと縛り付けた。

もうこれ以上、話してはいけない。
私を、表現してはいけない。
もっとうまく、「ふつう」をやらなきゃ!って。


今の私は、たくさん休んで、自分と向き合って、昔よりは過剰に萎縮することがなくなったと思う。

でも。

まだ体に染み付いて、しつこく残ってる何かがある
……ということに、最近気がついてしまった。


もしかして、これを読んでる他の方にもあるあるかもしれない、
と思って、勇気を出して話をしてみる。

繊細な人やINFJの人から、よく、
「私、ひとり反省会をしがちなんです」
って話を聞く。
すごく共感する。

「もっとああいえば良かった」
「あの場はもっと違うノリでいくべきだったかも?」
そんな風に、少し前の記憶を一人になってから脳内で再生する。

前よりは自分に優しくなれたと思ってた私だけど、
落ち着いた今、この「ひとり反省会」とは認識できない、
無意識の「隠れひとり反省会」が、私の脳内で起きていた。

それはこんなものだ。
「ん?思い返すとなんか、みんなの反応が変だったかも?」

「それにしても、あの人のあの返事、無難でよかったな✨」

「……あぁ、そっか。あの場面はもっと、ああいう態度で行くのが一般的だったか!今度からそうしよう💡」

過度な自己卑下や萎縮が落ち着いて来たからこそ、逆にできるようになって始まった、「コミュ力学習期」。

落ち着いて周りを見て、「ふむふむ!参考になるな~」「私のあれはちょっと違ったな😅」「次からはこうしよう!」……みたいな。

確かにそれは、自分を成長させることには役立ったかもしれない。

でも、やっぱり、それを毎晩し続けること自体、
「私は不完全な人間だ」と決めつけることであったと、気がついた。


それすらもいらないんだよ、本当は。

だって多くの人は、
そんなことすらも考えないから。

自分がとった行動や放った言葉を、
巻き戻して再生して、
それを俯瞰して評価をつける
……なんて小難しいこと、しない。

全くゼロなわけじゃないと思う。でも、私たちはそれを、かなり日常的にやりすぎている。当たり前のように。

時には自分の心の声をちゃんと聞いてあげたり、
「このまま受け入れられるんだ」っていう安心感を基に言葉を放ったり、
自分を褒めてあげたり。

そういうことが同じくらい、あるならまだいい。

でも無いのだとしたら。

かなりアンバランスな形で、この「建設的な学習💡」と見せかけた脳内反省会を、自分に強い続けてきたことになる。

そうじゃなくて、ただ自分を責める時間になっている人の場合、なおさらきついはずだ。

それって実は
「私は私であってはいけない」と、
体の奥に刻み込むことだ。

……いや、もしかしたら。

既に体に刻み込まれていたからこそ、そんな反応を繰り返していたのかもしれない。


どうして、「私は私であってはいけない」と思ってしまうのか。
それは、個々にそれぞれ、理由があるはずだ。

ここで少しだけ、私の話をさせてほしい。

昔の私は、お家の環境は恵まれなかったけど、学校は好きで、「学校に恵まれたんだ」そうありがたがっていた。

けれど大人になってからのある日、それを話して信頼する人から言われた一言で、揺らいでしまった。

「へえ、それって先生とかが守って、話を聞いてくれたってことかな☺️」

……いや、それはなかった。

私は自分で言うのもなんだけど、おとなしくて真面目な方で、先生の記憶に残らないタイプの生徒だったと思う。

先生と仲良くなって職員室に入り浸る生徒でもなかったし、
保健室の先生に甘えにいく的なドラマみたいなことも、一切なかった。
先生と話したり、保健室に行くのは、必要な時だけ。

言葉を投げてくれた相手が、あまりに無邪気に「先生が理解してくれてたんだね」と言うので、
私は初めて、私が置かれていた環境の過酷さを知った。

事情があって、私は家で起きてることは一切外に漏らせなかったからだ。
(一回だけ、受験期の担任には流石に話そうと思って話したら、あまり相手にされなくて、静かに心を閉じたこともあった。)

私が学校に安心感を感じていたのは、
ただ、「家のような攻撃を受けないで済む場所だったから」
それだけ。

そんな当たり前のことをありがたがって、何年も学校生活を続けてきた。

ここからが大事なこと。

それって今思えば、
家に居場所がない分逆に、
「学校という居場所を絶対に守り続けなければいけない」というプレッシャーの中に置かれてたってことだ。

友達が優しかった。いじめがなかった。
もちろん周りの人たちの人間性が高かったとも言える。
でも同時にそれは、自分で必死に築き上げてきた人間関係だったとも言える。

思い返すと、友達との間で私が、
忍者みたいに技巧を凝らして避けていたことも、
カメレオンのように細かく表情や態度を変化させてきたことも、全部、
学校という自分にとっての命綱みたいな場所を守るためのことだった。

これを読んでくださってるみなさんのなかにも、あるんじゃないかな。
そんな風に
思い返せば常に、人の表情を伺い続けなければならなかった
という経験が。

そうさせた、何かトラウマ的な体験を持つ人も、いるのかもしれないし、
ただ自分の感性がそうさせてきた、という人もいるかもしれない。


話を表題に戻すと、それが私の中に
「他人の反応をきちんとキャッチして、逐一自分のコミュニケーションに反映させなければならない」
という、無意識の生存戦略を生んでいた。

他人の違和感を、基準にしてしまう。
そんなことが、完全に当たり前になっていた。

しかしここで、ものすごく当たり前なことを言わせてもらう。

もし他人が違和感を持ったとしても、その違和感は、その人だけが持っていればいい。

私たちがどうこうして、処理することではない。全く。

もっと言うならば、その違和感を、こちらが感じ取ってあげなくてもいい。

私たちは本来、
自分が思うように言葉を放って、それを受け入れられることを信じていいんだよ。


だけど、そうわかっても、すぐに信じられない人の方が多いと思う。
私もそうだ。

そんなときはまず、自分を変えよう、信じよう、と頑張るより先にすることがある。

それは
自分が本当に安心できる場所
自分が本当に深く呼吸できる場所

を探してそこへ行くこと。

「他人の違和感」を、こちらが感じ取らないで済む場所。
もっと共感してくれる人。
あるいは何も言わないでいてくれる人。
あるいは落ち着いた態度や行動が、取れる人たちのところ。

SNSやnote上でもいい。
自分で作ったり、静かに自分を癒せる時間をとったりするでもいい。

そういう環境に身を置いてしばらくすると、自然と心から安心して、
「他人の違和感を基準にしていた」過去の自分を、外側から見られる時がやってくる。

その時になって初めて、
ガチガチに働いていた戦略部隊を、自分から下すことができる。

それでも、敏感な時期に染みついた癖は、なかなか外れないこともある。

その時には、こんな言葉をかける。
「過去の自分を守ってくれて、ありがとう。
もう必要ないよ、さようなら。」

自分を責める自分を罰する必要なんて、ひとつもない。
過去には確かに必要だった盾なのだから。

そして、今すぐに、それをする必要もない。
まずは安心できる場所から。

だから、焦る必要はない。

少し人と違う経験をしてきた私たちは、
それだけ感情や、考えることが人と違うかもしれない。
それは当然のことだ。

周りと自分が、違うものを持っている。

その事実に、言えることがある。

それは、その違いがあること自体が、
自分の否定になるわけじゃないってこと。

逆だ。

違いは、「存在していい」ってことだ。

だって、相手も自分も、平等だから。

自分ばっかりが自分を否定して、思ったことを取り下げて、息を押し殺し続けなければいけない理由なんて、どこにもない。

あなたが思ったのなら、考えたのなら、
何かをいいと思ったのなら、
綺麗だな、素敵だな、
こうしたいな、こうありたいな、
これがほしいな、これをやってみたいな、

そう思ったのなら、それは存在させていいし、
自分が生きてる証拠だ。

手を見てみる。私には体がある。形がある。

今日から、私が、私の基準になる。



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ここまで読んでくれてありがとうございます。

言いっぱなしもあれなので、ちょっとだけ、私のnote内での思考の行き先を🕊️

なんかいつも、他人軸に左右されてしまう…と感じる方へ👇

他人の声を聞きすぎて、自分の大切なものすら見失ってしまいそう(もしくは見失ってしまった…)という方へ👇

あ、そういや私に体があるんだ…とふと思い出した方へ👇


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