平坦な戦場でポジションを取ること――呉智英、須原一秀、finalvent、そして思想の修正パンチ

All eyes on positions...


1. だる絡み記事からF爺が出てきた

佐々木中のXポストを受けて、短いnoteを書いた。

タイトルは「フーコー読みのフーコー知らずへのだる絡み」。

ニーチェを訳し、フーコーを論じる人間が、皇室典範や皇位継承の制度論を前にして、「時代遅れは女性差別家父長制政党の自民」といった道徳罵倒へ即落ちするのは、さすがに奇妙ではないか、という話である。

フーコーを読むなら、まず「家父長制」という断罪語そのものが、どの制度、知、権力、メディア配置の中で作動しているのかを見るはずではないか。ニーチェを読むなら、「時代遅れ」という進歩史観の語や、近代道徳の説教壇にそのまま戻ること自体がまずいはずではないか。

そういう短い記事だった。

正面からの論文的批判ではない。英語で言えば、a snarky drive-by である。通りがかりに一発撃っておく。ついでに撃ってやった、くらいのものだ。

ところが、そのnoteの「こちらもおすすめ」に、finalvent の「『空虚な正義』の統治構造――現代日本における正義言説と象徴天皇制のイソモルフィズム――」が出てきた。

フーコーつながりではある。

読んでみた。

すると、佐々木中とは別種の違和感が出てきた。

2. 佐々木中はワックである。finalvent は退く

佐々木中への違和感は、かなり分かりやすい。

問題の発話は、「時代遅れは女性差別家父長制政党の自民」といったものだった。

佐々木中のおばか発言をDrive byしたところ

これは、率直に言って不用意すぎる。というより、Philosopher を名乗る人間の発話としてはワックである。

https://x.com/AtaruSasaki

まず「時代遅れ」。

これは、ほとんどそのまま進歩史観の語である。歴史には正しい進歩の方向があり、その方向に遅れているものは批判されるべきだ、という構図が入っている。ニーチェを読むなら、まずそこを疑うはずではないか。フーコーを読むなら、「時代遅れ」と呼ぶことで、何が正常化され、何が逸脱として処理されるのかを見るはずではないか。

次に「女性差別」。

皇位継承や皇室典範をめぐる制度論を、いきなり近代リベラル道徳語で断罪している。皇位継承制度をめぐって女性差別という論点がまったく存在しないと言っているのではない。だが、そこには血統、祭祀、象徴天皇制、近代国家、皇室制度、政党政治、メディア言説が絡む。それを飛ばして「女性差別」とだけ言うなら、分析ではなく断罪である。

さらに「家父長制」。

フーコーを読むなら、家父長制という語は、まず分析対象になるはずだ。その語がどの制度、どの知、どの権力、どの専門家言説、どの運動言説、どのメディア配置の中で作動しているのかを見るはずである。ところが、ここでは「家父長制」がただの罵倒語になっている。

最後に「自民」。

自民党を一枚岩の反動政党として扱っている時点で、政治認識として粗い。自民党内には、保守派もいれば、親中派もいる。リベラル寄りもいれば、官僚接続型もいる。左巻き側から石破再登板待望論が出たりもするし、岩屋毅のような存在もいる。それをまとめて「女性差別家父長制政党の自民」と言ってしまうのは、政治分析ではなく、道徳的な雑ラベリングである。

つまり、「時代遅れ」「女性差別」「家父長制」「自民」の全部が雑なのだ。

これは単なる左派発言ではない。フーコー読み、ニーチェ読みとしての事故である。Philosopher を名乗るなら、なおさらやってはいけない雑さである。

佐々木中は、左派道徳語へ落ちたというより、そもそもワックである。

だが、finalvent は違う。

finalvent は、佐々木中ほど雑ではない。現代リベラル正義、規範化、自己検閲、フーコー的統治性というところまで見ようとはする。「正義」や「多様性」や「インクルージョン」が、内容を欠いたまま道徳的権威として作動し、人々の自己検閲や内面矯正を生むという構図も見えている。

だからこそ、finalvent の問題は別のところにある。

佐々木中はワックである。

finalvent は退く。

佐々木中は、哲学の名で雑な道徳語へ落ちる。finalvent は、読めるふりをしながら、最後のところで立たない。前者は粗い。後者はダサい。

しかも、どちらもネット上ではそれなりに読まれている。佐々木中はXで約2.5万フォロワー、finalvent も約2.4万フォロワー規模の書き手である。無名の雑言ではない。だからこそ、そこで何が起きているのかを見る意味がある。

finalventのXプロフィール

3. F爺、フーコー、そしてダサい退却

finalvent は、かつてのネット界隈で「F爺」とも呼ばれていた。

愛称であり、蔑称でもある。

知性はある。読める。文章も書ける。ネットの言論空間で、長く独特の位置を占めてきた人でもある。Xでも二万数千フォロワーを抱えている。つまり、これは単なる昔の個人ブログの老人芸ではない。いまも読まれている知識人ポジションの書き手である。

だが、その呼び名には、ある距離感が含まれている。

F爺。

爺である。

世俗から少し離れたところで、仙人のようにものを言う。俗世の右左には簡単に降りない。分かっているような顔で、少し高いところから眺める。そういう態度への愛憎が、この呼び名にはあった。

今回問題にしている finalvent の記事は、フーコーを雰囲気で使っているわけではない。「空虚な正義」の議論では、フーコーの具体的な著作を援用しながら、現代の正義言説、規範化、統治性を読もうとしている。そこまではいい。

だが、その結論が腰が引けている。

フーコーを読むと、必ずそうなるのか。権力を見たら、主体形成を見たら、統治性を見たら、もうポジションを取れないのか。高所から距離を取るしかなくなるのか。

そうではない。

そこはAI批評として確認した。finalvent が援用したフーコーは、必ずしも仙人ポジへ退くための思想ではない。権力や規範が主体をどう作るのかを見たうえで、なお自分がどこに立つのかを問い返すことはできる。

だから、finalvent の退却はフーコーの必然ではない。finalvent の読み方の問題である。

ついでに言えば、天皇制読解も違う。

finalvent は、現代リベラル正義の空虚な中心と、象徴天皇制の中空構造を同型に見ようとする。だが、そこは違う。現代リベラル正義は、抽象語が身体と制度を飛ばすことで空虚になる。象徴天皇制は、政治権力を空けることで、血統、祭祀、継承、国家の時間を保持する。空いている場所の意味が違う。

天皇は、政治権力を持たないから無内容なのではない。むしろ、政治権力から切り離されることで、血統、祭祀、継承、国家の時間、国民統合の結節点として機能している。それをどう評価するかは別問題である。だが、それを現代リベラル正義の空虚さと同型に置くのは、天皇制の読解としても粗い。

つまり finalvent は、フーコー読解でも腰が引けているし、天皇制読解でも外している。

読めているようで、肝心なところが読めていない。読めていないから、最後に退く。退くから、ダサい。

これは、世代の問題ではない。

ネット老人だから退いたのではない。古い知識人だから立てなかったのでもない。問題は、読めているようで、肝心なところが読めていないことにある。

では、世代の問題ではないなら、何が違うのか。

ここで呉智英を置く必要がある。

4. 呉智英の「封建主義者」と、PFPで思想を見ること

では、退かない知性とは何か。

ここで呉智英を置く。

finalvent は1957年生まれである。呉智英は1946年生まれである。呉智英の方が年長だ。しかも呉智英もまた、戦後民主主義の空気、GHQ体制下の教育、平等主義、人権主義、進歩主義が正義として流通する日本語公共圏をくぐっている。つまり、finalvent が仙人ポジへ退くことを、世代や時代環境のせいにはできない。

同じ戦後日本をくぐっても、立てる知性は立てる。

呉智英は立った。少なくとも、ぼくにはそう読める。

呉智英の「封建主義者」という名乗りは、いま見てもかなり強い。

ここで重要なのは、それがどこまで呉智英本人の標準的な理解に合っているかではない。ぼくは呉智英を、近代的正義、平等主義、人権思想を疑ったうえで、それでもなお自分の立ち位置を名乗った書き手として読む。

人権、平等、民主主義、自由、近代市民社会。そういう語彙が、無条件に善であり、無条件に正義であり、無条件に進歩であるかのような顔をすることを疑う。そこまでは、冷笑家でもできる。

だが、呉智英はそこで止まらない。

「封建主義者」と名乗る。

この名乗りが重要である。

近代を疑う。だが、自分はどこにも立たない、とは言わない。高みから全体を見通しているとも言わない。近代の正義語彙を疑ったうえで、自分の立ち位置を名乗る。

それが、ぼくの読む呉智英である。

一方、finalvent は退く。

だからこれは、時代の問題ではない。世代の問題でもない。知性の差である。

F爺は、フーコーを援用しても腰が引ける。天皇制を読んでも中空構造へ雑に回収する。須原を読んでも、須原が自分の生と死を pro-jet として投げ出したことを受け取れない。呉智英のように、近代の正義語彙を疑ったうえで自分の名乗りを出すこともできない。

読めているようで、肝心なところが読めていない。

だからダサい。

そして、たぶん、だから人気なのだろう。立たない知性は読みやすい。危なくない。読者も傷つかない。高所から分かったように眺める態度は、ポジションを取りたくない人間には心地よい。だが、それはリングに上がる知性ではない。戦場に出る知性ではない。

ポジションを取るとは、単に意見を表明することではない。イデオロギーを素朴に信じることでもない。むしろ、イデオロギーの無垢さが失われ、大きな哲学的立場をそのまま信じることもできなくなったあとで、それでもなお自分がどこに立つのかを引き受けることである。

ぼくはこれまで、哲学史を PFP として読んできた。

PFP。

Pound for pound である。

もともとは格闘技の語彙だ。階級が違う選手を、そのまま体重差込みで比べるのではなく、同じ条件に置いたとき、誰が一番強いのかを問う。ヘビー級だから偉いのではない。大きい体系を持っているから強いのでもない。同じリングに上げたとき、誰が通用するのか。誰のパンチが効くのか。誰のスタンスが崩れないのか。

哲学史も、ぼくにはそのように見えている。

プラトンとニーチェを同じリングに上げたらどうなるのか。カントとヘーゲルではどちらが強いのか。フーコーと呉智英を同じ条件で見たらどうか。佐々木中と finalvent はどうか。須原一秀は、そこへどんな異物として入ってくるのか。

思想とは、ただ立派な体系を並べることではない。

リングに上げることだ。

戦場に置くことだ。

そこで、どのポジションが残るのかを見ることである。

その意味で、呉智英は強い

正しいかどうか以前に、リングに上がっているからである。自分のポジションを名乗り、そのポジションを殴られる場所に置いているからである。

逆に、佐々木中はワックである。リングに上げたら、語彙が雑すぎて崩れる。finalvent はダサい。リングに上がらず、読解と距離の場所へ退く。

これでは PFP にならない。

戦場に出ていないからである。

5. 須原一秀は、自死を pro-jet にした

ここで須原一秀を紹介し直すつもりはない。

須原については、すでに別に書いている。『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』、『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組』、『自死という生き方』についても、そこで取り上げた。

ここで言うべきことは一つである。

須原は、自死をプロジェクトにした。

もちろん、自死を美化する話ではない。自死を勧める話でもない。そこは絶対に違う。

だが、須原は自分の死を、ただの終わりとして閉じなかった。自分の生と死を、後続に向けて投げ出した。読め。考えろ。引き取れ。そういう形にした。

だから、ここでいうプロジェクトとは、企画でも計画でもない。文字通りの pro-ject、自分の生を、そして死さえも、前へ投げ出すことである。

この読み方の背景には、サルトルがいる。

サルトルは、ハイデガーの被投性と投企を受けて、人間の自由、選択、自己形成を projet として読んだ。人間は、自分で選んだわけではない世界へ投げ込まれている。だが、投げ込まれているだけではない。そこからなお、自分を前へ投げ出す。未来へ、世界へ、他者へ、自分の可能性へ投げ出す。

ここで重要なのは、pro-jet が内面に閉じる語ではないということだ。

投げ込まれている。

ならば、前へ投げるしかない。

状況の中へ、世界の中へ、他者の中へ、自分を投げ出すしかない。

須原は、それを自死にまで持っていった。

だから扱いにくい。危ない。間違えれば、ただの死の美化になる。だが、そこを避けて「死んだ人の思想」として安全に処理してしまえば、須原が投げ出したものを受け取ったことにはならない。

須原の自死は、閉じた結論ではない。

pro-jet である。

問題は、須原が何を書いたかだけではない。須原が自分の生と死を通じて前へ投げ出したものを、誰が引き取るのかである。

ここで finalvent が出てくる。

finalvent は、須原を読んでいた。

しかも、かなり中心に近いところを読んでいた。

だが、受け取れなかった。

6. finalvent は須原を三度読んで、それでも受け取れなかった

finalvent は、須原を読んでいなかったわけではない。

むしろ、かなり読んでいた。

具体的には、『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』評、『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組』評、『自死という生き方』評である。

この三冊は、ぼくが須原紹介で重要だと見た本でもある。つまり finalvent は、須原の周辺をかすめたのではない。かなり中心に触れていた。

『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』では、弱腰高学歴男性の問題が出てくる。罰系システムをナメること。変性意識の中で、生命を捨ててもいいほどの価値を身体的に獲得すること。フェミニズムが女性を解放したように、男性を解放するには何が必要なのか。そういう危ない問題が扱われている。

finalvent は、そこを見ていた。

『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組』では、須原が単なる情念の人ではなく、ローティやポパーを知ったうえで、日本社会に向けて大きな枠組みを出そうとしていたことが見えてくる。須原は、ただの反知性ではない。むしろ、知性を通ったうえで、その知性だけではどうにもならない地点へ行った。

finalvent は、そこも見ていた。

『自死という生き方』では、もう逃げられない。須原の自死を、単なる個人的悲劇として処理するのか。それとも、思想として扱うのか。そこが問われる。

finalvent は、そこにも触れていた。

だから、finalvent は須原を読めていなかった、とは言えない。

読めていた。

だが、受け取れなかった。

ここが問題である。

finalvent は、須原の危険さを見ている。弱腰高学歴男性への修正も見ている。身体化された価値の問題も見ている。ローティやポパーとの関係も見ている。自死を思想として扱わざるを得ないところまで来ている。

だが、最後に退く。

須原を「間違い」として処理する。社会、他者、他律性、生かされていること、他者を包括する社会、といった方向へ戻す。

もちろん、それが人間的に間違っているとは言わない。自死に対して、「その死は正しかった」などと言う方が危険である。そこは慎重でなければならない。

だが、須原を読むということは、そこから安全に退くことではない。

須原は、自分の生と死を pro-jet として投げ出した。読め。考えろ。引き取れ。そういう形にした。その投げ出されたものを前にして、finalvent は読解した。読解したが、身体には入れなかった。

ここで、finalvent は須原を読んだのではなく、須原に照らされた、という感じが出てくる。

須原は、finalvent を照らしてしまった。

読める人間が、最後のところで立てないこと。危ない思想を読解できる人間が、その危なさを自分のポジションとして引き受けられないこと。弱腰高学歴男性の問題を読んでいながら、その弱腰を自分の問題として受け取らないこと。

そこが照らされた。

finalvent は、須原を読めた。

だが、須原が投げ出したものを受け取れなかった。

だからダサい。

7. だから修正パンチが必要になる

ここで初めて、修正パンチが出てくる。

修正パンチは、いきなり立てる概念ではない。finalvent が須原を読めたのに受け取らなかったことへの応答として必要になる。

須原は、finalvent にすでに一発入れていた。

弱腰高学歴男性に向けて、「立て」と言っていた。

いや、正確には、須原は finalvent 個人に向けて書いたわけではない。だが、『高学歴男性におくる弱腰矯正読本』というタイトルそのものが、すでにパンチである。高学歴で、読めて、分かっていて、しかし立てない男たちに向けたパンチである。

finalvent は、そのパンチを読解した。

読解したが、受け取らなかった。

思想史的に処理する。社会論的に処理する。他者論的に処理する。倫理的に処理する。自死は間違いだ、生かされている、他者を包括する社会を夢見るべきだ、と退く。

もちろん、そこには人間的な慎重さもある。

だが、それだけでは済まない。

須原のパンチを、解説して、緩衝材で包んで、身体に入れないまま返してしまっている。読解によって、パンチを無効化している。

だから、ここで必要なのは、単なる反論ではない。

finalvent の意見を添削することでもない。

読めているのに立たない人間。読解の中へ閉じこもる人間。仙人ポジへ退く人間。そういう逃げた位置を、身体的に露出させることだ。

そこで、修正パンチという語が必要になる。

修正パンチとは、相手の意見を訂正するパンチではない。

正しい思想を注入することでもない。

逃げたポジション、歪んだ主体位置、引き受けられていない責任を、身体的に露出させるパンチである。

読解で逃げるな。

高所へ退くな。

分かった顔をして立たないな。

そこに立て。

そういうパンチである。

もちろん、これは危ない語である。暴力の語であり、身体への介入の語である。だから、軽く使うべきではない。

だが、思想はときどき、言葉だけでは足りない場所へ行く。

須原はそこへ行った。

finalvent はそこから退いた。

だから、二度目の修正パンチが必要になる。

8. 中学生のぼく――逆シャアに飛ばされ、ナウシカを捉え損ねた

中学生のころ、学校にオタクの社会科教師がいた。

その教師は、アニメ部のようなものを作った。そこで『パンダコパンダ』など、宮崎駿や高畑勲の初期作にも触れた。それ自体は悪いことではない。むしろ、いま振り返れば、かなり面白い環境だったと思う。

その活動の紹介、あるいは成果のような形で、ぼくは作文を書いた。

題は「ナウシカにおける『人間の世界』」だった。

映画版『風の谷のナウシカ』を見て、当時話題になっていた割りばし問題と、ナウシカに描かれる人間の世界とそれ以外との融和をつなげた。人間が自然を壊す。人間の世界が腐海や虫たちの世界と対立する。そこで、自然との共生や融和を考える。そういう作文だった。

左巻きではある。

だが、中学生としては優秀だったと思う。褒められたのも分かる。材料を拾い、作品と社会問題をつなげ、自分なりに論じている。作文としては悪くない。

ただし、今から見れば、そのポジションは間違っていた

割りばしは、単純な森林破壊の象徴ではない。間伐材利用や国内林業の問題として読み直せる。人間と自然の二項対立で、消費を反省すればいいという話ではなかった。

しかも、その時代の「オタク」には、いまとは違う空気があった。

宮崎勤事件の時代である。オタク的なものは、いまのように市民権を得た趣味文化ではなかった。どこか危ないもの、気持ち悪いもの、社会から斜めに見られるものとして扱われていた。学校の中でアニメ部のようなものをやる教師がいること自体にも、少し独特の空気があった。

生徒のあいだでは、その社会科教師が音楽科の教師に言い寄ったらしい、そしてその音楽科教師が「私にも選ぶ権利くらいあります」と返したらしい、という噂まで流れていた。どこまで本当かは分からない。だから、ここでは事実として扱わない。

だが、その噂が生徒間でまことしやかに流れること自体が、当時の空気を示している。オタク的なものは、まだ十分に社会化されていなかった。知的で、濃くて、先端的で、同時にどこか危うく、気持ち悪いものとして扱われていた。

ぼくは、その中にいた。

だが、オタクにはなり切れなかった。

これは別に論じるべき話だが、当時のオタクは、ある意味ではエリートの称号だった。膨大な情報量、作品への執着、メディア横断の知識、偏った情熱。それを持つ者がオタクだった。ぼくはそこまでは行けなかった。ぼくはオタクというより、サブカルの人間でしかなかった。

その一方で、中学生のぼくは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に飛ばされていた。

あれは原初体験として置くべきものだった。

だが、そのときのぼくは、それを十分に捉え切れていなかった。飛ばされた。食らった。だが、何を食らったのかまでは分かっていなかった。

なぜなら、同じ時期に、左巻きのお花畑理論も内面化していたからだ。

一方では『逆シャア』に飛ばされている。他方では、映画版ナウシカを左派道徳的に読んで、「人間の世界」を批判する作文を書いている。

ここが重要である。

ぼくは、富野から何かを食らっていた。シャア、アムロ、ララァ、地球、宇宙、ニュータイプ、政治、怨念、父性、母性、国家、革命。その全部が、よく分からないまま刺さっていた。

だが、同時にぼくは、ナウシカを左巻きのお花畑理論で処理していた。

人間の世界が悪い。自然と融和すべきだ。消費社会を反省すべきだ。

それはそれで、中学生としては優秀な読みだった。だが、作品が本当に投げていたものを、十分に受け取れていたわけではない。

『逆シャア』についてもそうだ。

あれに飛ばされたという事実は残った。だが、当時のぼくは、それを思想としては捉え切れていなかった。富野が投げていたものを、十分には引き取れていなかった。

だから、これは finalvent だけを殴る話ではない。

ぼく自身も、読めていなかった。

食らっていたのに、読めていなかった。

飛ばされていたのに、受け取れていなかった。

そういう中学生だった。

9. 修正パンチ――思想修正の時代をくぐった暴力

そこで、富野の「修正」が戻ってくる。

「修正」とは、もともとただの訂正ではない。

戦後政治の語彙としては、路線修正、思想改造、自己批判、再教育に近い響きを持つ。富野がそれを毛沢東主義や文化大革命から直接取ったとまでは断定しない。そこまで言うつもりはない。

だが、富野由悠季は1941年生まれである。

冷戦、安保、全共闘、文化大革命、連合赤軍後の日本を同時代として通っている。その世代にとって、「思想を正す」「誤った主体を修正する」という問題は、ぼくらよりはるかに生々しかったはずである。

だから、ガンダムにおける修正パンチは、単なるしつけでも、ギャグでも、意見の訂正でもない。

思想修正の語彙が、アニメの身体的暴力として露出したものとして読める。

相手に正しい思想を注入するというより、逃げた主体位置を殴って露出させる。

そこで、シャア/クワトロの問題が出てくる。

そもそも『機動戦士ガンダム』でシャアが「坊やだからさ」と言った相手は、ザビ家の御曹司であるガルマだった。

しかも、それを言っているシャア自身は、ジオン・ズム・ダイクンの遺児、つまりジオンの正統な血筋を背負った貴種流離譚の主人公でもある。

ここがすでに歪んでいる。

成り上がりの悪役が御曹司を嗤っているのではない。より深い血筋と復讐を背負った男が、ザビ家の坊やを「坊や」と嗤っている。ザビ家の御曹司を、ジオンの血筋の亡命王子が冷笑する。

この捻れを一言で置けるのが、富野のやばさである。

だが、『機動戦士Zガンダム』では、そのシャア自身がクワトロという仮面に逃げる。

本来なら歴史的ポジションを取るべき男が、一パイロットとして退いている。ジオンの血筋と復讐を背負い、ニュータイプの可能性を見て、地球連邦もジオンも内側から見た男が、クワトロ・バジーナという名で一段退く。

そこへカミーユの修正パンチが入る。

「これが若さか」は、若者に殴られた感想ではない。

かつて「坊や」を冷笑した男が、今度は若さから自分の逃避を殴られる瞬間である。

ここで、修正パンチは単なる暴力ではなくなる。

思想修正の時代をくぐった暴力が、逃げた主体位置を露出させる。殴られた側は、ただ痛いのではない。自分がどこから逃げていたのかを、身体で知らされる。

これは finalvent にもつながる。

finalvent は読める。だが、最後に立たない。須原のパンチを読解し、フーコーの語彙で距離を取り、天皇制も中空構造へ回収し、仙人ポジへ退く。

だから、必要なのは反論だけではない。

修正である。

読解に閉じこもるな。

リングに上がれ。

戦場に出ろ。

そういう話である。

10. WOKEという左からの修正パンチ

一昔前は、左寄りのポジション取りが流行った。

差別を見ろ。

構造を見ろ。

加害性を自覚しろ。

目覚めよ。

WOKEである。

これは、左からの修正パンチだった。

ただし、ここでも因果を間違えてはいけない。修正パンチが後から thought reform に近づいたのではない。「修正」には、もともと思想修正、路線修正、自己批判、再教育の響きがある。

左からの WOKE 的修正パンチは、その語の危うさを現代リベラル正義の中で再演した。

差別を見ろ。

構造を見ろ。

加害性を自覚しろ。

自分の無意識の偏見を点検しろ。

特権を認めろ。

沈黙も加担だ。

言っていることの一部には、確かに正しいものもある。差別はある。構造もある。無自覚な加害性もある。そこをすべて否定するつもりはない。

だが、それが制度化し、道徳化し、他人を殴るための正義になったとき、修正パンチは別のものになる。

ポジションを露出させるための打撃ではなく、正しい思想へ従わせるための打撃になる。

どこに立っているのかを問うのではない。お前は間違っている、こちらの正しい語彙へ来い、と迫る。思想修正の語彙が、現代リベラル正義の中で再起動する。

ここで、佐々木中型の左派道徳語への即落ちと、現代リベラル正義の制度化がつながる。

フーコーやニーチェを読みながら、道徳語の権力へ戻ってしまう問題である。

「時代遅れ」「女性差別」「家父長制」「自民」。

こういう語が、分析ではなく断罪として置かれる。そこでは、相手の制度的位置、歴史的位置、言説的位置を見ようとしていない。ただ、正しい語彙の側から裁いている。

それは、左からの修正パンチである。

しかも、かなりなパンチである。

ぼく自身も、かつてはその側にいた。中学生のころ、ナウシカを左巻きに読んで、割りばし問題と結びつけて、人間の世界を批判した。社会を反省させる側に立った。左から修正パンチを打つ側にいた。

だが、今は違う。

左からの修正パンチは、やがて制度化した。道徳化した。正義の側から他人を殴る技術になった。WOKE はその極端な形である。

だから、反動が来る。

反動は、単なる逆張りではない。

左からの修正が、思想修正として制度化したあとで、それに対して別のポジションを取ることである。

ここから、ヒップホップの話へ移る。

なぜなら、ポジションを取るとは、思想の体系を掲げることだけではないからだ。

スタンスを通すことでもある。

どこに立ち、何を背負い、何をレペゼンするのか。

それを声と身体で出すことでもある。

11. スタンスを通すこと――ヒップホップ、PFP、スタイルウォーズ

ここから、ヒップホップの話へ行く。

唐突に音楽趣味を差し込むのではない。ポジションを取る、リングに上がる、戦場に出る、という話をしている以上、ヒップホップは避けて通れない。

PFP やスタイルウォーズという言い方は、哲学史だけから出てきたものではない。かなりはっきり、ヒップホップ文化の影響下にある。

スタンスを通す。

スタイルを示す。

どこをレペゼンするのかを明らかにする。

声と身体で立ち位置を出す。

ヒップホップにおいて、ポジションは抽象的な思想信条ではない。どこの誰が、どの声で、どのトラックに乗り、何を背負って、誰に向けて、どう言うのか。その全部がポジションになる。

だから、ヒップホップは思想に近い。

いや、思想というより、思想が本来持っていたはずの身体性に近い。

言葉は中立ではない。声は中立ではない。スタイルは中立ではない。どこに立つのか。何を背負うのか。誰に向けて撃つのか。どの語彙を使い、どの語彙を捨てるのか。そこに、思想の姿勢が出る。

ぼくは、ライムスターとほぼ同時代に大学へいた。

ぼくが早稲田に入ったのは1993年である。ライムスターは1989年に結成され、1993年にはインディーズで最初のEPを出している。つまり、日本語ラップは、後から教養として輸入したものではない。すでに同時代の空気としてそこにあった。

ただし、ぼくはど真ん中にはいなかった。

ここも重要である。

ぼくはヒップホップの当事者ではない。ラッパーでも DJ でもない。現場の人間でもない。だが、そのスタンスの取り方、スタイルを通す感覚、どこをレペゼンするのかを明らかにする態度は、かなり深いところで残っている。

哲学史を PFP として読むこと。

思想をリングに上げること。

誰のパンチが効くのかを見ること。

それは、ただの学説比較ではない。スタイルウォーズである。

このスタイルウォーズという感覚も、ヒップホップなしには出てこない。

思想を読むとは、体系をありがたく並べることではない。立たせることだ。ぶつけることだ。同じ条件ならどちらが強いのかを見ることだ。立派な体系を持っているから強いのではない。でかい名前だから勝つのでもない。リングに上げたとき、どちらのスタンスが残るのか。

そういう読み方である。

だから、ポジションを取るとは、思想体系を掲げることだけではない。

スタンスを通すことでもある。

スタイルを崩さないことでもある。

どこに立ち、何を背負い、何を代表するのかを、声として残すことでもある。

12. LTS、B:COMPOSE、MAN TRACK

その感覚で、今いちばん刺さるのが LTS の “MAN TRACK” である。

LTS は、GOCCI と TADS’AC によるデュオである。ぼくにとって、そこには「最高のヒップホップデュオ」としての重みがある。

その LTS のアルバムで、実質的に最初に立ち上がる verse が、TADS’AC による “MAN TRACK” であることが重要なのだ。

B:COMPOSE は、英語の文法ミスではない。

B は B-BOY の B である。

be composed を踏まえながら、それを B-BOY スタンスの構築へずらしている。

B-BOY として自分を組め。

B-BOY として立て。

そういう命令として聞こえる。

これは、もじりであり、ずらしであり、脱構築であり、差延である。などと書くと急にデリダめくが、ヒップホップはもともとそういうことをやっている。既存の音、既存の言葉、既存の街、既存の身体を、そのまま受け取らない。サンプリングし、切り刻み、ずらし、組み直し、自分たちのスタイルとして立てる。

そこに B:COMPOSE がある。

そして “MAN TRACK” のフックが重要になる。

長く引用はしない。だが、「選手は変わりこのゲームは続く」という一節は、いまのぼくには PFP そのものに聞こえる。スタイルウォーズそのものに聞こえる。

個々の選手は変わる。

だが、ゲームは続く。

スタイルは受け渡される。

声は残る。

ポジションは更新される。

ここまで言わないと、こちらもまた仙人ポジの再演になる。

読んでいるだけでは足りない。

ゲームに立つ必要がある。

リングに上がる必要がある。

戦場に出る必要がある。

LTS が歌っていたのは、単なる男臭い自己主張ではない。スタンスの継承であり、ゲームの持続であり、自分たちがその中でどう尖るのかという宣言である。

だから、思想の話をしているはずなのに、ここで LTS が出てくる。

思想は、読解だけでは足りない。

スタイルとして通さなければならない。

13. J Dilla――トラックメイキングとジャズへの修正、そして日本のKAIZEN

ヒップホップのスタンス論は、言葉だけではない。

トラックの側にもある。

そこで J Dilla が出てくる。

J Dilla は、ヒップホップのトラックメイキングに修正をもたらした。

ドラムをただ正確なグリッドに置くのではない。拍の前後にずらす。クオンタイズされきらない。酔ったように揺れる。だが、それは下手なのではない。機械的な正しさをずらし、別の身体的正しさを立てる。

つまり、ビートのポジションを修正した。

ここでも「修正」は、ただの訂正ではない。

正確さを間違いとして退けるのでもない。グリッドを破壊するだけでもない。むしろ、機械的な正しさの上に、別の身体を置く。拍の上に、別の立ち方を置く。時間の中に、別のポジションを作る。

それが Dilla の修正である。

ここで面白いのは、その修正がヒップホップ内部に留まらなかったことだ。

ジャズは本来、スウィング、即興、コード、身体性の正統文化である。ヒップホップはそこからサンプリングし、切り刻み、ループさせた。普通なら、ジャズが本体で、ヒップホップは二次利用に見える。

だが、J Dilla 以後、その関係が反転する。

ヒップホップ側で修正されたビート感覚を、今度はジャズ側が受け取った。Dilla 的な揺れ、クオンタイズされきらないグルーヴ、拍の前後に置かれるドラム、酔ったように進む時間。それを、Robert Glasper 以降のジャズが受け取った。

ここが面白い。

ジャズがヒップホップを飾りとして取り入れたのではない。

ヒップホップによって、ジャズのスタンスそのものが修正されたのである。

そして、この Dilla の修正は、日本でも別の形で受け取られている。

ここで、日本側の話を抜かすわけにはいかない。

Dilla と Glasper だけで閉じると、英米圏の黒人音楽史を日本語で参照しただけになる。だが、日本にも、Dilla 以後のビート感覚を受け取り、別の精度へ組み直したトラックメイカーたちがいる。

Nujabes がいる。

Mitsu the Beats がいる。

この二人を抜かして、日本における Dilla 以後の話はできない。

Nujabes は、ジャズ、メロウネス、空間、余白を通じて、ヒップホップのビートを日本語圏の耳に合う別の精度へ持っていった。Dilla 的なズレをそのままコピーするのではない。日本側の叙情、都市の孤独、夜の空気、アニメーション的な余白まで含めて、別の完成度へ組み直した。

そして Mitsu the Beats である。

Mitsu the Beats は、GAGLE のトラックメイカーとしても、自身の名義でも、Dilla 以後のビート感覚を日本側で受け取り、磨き、改善した人である。単なるフォロワーではない。輸入して終わった人でもない。受け取ったものを、日本語の耳、日本の場所、日本のサブカルチャーの編集能力の中で、別の精度へ持っていった。

Mitsu the Beats は “Celebration on Jay というシリーズまで出している。これは単なる敬意表明ではない。Dilla のビート感覚を受け取り、日本側で細部を詰め、磨き、別の形へ組み直す作業である。輸入ではない。KAIZEN である。

そして Mitsu the Beats については、もう一つ言っておくべき曲がある。

DJ Mitsu the Beats “Promise In Love feat. José James”。

これは、現代の音楽の到達点の一つだと、間違いなく言っていい。

ヒップホップのトラックメイキング、ジャズの響き、ソウルの歌、メロウネス、空間の作り方。その全部が、過剰に主張するのではなく、精度として組み上がっている。Dilla 的なズレや揺れを、単に真似るのではない。日本の制作感覚で磨き、整理し、呼吸できる音楽へ変えている。

ここに、日本の強さが出ている。

外来のスタイルをありがたがって終わらない。雑にローカライズして劣化させるのでもない。受け取り、磨き、細部を詰め、別の完成度へ持っていく。Mitsu the Beats には、その KAIZEN の強さがある。

だから、Mitsu the Beats を軽く扱ってはいけない。

Mitsu the Beats は、Dilla の修正をただ受け取った人ではない。GAGLE として、また自身の仕事として、Dilla 以後のビート感覚を日本語の歌、日本のサブカル、日本の時間へ移し替えた人である。

ここで一つ注記しておく。

GAGLE は、MC の HUNGER、DJ の DJ Mu-R、そしてトラックメイカー/DJ の Mitsu the Beats によるユニットである。ライブ映像を見ると、Mitsu the Beats がサイドMC的に動いている場面があるので、初見では役割を取り違えやすい。メインMCは HUNGER であり、ライブでDJを担っているのは DJ Mu-R である。

ただし、GAGLE のライブの面白さは、きれいな役割分担だけでは説明できない。

効いているのは、トラックメイカーである Mitsu the Beats が、HUNGER と近い声質でサイドMC的に入ってくることだ。HUNGER のラップに、Mitsu the Beats の声が重なる。声質が遠すぎない。だが、同じではない。その近さとズレが、ライブの厚みになる。

ここには、兄弟的な声の重なりに近いものがある。

実際、Mummy-D と KOHEI JAPAN の関係にも通じる。血縁の声というのは、ただ似ているだけではない。似ているのに違う。重なるのにずれる。そのズレが、ラップに妙な説得力を持たせる。

GAGLE の場合、HUNGER と Mitsu the Beats はその意味でかなり効いている。Mitsu the Beats は、単に裏でトラックを作る人ではない。ライブでは、HUNGER の声を横から支えるもう一つの声として出てくる。そのうえで DJ Mu-R が現場を締める。

だから GAGLE は、音源だけでなくライブで強い。

トラックメイカーが、声としても前に出る。メインMCと近い声質で、しかし別の位置から支える。DJ がその場を制御する。そういう配置があるから、GAGLE のライブはただの再現ではなく、現場の身体性を持つ。

GAGLE “聞える” は、その代表例である。

Spandau Ballet “True” は大ネタ中の大ネタだ。使った瞬間に、元曲の記憶が立ち上がる。普通なら、懐メロの引用になる。分かりやすいサンプリング芸になる。元ネタの強さに寄りかかって終わる。

だが、GAGLE はそうしない。

“True” を、J Dilla 以後のビート感覚でずらして使う。

しかも、それを2011年以後に、仙台の GAGLE が “聞える” として出す。ぼくは当事者性を重んじる立場ではない。だが、ここでは、当事者だから偉いという話ではない。場所、時間、ネタ選び、タイトル、ビート感覚が、異常な精度で噛み合っているという話である。

仙台。

2011以後。

Spandau Ballet “True”。

聞える。

これは、ちょっと異常である。

しかもタイトルが “聞える” であることも決定的である。見える、ではない。分かる、でもない。聞える。ノイズの中で、まだ何かが聞こえるのか。壊れた後に、どの声が残るのか。そういう曲になっている。

さらに “雪ノ革命” がある。

ここで触れたいのは、音源だけではない。2011年1月のライブ版である。

ぼくは、あの場にいた。たぶん映っているクラウドの中に、間違いなくいる。できるだけ前の方へ行ったはずだ。そのことは、普通に誇っていいと思っている。

2011年1月。

311の直前である。

もちろん、その時点で何かを予知していたわけではない。後から意味づけているだけだと言われれば、その通りである。だが、それでも、2011年1月の仙台/東北を背負った GAGLE の “雪ノ革命” を現場で食らっていたことには、後から見ても重みがある。

“雪ノ革命” の元ネタは、Freddie Hubbard “Little Sunflower” である。

Spandau Ballet “True” のような誰でも分かる大ネタではない。ジャズを掘った先にある旋律である。その旋律を、GAGLE は雪の曲にした。仙台の冬、冷たさ、静けさ、都市の喧騒の奥にある祈りのようなものへ変えた。

つまり、“聞える” は大ネタの KAIZEN であり、“雪ノ革命” は掘った音源の KAIZEN である。

どちらも、ただの輸入ではない。

外から来た音を、日本語の身体、日本の場所、日本の時間へ移し替えている。ここに、日本のサブカルチャーの強さがある。

そして、個人的には、ここで急にモータースポーツの記憶まで接続してしまう。

“打ち勝つこのレーシング”。

この一節が、小椋藍の勝利と重なって聞こえてしまう。理屈ではない。桶スポで一緒に走っていた可能性が、本当にある。その場所のアスファルト、その速度、その小さなサーキットの身体記憶が、GAGLE のトラックと勝手につながってしまう。

こうなると、もう単なる音楽批評ではない。

日本語ラップ、東北、雪、ライブのクラウド、311直前の時間、桶スポ、レーシング、小椋藍の勝利が、個人の記憶の中で一本の線になる。

だから、日本のサブカルチャーを称賛せざるを得ない。

これは、巨大な制度が作った正統文化ではない。輸入品をそのまま飾っただけの文化でもない。ローカルな場所、個人の身体、音楽の記憶、外来のスタイル、勝利の感覚が、勝手に接続してしまう。そういう回路を作れるところに、日本の強さがある。

さらに、GAGLE × Ovall のライブがある。

これは強い。

GAGLE が持つ日本語ラップ、Mitsu the Beats のトラック感覚、HUNGER の声、DJ Mu-R の現場性に、Ovall のバンド感、ジャズ、ソウル、ネオソウル的な質感が接続される。ここでは、ヒップホップとジャズ/ソウルが、理屈としてではなく、ライブの身体としてつながっている。

ぼくは、GAGLE × Ovall のアルバムが出た2012年の夏、恵比寿でのライブにも行っている。

だから、Robert Glasper が Moonchild と共演する方向は、もちろん正しいと思う。ジャズ、ヒップホップ、ネオソウル、メロウな声、Dilla 以後のビート感覚を接続するのは正しい。

だが、日本側から見ると、やはり遅きに失している。

GAGLE と Ovall は、2010年代前半に、すでにその回路をライブの現場で開いていた。しかも、それを英米圏の正統ジャズ/ネオソウルの文脈としてではなく、日本語ラップ、日本のバンド/ビートミュージック、日本のサブカルチャーの精度としてやっていた。

ここにも、日本の KAIZEN がある。

受け取る。組み直す。現場へ持ち込む。ライブの身体で鳴らす。

日本のサブカルチャーは、こういうところで異常に強い。

正統側が、周縁から来たスタイルによって、自分の立ち方を変えられる。ジャズがヒップホップによって修正されたように、日本のトラックメイキングも Dilla を受け取りながら、ただの模倣ではない形へ進んだ。

これは、思想にも起こる。

正統な哲学体系が、周縁の声によって修正される。大きな名前を持つ思想が、別のスタンスによってリングに引きずり出される。高所にあると思われていたものが、平坦な戦場に降ろされる。

ぼくがやろうとしていることも、ある意味ではそれに近い。

もちろん、ぼくがやっていることなど蟷螂の斧である。

だが、少なくとも、哲学を読解の中に閉じこめるつもりはない。正統な体系をただ継承するつもりもない。外から来た声、周縁のスタイル、別の身体感覚によって、正統の立ち方をずらす。

読むだけでは足りない。

読んだものを引き取り、自分のスタンスとして立てなければならない。

Dilla がビートを修正し、Glasper 以降のジャズがそれを受け取り、日本では Nujabes や、何より Mitsu the Beats / GAGLE がそれを別の精度へ改善したように、思想もまた、別のリズムによって修正されうる。

14. 反動側に立つ――大麻、舐達麻、安倍、高市、日本共和制論

左からの修正パンチが制度化し、道徳化したあとで、反動が来た。

アメリカではトランプ。

日本では安倍から高市へと続く流れがある。

ぼくはその反動側にいる。

これは単なる逆張りではない。

左派的な修正パンチが制度化したあとで、それに対するポジションを取るということである。

WOKE は、左からの修正パンチを制度にした。差別を見ろ。構造を見ろ。加害性を自覚しろ。特権を認めろ。沈黙も加担だ。そういう語彙が、企業、大学、メディア、行政、文化産業へ入り込み、正しい人間の型を作ろうとした。

それに対して、反動が来るのは当然である。

反動は、粗い。

反動は、しばしば下品である。

反動は、きれいな理論ではない。

だが、粗いから間違いだとは限らない。下品だから無効だとも限らない。むしろ、きれいな正義が制度化し、他人を正しい思想へ従わせる装置になったあとでは、反動の方にしか残らないものがある。

今まともなやつが取るべきポジションは、右でしかない。

これは明確な反 WOKE である。

左派的な正義が、制度になり、道徳になり、修正装置になった。その修正に対して、こちらは反動として立つ。反動であることを隠さない。右であることをぼかさない。

大麻解禁論にも、制度論として触れておきたい。

もちろん、現行法を破れという話ではない。違法行為を勧める話でもない。そこは明確に切っておく。

むしろ日本では、大麻について、従来の所持、栽培、譲渡などだけでなく、使用も処罰対象になった。だからこそ、なおさら制度論として筋が悪いと感じる。

アルコールとタバコが合法で、大麻だけが絶対悪のように扱われる。しかも使用まで罰する方向へ進む。この構図は、健康被害、依存、社会的害の比較から見ても、きちんと議論されるべきである。

ぼくは、アルコールとタバコが許されて、大麻だけが絶対悪とされる整理には納得していない。

もちろん、大麻を聖化するつもりもない。無害だと言うつもりもない。だが、アルコールとタバコの害を横に置いたまま、大麻だけを道徳的な絶対悪として扱うのは、制度論として筋が悪い

だから、舐達麻にも一目置いている。

埼玉県北レペゼンとして、というのもある。

彼らのすべてを肯定するわけではない。違法行為を称揚する話でもない。だが、スタンスを通す、地元を背負う、危ない場所に立つ、その感覚には見るべきものがある。

ここでも問題は、清潔な正解ではない。

どこに立つのかである。

そして、ぼく自身は『日本共和制論』で、天皇を戴いた共和制というポジションを取った。

これは、戦後民主主義のきれいな語彙から見れば、かなり危ない場所である。リベラルから見れば、ネトウヨに見えるだろう。左派から見れば、反動に見えるだろう。実際、そう呼ばれても構わない。

ネトウヨと呼ばれても構わない。

その呼称も含めて引き受ける。

ぼくは、天皇を戴いた共和制というポジションを取った。

それは、単なる保守趣味ではない。単なる反リベラルでもない。権威と権力を分け、天皇を権力の外に置きながら、国家の時間、継承、統合を引き受けるための制度的ポジションである。

もちろん、このポジションも殴られる。

殴られてよい。

リングに上げたのだから。

戦場に出したのだから。

15. 平坦な戦場でポジションを取ること

最後に、「平坦な戦場」という言葉について確認する。

これは単に、みんなが横並びで争っているという意味ではない。

『リバーズ・エッジ』を通じて定着したフレーズであり、さらに遡ればウィリアム・ギブスンの “The Beloved: Voices for Three Heads” に由来する。原語の field は、標準的な日本語訳では「戦場」と訳された。岡崎京子『リバーズ・エッジ』によって、その創造的な増幅がほぼ定着した。

ここでいう平坦な戦場とは、超越的な高所が消えた場所である。

誰も安全な高みから全体を見渡すことはできない。

どの権威も争いから免除されない。

哲学も、批評も、政治も、ヒップホップも、ジャズも、同じ平面に投げ出される。

だからこそ、ポジションを取ることが問題になる。

高い場所に立てないから、立たなくていいのではない。

高い場所がないからこそ、どこに立つのかが問われる。

カスはほっとけばいい。

読めるふりをして退く人間、道徳語へ雑に落ちる人間、仙人ポジで評論する人間に、いつまでも付き合う必要はない。問題は、こちらがどこに立つかである。

呉智英は「封建主義者」として立った。

須原一秀は、自分の生と死を pro-jet として前へ投げた。

LTS は、選手が変わってもゲームが続くことを歌った。

J Dilla は、ヒップホップのビートを修正した。

Robert Glasper 以降のジャズは、その修正を受け取った。

日本では、Nujabes や Mitsu the Beats / GAGLE が、それを別の精度へ改善した。

GAGLE は “聞える” で、Spandau Ballet “True” という巨大なポップスの記憶を、Dilla 以後のビート感覚と2011年以後の仙台の耳へ移し替えた。

“雪ノ革命” は、Freddie Hubbard “Little Sunflower” を、仙台の冬、雪、ライブのクラウド、311直前の時間へ変えた。

GAGLE × Ovall は、ヒップホップ、ジャズ、ソウル、バンド感、Dilla 以後のビート感覚を、2010年代前半の日本のライブ現場で接続していた。

スタイルは、そうやって更新される。

ぼくは『日本共和制論』で、天皇を戴いた共和制というポジションを取った。

これは反 WOKE である。

今まともなやつが取るべきポジションは、右でしかない。

なぜなら、WOKE が左からの修正パンチを制度化し、道徳化し、他人を正しい思想へ従わせる装置へ変えたからである。その修正に対して、こちらは反動として立つ。反動であることを隠さない。右であることをぼかさない。

平坦な戦場でポジションを取るとは、そういうことである。

読めるだけでは足りない。

距離を取るだけでは足りない。

高所はもうない。

リングに上がるしかない。

戦場に出るしかない。

ゲームは続く。

だから、こちらもスタンスを通す。

I take a position.
Word up.

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