ろろろのめ第57回 サマソニとフジロックの「終わりの始まり」~「洋楽至上主義」の撤退戦~
2026年5月15日、日本の音楽シーンにおける構造的な「終わりの始まり」が可視化された。この日、サマソニとフジロックが投下したラインナップとステージ別出演者発表、そしてそれに対する市場の反応は、かつての「洋楽至上主義」という幻想がいかに無残な撤退戦を強いられているかを残酷なまでに証明している。



音楽差別主義の敗北:344万対60万という審判
SNSにおける表示回数の圧倒的な差は、もはや好みの次元ではない。サマソニのポストが叩き出した344万表示に対し、フジロックは60万表示に留まった。この5.6倍という数字の乖離は、特定の文脈や権威を盾に「音楽の貴賎」を語ってきたスノッブな音楽リスナーたちの敗北宣言に他ならない。


コミュニティの爆発:
Travis Japanの単体ポストが98.9万表示を記録し、フジロック全体の注目度を軽々と抜き去った現実は、音楽差別主義者たちが蔑んできた「アイドル」や「コミュニティ」の力が、今やポップカルチャーの正当な現在地であることを示している。


脱エコーチェンバーの衝撃:
サマソニは「欧米のロック」という狭いエコーチェンバーを破壊し、BINIやSB19といったアジアの熱狂を飲み込むことで、グローバルなハブへと舵を切った。
フジロック:伝統という名の籠城戦
一方で、フジロックのラインナップは「呼びやすい前菜」を並べた平穏な同窓会の様相を呈している。

延命装置としてのカリスマ:
60万という表示回数すら、藤井 風(25.3万表示)やXG(13.5万表示)という、スノッブたちが「ミーハー」と切り捨てるはずの外部の熱量に寄生することで維持されている。


Truenoの幽閉:
月間リスナー1,500万人を超えるアルゼンチンの怪物、Truenoを昼間のBGM枠に配置したことは、音楽を「野生の熱狂」ではなく「知的な消費物」として処理しようとする差別主義者の傲慢さを象徴している。

撤退戦の果てにあるもの
現在のフェスシーンは、いかに美しく散るかという撤退戦の最中にある。
フジロックの選択:
知的な静寂の中で、過去の遺産を咀嚼しながら緩やかに消えゆく「美しき博物館」としての道。
サマソニの選択:
アイデンティティをかなぐり捨て、不格好なまでの詰め込みと全被りのタイテに耐えながら、アジアの熱光を輸出する「泥臭い戦場」としての生存。
音楽を「文脈」でしか語れない差別主義者が、タイムテーブルの被りに「海外アクトへのリスペクトがない」と憤慨している間に、世界はすでにその先へ進んでいる。フィリピンのファンが純粋な歓喜と共にBINIを迎え入れ、Travis Japanのファンが数字で時代を書き換える。この圧倒的な「生」の熱量こそが、2026年のポップカルチャーが辿り着いた正解である。
スノッブなリスナーという特権階級を排除し、あらゆる音楽が等価に、そして暴力的に混ざり合うカオスを受け入れること。この撤退戦のど真ん中で、泥を啜ってでも生き残るフェスにしか、次の時代の物語を紡ぐ資格はない。もうスカす時代は終わったのだ。そして所謂「洋楽好き」を構成する真ん中の客層が実は完全に入れ替わっているという現実も同時に存在する。それはまた別の話…。


