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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第二章 コンピエーニュ初訪問/三人の教皇/サンドニ/休戦

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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2.1 コンピエーニュ初訪問とボーヴェ奪還の恨み

現時点で、表題の「コンピエーニュ」では特に何も起きないが、のちにジャンヌが救援に駆けつけ、敵に捕らわれる因縁の地。
また、ボーヴェ司教のピエール・コーションはジャンヌの異端審問と火刑を主導する重要人物。下巻の中盤〜後半かけての重要シーンで登場する。

 イングランド軍がノルマンディーへ出発した後、シャルル王はクレピーからサンリスへ、ヴァンドーム伯、ジル・ド・レ元帥、ブサック元帥を兵士たちと共に派遣した。

 住民たちは彼らに、フルール・ド・リス(フランス王家の紋章)を支持する意向を伝えた。[82] こうしてコンピエーニュの降伏(服従)は確実となった。

 国王は市民たちに自分を迎えるよう呼びかけ、18日の水曜日に町の鍵が国王のもとに届けられた。翌日、国王は入城した。[83]

 代表司政官プロキュルール(Procureurs)[84](コンピエーニュでは市参事会員エシュヴァン(échevins)がこの名で呼ばれていた)たちは、彼らが町の総督(知事)に選出したギヨーム・ド・フラヴィを、最も経験豊富で忠実な市民として国王に紹介した。

 紹介に際し、彼らは自分たちの特権に従い、フラヴィの総督任命を承認・認可するよう求めた。
 しかし、ラ・トレモイユ卿がみずからコンピエーニュ総督に就任し、ギヨーム・ド・フラヴィを副官に任命した。それでもなお、住民は彼を隊長と見なしていた。[85]

 シャルル王はひとつずつ、良き町々を取り戻していった。

 王はボーヴェの市民に、自分を領主として認めるよう命じた。
 使者がフルール・ド・リスを掲げているのを見ると、市民は「フランス王シャルル万歳!」と叫んだ。聖職者たちはテ・デウム(Te Deum、讃美歌)をうたい、大いなる歓喜に包まれた。
 シャルル七世への忠誠を拒んだ者は、財産を持ち出す許可を得た上で町から追放された。[86]

 ボーヴェの司教でありヴィダム(Vidame、司教代理または副支配者)であるピエール・コーション卿は、アンリ王(ヘンリー六世)のフランス大法官を務めており、重要な教会事業の交渉役でもあったが、自分の都市がフランス陣営に戻るのを見て悲しんだ。[87]

 それは都市にとって痛手であったが、彼にはどうすることもできなかった。

 コーションは、この不名誉の一部は、アルマニャック派に影響力があり、全能の力を持つと評判の「オルレアンの乙女」のせいだと気づいていた。
 彼は優れた神学者だったので、悪魔が彼女を導いているのではないかと疑い、彼女に可能な限りの危害が及ぶことを願っていた。

 この頃、アルトワ、ピカルディ、そしてフランス北部にあるブルゴーニュ領全土が、ブルゴーニュ公から離反しつつあった。

 もしシャルル王がそこへ向かっていたら、ピカルディの堅固な塔や城塞に住む人たちの大半は、彼を自分たちの君主として迎え入れただろう。[88]

 だが、敵はその隙を突いて、シャルル王がヴァロワやイル・ド・フランスで勝ち取ったばかりの地域を奪い返したに違いない。

**

 国王と共にコンピエーニュに入城したジャンヌは、王の代官の住まいであるオテル・デュ・ブーフ(ブーフ邸)に宿泊した。

 ジャンヌは代官の妻マリー・ル・ブーシェと寝床を共にした。
 マリーは、オルレアンの財務官ジャック・ブーシェの親族だ。[89]

⚠️ブーフ(Bœuf):牛肉、去勢した牛のこと。英語のビーフ(Beef)の語源。

 ジャンヌはパリへの進軍を切望していた。
 例の「声」が約束したからには、必ず実現すると確信していたからだ。

 伝えられるところによると、(コンピエーニュに到着して)2〜3日後、ジャンヌは我慢できなくなり、アランソン公を呼び出して、「美しい公爵様、あなたの兵士たちと他の隊長たちにも装備を整えるよう命じなさい」と言った。そして、こう叫んだと言われている。

「私の杖にかけて! パリへ行かなければならない」[90]

 しかし、これは決してあり得ないことだ。乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)には兵士たちに命令を下す権限がなかったのだから。事実としては、アランソン公爵が多数の兵士を率いて国王のもとを離れることになり、ジャンヌも同行した。真相はそういうことである。

2.2 三人の教皇(1)アルマニャック伯の手紙

 8月22日の月曜日、ジャンヌが馬に乗り込もうとしていたちょうどその時、アルマニャック伯からの使者が手紙を持ってきたので、彼女はそれを読んでもらった。[91] 手紙の内容は次の通りだ。

「わが最愛の貴女マダムへ、
 私は謹んで貴女に身をゆだねます。

 神の名において、貴女にお願いしたいことがあります。
 現在、普遍的な聖なる教会において、
 教皇問題で分裂が生じているのをご存知でしょう。
 今まさに、教皇の座を争う者が3人います。

(1)一人目はローマに在住し、みずからをマルティヌス五世と名乗り、すべてのキリスト教国の王が従っています。

(2)二人目はバレンシア王国のペニスコラに在住し、クレメンス八世と名乗っています。

(3)三人目は、サン=テティエンヌ枢機卿と少数の随行員を除いて居場所を知る者はいませんが、ベネディクトゥス十四世と名乗っています。

 教皇マルティヌスと呼ばれる最初の人物は、
 全キリスト教諸国の同意を得て
 コンスタンツで選出されました。

 教皇クレメンスと呼ばれる二人目は、
 ベネディクトゥス十三世の死後に、
 枢機卿3人によってペニスコラで選出されました。

 ベネディクトゥス十四世と呼ばれる三人目は、
 サン=テティエンヌ枢機卿によって
 ペニスコラで密かに選出されました。

⚠️2人目と3人目は、対立教皇ベネディクトゥス十三世の後継者がさらに分裂した結果。

 私は貴女に、無限の慈悲をもって——、

 上記3人のうち真の教皇は誰なのか、
 今後、私たちは誰に従うべきなのか
 そして、誰を信じるべきなのか、

 貴女を通して私たちに明らかにしてくださるよう、
 主イエス・キリストに懇願していただきたいのです。

 マルティヌスと呼ばれる者か、
 クレメンスと呼ばれる者か、
 ベネディクトゥスと呼ばれる者か、
 秘密裡に、留保付きで、あるいは公の宣言によって、
 示してくださるようお願い申し上げます。

 私たちは皆、主イエス・キリストの御心と御意を
 喜んで実行する用意があります。

 つねにすべてに忠実なアルマニャック伯」[92]

 手紙の差出人は、このように書き送った。ジャンヌを「わが最愛の貴女」と呼び、自らを謙虚に彼女に捧げたが、それは自己卑下の表れではない。現代風に言えば単なる礼儀からの文言である。彼は王室のもっとも有力な家臣のひとりだった。

 だが、ジャンヌはこの貴族に会ったこともなければ、おそらく聞いたこともなかっただろう。

 差出人は、1418年に殺されたフランス大元帥アルマニャック伯(ベルナール・ダルマニャック)の息子、ジャン四世である。王国でもっとも残忍な男で、当時は33〜34歳だった。

 彼はアルマニャック派の黒党と白党、カトル・ヴァレ(Quatre-Vallées、4つの谷)、パルディアック、フェザンザック、アスタラック、ラ・ロマーニュ、そしてリル・ジュルダンといった伯爵領を支配していた。

 フォワ伯に次ぐ、ガスコーニュ地方(フランス南西部)で最も有力な貴族だった。[93]

 シャルル王の支持者の中にその名を連ね、またイングランドやブルゴーニュでは敵対者を指す呼称(アルマニャック派)として用いられたが、彼自身はフランス人でもイングランド人でもなく、単なるガスコーニュ人だった。

 彼は「神の恩寵による伯爵」を自称したが、宗主である国王から贈り物を受け取る際には、いついかなるときも「自分は国王の臣下である」と認めていた。当のシャルル王はいついかなるときでも新しいブーツを買う余裕があるとは限らなかったが、有力な家臣たちには多額の金銭を惜しんでいられなかった。

⚠️シャルル七世がランス遠征に際して「新しいブーツがなかったので古いブーツに油を塗った」エピソードは、上巻・第十六章『16.13 シャンパーニュ遠征計画(3)ジアンに集結』後半を参照。

 その一方で、アルマニャック伯ジャン四世は(父と違って)イングランドにも配慮を示し、摂政ベッドフォード公に雇われた傭兵を保護し、赤い十字架(イングランド兵の目印となるお仕着せ)を身につけた者たちを家臣として取り立てた。

 彼は、配下の者たちと同じくらい暴力的で不誠実だった。ごく最近も、セヴラック元帥を不法に拘束すると、全財産を譲渡するよう強要した上で絞殺した。[94]

⚠️アモーリー・ド・セヴラック元帥(Amaury de Séverac/Marshal de Séverac):代々アルマニャック伯に仕え、先代ベルナール(アルマニャック派の語源となった重要人物)の死後もフランス宮廷にとどまった。タンギ・デュ・シャテルなど王太子の重臣から一目置かれ、1424年、若きシャルル七世はセヴラックを元帥に抜擢して王室評議会に加える。だが、現アルマニャック伯ジャン四世はおもしろくなかったようで、亡き父ベルナールがセヴラックに与えた財産をすべて差し押さえた。後日、アルマニャック伯が所有する城の窓から首を吊って死んでいるのが発見された。


2.3 三人の教皇(2)アラゴン王とアルマニャック伯の破門

 この殺人事件はごく最近(2年前)のことだった。そして今、聖なる教会の従順な息子が、真の霊的な父が誰であるかを熱心に知りたがっているように見える。

⚠️わかりやすく言い換えると、「アルマニャック伯は過去の罪を悔いて、模範とすべき人を探しているように見える」といった感じか。

 しかしどうやら、アルマニャック伯の心はすでに決まっており、自分の質問に対する答えもすでに知っていたようだ。

 実のところ、キリスト教世界を長きにわたって引き裂いた教会大分裂は、12年前に終結していた。

 1417年11月8日にコンスタンツの商人会館に召集されたコンクラーヴェ(教皇選挙)で、同月11日、聖マルティヌスの日に、枢機卿助祭オットー・コロンナを教皇として選出・宣言された(教会分裂は終わった)。彼はマルティヌス五世という称号を名乗り、永遠の都ローマにおいて、ロレンツォ・ギベルティが8体の黄金像で装飾された戴冠式用のティアラを戴いた。[95]
 そして、この狡猾なローマ人は、イングランドばかりかフランスからも承認を得ることに成功し、これ以降、フランス出身の教皇は一人も望めなくなった。

 シャルル七世の顧問たちは、公会議の開催問題でマルティヌス五世と意見が一致しなかったかもしれないが、1425年の勅令により、フランス王国におけるローマ教皇の権限はすべて回復された。

 したがって、1429年時点ではマルティヌス五世こそが唯一の教皇だった。

 しかしながら、アラゴン王アルフォンソは、教皇マルティヌス五世が「ナポリ王国の権利を争っていたルイ・ダンジューを支持した」ことに激怒し、ローマ教皇に対抗する新教皇を擁立することを決意した。

 そして、アラゴン王のすぐ近くに、教皇(クレメンス八世)を自称する聖職者がいた。彼の根拠は以下の通りである。

 先代の対立教皇ベネディクトゥス十三世はペニスコラ(イベリア半島の東岸)へ逃亡し、臨終の際に枢機卿4人を指名してコンクラーヴェをひらいた。そのうち3人がバルセロナの聖職参事会員であるヒル・ムニョスを後継者に任命し、クレメンス八世という称号を名乗った。

 三方を海に囲まれた不毛の地ペニスコラの城に幽閉されていたこの人物こそが、アラゴン王がマルティヌス五世のライバルに選んだ対立教皇クレメンス八世だった。[96]

 教皇はアラゴン王を破門した後、問題解決に向けて交渉を開始した。

 アルマニャック伯は、アラゴン王の陣営についた。
 伯爵は子供たちの洗礼のために、亡き対立教皇ベネディクトゥス十三世に祝福された聖水をペニスコラから取り寄せた。彼も同様に破門された。

 この打撃はまさにこの年、1429年に降りかかった。

 したがって、アルマニャック伯はこの数ヶ月間、秘跡を受けることを禁じられ、公の礼拝からも締め出されていた。この災難のせいであらゆる世俗的な困難が生じ、それに加えて、彼はおそらく悪魔を恐れていたのだろう。

 追い討ちをかけるように、アルマニャック伯の立場はますます困難になっていた。強力な同盟者だったアラゴン王は屈服し、自らが擁立した対立教皇クレメンス八世に退位を要求した。

 アルマニャック伯がフランスの乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)に教皇問題について尋ねたとき、彼は明らかに、不運な対立教皇への忠誠を撤回しようと考えていた。

 なぜなら、クレメンス八世は7月26日にペニスコラで退位したからだ。

 時系列から考えて(ジャンヌのもとに手紙が届いたのは8月22日)、伯爵の手紙が退位の日よりずっと前に書かれたはずがない。それ以降だった可能性がある。

 いずれにせよ、アルマニャック伯がジャンヌ宛の手紙を口述した時点で、対立教皇クレメンス八世の処遇はほぼ決まっていたに違いない。

⚠️わかりやすく補足:アルマニャック伯は、教皇問題でアラゴン王からはしごを外されてキリスト教界隈で不利な立場(破門)に置かれている。支持する教皇を変えたいが、不忠義のそしりを免れるために、最近評判の聖女にわかりきった質問を投げかけている。ようするに、ジャンヌの口から「真の教皇はマルティヌス五世だ」と言質を取りたい。

 手紙の中で言及されている3人目の教皇、ベネディクトゥス十四世については、アルマニャック伯は何も知らなかった。実際、沈黙を決め込んでいた。

 この教皇選出は、枢機卿たった1人で行われたという点で特異だった。
 ベネディクトゥス十四世の教皇位継承権は、1409年に昇格した際に、対立教皇ベネディクトゥス十三世によって任命された枢機卿によって伝えられていた。その枢機卿とはフランス人で、法学士と司祭、そしてモンテチェーリオのサン=テティエンヌ枢機卿を務めるジャン・バレールだ。

 アルマニャック伯が忠誠を誓おうと考えていたのは、どう考えてもベネディクトゥス十四世ではない。マルティヌス五世に服従することを切望していたのは明らかだ。

2.4 三人の教皇(3)アルマニャック伯の本心と策略

 したがって、アルマニャック伯がなぜジャンヌに真の教皇を示すように求めたのかを突き止めるのは容易ではない。おそらく、神の啓示を受けた聖なる乙女に、あらゆる種類の問題について相談するのが当時の慣習だったからだろう。

 ジャンヌはそういうことを期待される「乙女」であり、預言者としての名声はごく短期間のうちに広まった。彼女は隠された事柄を明らかにし、未来のカーテンを開けることができる(と信じられていた)。

 オルレアン解放から約3週間後、トゥールーズのカピトゥール(capitouls、都市の行政官)[97]が、貨幣の劣化問題を解決するためにジャンヌに相談するよう勧めたことを思い出してほしい。

⚠️上巻・第十四章『14.11 ジャンヌの崇拝者たち(1)乙女の祈り』参照。

 他にも、ミラノのボナ(ボンヌ・ヴィスコンティ)は、いとこのイザボー王妃の従者を務める貧しい紳士と結婚していたが、ヴィスコンティ家の子孫として公国を取り戻すために権利を主張しており、その件で乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の助言を求めた。[98]

 探し物、都市行政の運営、王侯の権力争いまで、世俗の問題解決を期待されるのだ。聖なる乙女に「教皇と対立教皇の問題」について質問することは、まさしく適切だった。

 しかし、この問題の最も難しい点は、アルマニャック伯自身がすでに十分な情報を持っていたと思われる問題について、なぜ乙女に相談したのか? その理由は何だったのかを明らかにすることだ。

 以下が最も可能性が高いと思われる。

 ジャン四世(アルマニャック伯)はマルティヌス五世を教皇として承認する用意はあったが、その服従が名誉ある、理にかなったものであるように見せかけたかった。

 そのため、アルマニャック伯はこれから取ろうとしている行動の動機について、「聖女を通して語るイエス・キリストの命令に従う」という理屈を思いついた。しかし、その命令は彼の意向に沿ったものでなければならない。

 彼はジャンヌに、そしてひいては神に、手紙の中でやんわりと(彼が望む答えへ)誘導している。どのような返答が適切であるかを、注意深く示している。

 つい最近、自分を破門したマルティヌス五世が、「コンスタンツ公会議で全キリスト教国の同意を得て選出」されたこと、「ローマに居住」していること、「すべてのキリスト教国の王が服従している」という事実を強調しているではないか。

 その反面、クレメンス八世がわずか3人の枢機卿によって選出されたこと、そしてさらに滑稽なベネディクトゥス十四世がたった1人の枢機卿からなるコンクラーベ(教皇選挙)で選出されたことを指摘し、後者二人の教皇選出は無効だと暗示している。[99]

2.5 三人の教皇(4)ジャンヌからアルマニャック伯への返信

 これほど明白な説明を受けて、それでもなお「マルティヌス五世が真の教皇かどうか」をわずかでも疑う余地があるだろうか?

 しかし、このような巧妙な策略はジャンヌには通用しなかった。
 彼女には、手紙の内容がまったく理解できなかったのだ。

 馬に乗りながら読んでもらったアルマニャック伯の手紙は、ジャンヌからすれば非常に難解かつ曖昧に思えたに違いない。[100]

 ベネディクトゥス、クレメンス、マルティヌスという名前を、ジャンヌは一度も聞いたことがなかった。つねに会話していた聖カタリナと聖マルガリータは、教皇について何も教えてくれなかった。

 聖女たちは、フランス王国に関することしか話さなかった。
 ジャンヌもその慎重さから、口にする予言は戦争関連だけに限定していた。この事実は、あるドイツ人聖職者によって、ジャンヌの特筆すべき事柄として指摘されている。[101]

 しかし今回だけは、預言者としての名声を保つため、そしてアルマニャックという称号にジャンヌは強く惹かれたため、ジャン四世(アルマニャック伯)に返答することにした。

「今は真の教皇について教えることはできないが、神が乙女に啓示するところに従って、三人のうち誰を信じるべきかを後で伝える」

 ようするにジャンヌは、神託の発表を後日に延期する占い師のやり方に倣ったのである。

「ジーザス † マリア
 アルマニャック伯爵、我が良き友、愛する人よ、
 ジャンヌ・ラ・ピュセルより、あなたからの手紙が
 私のところに届いていることをお知らせします。

 手紙の中で言及されている三人の教皇のうち、
 どの教皇を信じるべきかを私に尋ねるため、
 あなたが住んでいる地域から私宛てに送ったと
 その手紙は伝えています。

 この件については、今のところ、
 私がパリに着くか、あるいは
 どこか別の場所で休息を取って落ち着くまで、
 真実を伝えることはできません。

 なぜなら、今は戦争のことでとても忙しいからです。
 ですが、私がパリにいると聞いたら手紙をください。

 そうすれば、あなたが正しく信じるべきこと、
 そして全世界の王であり、正義であり、
 最高権力者であるわが主の助言によって
 私が知ったこと、あなたがなすべきことを、
 私の知る限り、教えましょう。

 神にあなたを委ねます。神があなたを守られますように。
 8月22日、コンピエーニュにて記す」[102]

 ジャンヌはこの返答をする前に、善良な修道士パスケレルにも、同じく善良な修道士リシャールにも、あるいは他の同行者の誰にも相談しなかったようだ。

 もし仲間の誰かがこの手紙のことを知っていたら、「真の教皇はローマにいるマルティヌス五世である」とジャンヌに教えただろう。あるいは、「教皇と対立教皇について神の啓示に訴えることは、ジャンヌが教会の権威を軽視している(と見なされる危険な行為だ)」と忠告したかもしれない。

 神が、教会の秘密について聖人に打ち明けることが、たまにはあるかもしれない。しかし、そのような非常に稀な特権を、安易に期待するのは軽率すぎる。

 ジャンヌは、手紙を持ってきた使者と短い言葉を交わしたが、面会は短時間で終わった。

 アルマニャック伯の使者が、町に居続けることは安全ではなかった。
 兵士たちが、主人(アルマニャック伯)の犯罪と裏切りに対する報復をしようと画策したからではない。

 ラ・トレモイユ卿がコンピエーニュにいたせいだ。
 彼は、現在アルマニャック伯がリッシュモン大元帥と同盟を結んで、自分に対して何か企んでいることを察知していた。

 ラ・トレモイユは、アルマニャック伯ほど悪意に満ちていなかった。
 それでも、哀れな使者は、オワーズ川に投げ込まれるところをかろうじて逃れた。[103]

2.6 サンドニ進軍(1)馬を盗まれた司教(馬泥棒について文末で補足)

 (アルマニャック伯の手紙を受け取った)翌日、8月23日の火曜日、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)とアランソン公は国王に別れを告げ、大勢の兵士を率いてコンピエーニュを出発した。

 イル・ド・フランスのサンドニへ進軍する前に、彼らは国王が派遣した兵士の一団を集めるためにサンリスへ向かった。[104]

⚠️イル・ド・フランス(Île-de-France):パリを中心としたフランスの首都圏。海に面していないが、川に囲まれて島のような地形になっているためこう呼ばれる。

 ジャンヌはいつものように、取り巻きの修道士たちに囲まれて馬を走らせた。

 世界の終わりが近づいていると予言していた修道士リシャールが、この集団に加わっていた。彼は他の修道士たち、さらにはジャンヌの従軍司祭を務める修道士パスケレルよりも優遇されていたようだ。サンリスの城壁の下で、ジャンヌが告解(懺悔)したのはリシャールだった。

 同じ場所で、クレルモン伯とアランソン公と共に[105]、ジャンヌは二日連続で聖体拝領を受けた。この頃、ジャンヌの身柄は、聖体拝領の儀式をかなり頻繁にやる習慣のある修道士たちの手に委ねられていたに違いない。

 サンリスの司教は、ジャン・フーケレルという人物だった。
 これまでずっとイングランド陣営につき、ボーヴェ司教のピエール・コーションに全面的に忠誠を誓っていた。

 国王軍が近づくと、用心深いジャン・フーケレルは、大金を隠すためにパリへ逃げた。彼は自分の財産・所有物を非常に大切にしていた。

 軍の誰かが、フーケレルが所有するハクニー(hackney:ハクニー種の馬、乗用馬)を略奪してジャンヌにあげた。さらに、町の徴税官と塩税ガベル役人への手形(契約書・請求書)によれば、金貨200サリュー[106]がジャンヌに支払われた。

 フーケレルはこの盗品の取引に不満を抱き、馬を返すよう要求した。

 彼の抗議を受けて、ジャンヌは手紙を書かせ、「もしあなたが望むなら返してもいい。この駄馬は、武装した兵士が乗るには耐久性が足りないのでいらない」と伝えた。

 馬はラ・トレモイユ卿に預けられ、主人のもとに届けるよう頼んだが、サンリス司教が奪われた財産を受け取ることはなかった。[107]

 町の徴税官と塩税ガベル役人への手形は、おそらく無価値だっただろう。そして、神に仕える敬虔な司教ジャン・フーケレルは、おそらく馬も金貨も戻ってこなかったのだろう。

 この件でジャンヌに非はなかったが、ボーヴェ司教(ピエール・コーション)とパリ大学の聖職者たちは、教会の馬に手を付けるという冒涜行為の重大さを、間もなく彼女に思い知らせることになる(異端審問で争点のひとつになる)。[108]

⚠️馬泥棒:窃盗罪の中でもとりわけ重罪。現行犯でつかまった場合、裁判抜きで現場で処刑されても文句を言えなかった。

⚠️補足:仕事率の単位に「馬力(horsepower)」という言葉があるように、20世紀初頭まで耕作・輸送・戦争・移動手段などあらゆる場面で馬は必要不可欠。繁殖して使途に合わせて調教し、病気もケガも寿命もあるから維持費もかかる。馬泥棒は、所有者が長年かけてきたコストを台無しにして(使役動物だが愛着もあるだろう)奪う行為であり、被害者の生活に深刻なダメージを与えかねない。現代人にはわかりにくいが、当時の人は馬泥棒への《《処罰感情がかなり強い》》といえる。

⚠️さらに補足:馬泥棒が重罪だったことに加えて、今回の件は「教会の財産を盗んだ」ため、さらに罪の重さが加算される。ジャンヌが直接盗んだのではなく、仲間からもらったものだが、所有者から抗議を受けて本気で返す気があったなら、上記の手紙を届けに行く使者に「盗まれた馬」を託して返還するのが筋だろう。敵か味方かに関係なく、ジャンヌの対応はだいぶ心証が悪い。
実際、異端審問ではこの件も訴訟に含まれており、ジャンヌは「ラ・トレモイユに預けた」と主張しているが、苦しい言い訳で無理がある。ラ・トレモイユが横取りした可能性もなくはないが、特に親しくもない相手に本当に預けたかどうか不明。強欲で評判の悪い人物に罪をなすりつけようとした可能性も考えられる。

2.7 サンドニ進軍(2)王家の軍旗オリフラムを奪還

 パリの北、大都市から2リーグ(約5マイル/約8キロ)離れたところにサンドニの塔がそびえ立っていた。

 8月26日、アランソン公の軍隊がそこに到着し、町は強固に要塞化されていたにもかかわらず、抵抗を受けることなく入城した。[109] この地は、非常に豊かで非常に古い、名高い修道院で有名だった。

 以下は、その修道院の創建にまつわる物語である。

 フランク王国(フランス王国の前身)メロヴィング朝の第四代国王ダゴベルトは、幼い頃から聖ドニを熱心に崇拝していた。父王クロタール二世の怒りに震えるたびに、彼は聖なる殉教者の教会に避難した。
 ダゴベルトが亡くなったとき、ある信心深い男が、王が神の法廷に召喚される夢を見た。多くの聖人たちが「王は教会を荒らした」と訴え、悪魔たちが地獄に引きずり込もうとしていた。その時、聖ドニが現れて仲裁したおかげで、王の魂は救われ、罰を逃れた。

 この物語は真実であると信じられ、王の魂は肉体に戻って懺悔したと考えられていた。[110]

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が軍隊を率いてサンドニを占拠した時、修道院長シュジェールによって建てられた修道院教会の塔、三つの玄関、城壁に囲まれた胸壁は、すでに300年の歴史があった。

 ここは、歴代フランス王が埋葬されている霊廟だ。
 アランソン公とジャンヌの軍隊は、(パリ包囲の前に)王家の軍旗「オリフラム」を取り返すために来たのである。14年前に亡きシャルル六世がその旗を持ち出して以来、誰もそれを掲げていなかった。[111]

 フランス王家の軍旗にまつわる数々の奇跡が語り継がれていた。
 ジャンヌはそれらの奇跡のいくつかを知っていたに違いない。フランスに来た際、王太子シャルルを「オリフラム」というあだ名[112]で呼び、勝利を誓い約束した[113]と言われているからだ。

⚠️オリフラム(oriflamme):フランス王家の軍旗。ラテン語の「黄金の炎(Aurea flamma)」に由来し、宗教的な「聖なる旗」の意味も兼ねる。王の怒りを示すとも言われ、この旗が掲げられた戦場では、一切の容赦・恩赦・捕虜を許さず、旗が下げられるまで無慈悲な戦い(皆殺し)が続けられる。旗にまつわる詳細は、上巻・第六章『6.15 ジャンヌの規範「私のオリフラム」』参照。

 また、サンドニの霊廟には、王たちとともに(賢明王シャルル五世に仕えた)大元帥ベルトラン・デュ・ゲクランの心臓が保管されていた。[114]

 彼の高い名声を聞いて、ジャンヌはラヴァル夫人の長男ギー・ド・ラヴァルにワインを贈った。ギー・ド・ラヴァルの祖母はベルトラン卿の2番目の妻だった。ジャンヌは、勇敢な名将の未亡人へ敬意を表して小さな金の指輪を贈り[115]、贈り物が貧弱であることを許してくれるよう頼んだ。

 サンドニの修道士たちは、貴重な聖遺物を保管していた。
 例えば、(キリストが磔刑に処されたときの)本物の十字架の木片、幼子イエスを包んでいた亜麻布、カナの婚礼で水をワインに変えた水差しの破片、ローマの聖ラウレンティウスを火あぶりにしたときの格子状の焼き網(グリラ)の横木、聖マグダラのマリアの顎、聖王ルイが脾臓の魔よけとして使ったタマリクス材の杯などである。

⚠️カナの婚礼:新約聖書『ヨハネの福音書』に書かれているキリストが最初におこなった奇跡。

⚠️ローマの聖ラウレンティウス:西暦258年にローマで殉教した聖人。生きたまま熱した鉄格子(格子状の焼き網)の上で火あぶりにされた。その際、処刑人に向かって「こちら側は焼けたから、もう引っくり返してもいい」と語ったといわれる。

2.8 サンドニ進軍(3)聖ドニと聖ミカエル

⚠️サンドニ(Saint Denys)について
フランスでは有名すぎて、原著の情報だけでは説明不足につき補足。
フランスの守護聖人。生前はパリの司教だったが、パリ近郊のモンマルトルの丘で斬首刑に処せられた。伝説によると、遺体は斬り落とされた自分の首を拾い上げ、説教しながら数キロメートルを歩いたとされる。彼が立ち止まり絶命した場所に礼拝堂が建てられ、歴代フランス王の霊廟サンドニ大聖堂になった。

 サンドニでは、この地の由来となった「聖ドニの首」を展示していた。なお、すでに述べたように、同じ時期にパリのノートルダム大聖堂でもその首の一部が確かに展示されていた。

 ジャン・ジェルソンは、亡くなる数日前にジャンヌ・ラ・ピュセルについて論じた際、「聖ドニの首と同じように、乙女を信じることは信仰(faith)の問題ではなく教化(啓蒙、edification)の問題である」とし、「ただし、教化(啓蒙)がスキャンダル(不祥事・醜聞)とならないように、どちらの場所でも《《聖ドニの首》》は崇拝されるべきだ」との見解を記している。[116]

⚠️補足:faithは「信仰、信条」、edificationは「道徳や倫理の啓蒙・教化」。ようするに、聖ドニの首もジャンヌの声も、信じるかどうかの問題ではなく、人々に良い影響を与えるかどうかが重要だということ。
詳細は、上巻・第十四章『14.6 ジャン・ジェルソンの意見書(2)信仰と献身を区別する』参照。

 サンドニの修道院に置かれているもの全てが、フランス王家の尊厳と権威、そして高い信仰心を誇示していた。

 ここに集められたユリの王家の紋章やシンボルやサインを見て、ジャンヌはきっと喜びに胸を躍らせただろう。もし、天上の幻視に心を奪われた乙女の目に、地上の物を認識する余裕があったなら、そして、耳元で絶え間なくささやく声が、つかの間の休息を与えてくれたならの話だが。[117]

 聖ドニは偉大な聖人だった。彼がアレオパゴス派の聖人だったことは疑いようがなかったからだ。[118]

 しかし、聖ドニは自分の名を冠した修道院を(イングランド軍に)奪われたため、もはやフランス国王の守護聖人として崇拝されなくなっていた。

 それ以来、王太子(シャルル七世)の支持者たちは、聖ドニから聖ミカエルに宗旨替えした。アヴランシュの近郊にある、聖ミカエルの名を冠した修道院(モン・サンミシェル)がイングランド軍に勝利を収めたからだ。

 ドンレミ村の庭でジャンヌの前に現れたのは聖ミカエルだった。
 だが、ジャンヌは、フランス軍が戦うときの雄叫びが今も「サンドニ!」であることをよく知っていた。[119]

⚠️補足:なお、イングランド軍は「セントジョージ!」と叫ぶ。日本の武士が神仏に戦勝祈願をするように、ヨーロッパの騎士もゆかりのある守護聖人に武運と加護を祈って《《鬨の声》》をあげた)

2.9 サンドニ進軍(4)魔術疑惑と略奪生活

 戦争で荒廃した豊かな修道院(サンドニ)の修道士たちは、貧困と無秩序の中で暮らしていた。[120] アルマニャック派とブルゴーニュ派が代わる代わる近隣の畑や村に押し寄せ、略奪と破壊を繰り返し、持ち去れるものは何も残さなかった。

 サンドニでは、キリスト教世界で最も大きな定期市のひとつ「ランディット」が開催されていたが、今や商人たちは来なくなっていた。

 1418年開催のランディットは、サンドニの主要道路にあるレ・フィーユ・デュー修道院の近くに、ブラバント産の靴を売る露店がわずか3軒出店したのみだった。1426年以降、定期市は全く開催されていなかった。[121]

⚠️サンドニの定期市ランディット(Foire du Lendit):毎年6月11日〜24日までの2週間、パリとサンドニの間の平原で開催され、ヨーロッパ全土とビザンチン帝国から商人1000人が集まった。町の中ではなく平野の街道で開催されるため、安全が確保できない戦争の時代には中止された。7世紀から記録が残る伝統的かつ大規模な定期市だったがフランス革命時代に消滅。関連施設も破壊された。

 アルマニャック派が接近しているという知らせを受けて、農民たちは穀物が熟す前に刈り取ってパリへ運び込んだ。

 アランソン公の兵士たちはサンドニに入ると、町が無人になっているのを発見した。主な市民たちはパリに避難していた。[122] 町に残っていたのは、ごく少数の貧困世帯だけだった。

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、生まれたばかりの二人の赤子を洗礼盤の上で抱きかかえた。[123]

 敵たちは、サンドニでおこなわれたこの洗礼式について聞くと、「ジャンヌはろうそくに火を灯して赤子の頭上に傾け、溶けた蝋を垂らして運命を読み取ろうとした」と非難した。

 ジャンヌがこのような行為をしたのは、どうやら初めてではなかったようだ。

 町に入ると、幼い子供たちがひざまずいてろうそくを差し出し、ジャンヌはそれを喜ばしい捧げ物として受け取った。ジャンヌはこの無垢な子供たちの頭上に燃える蝋を3滴垂らし、この儀式によって彼らは必ず善良になると宣言した。

 ブルゴーニュ派の聖職者たちは、ジャンヌのこれらの行為を、偶像崇拝と魔術とそれに関連する異端であると解釈した。[124]

 ここサンドニでも、ジャンヌは兵士たちにバナー旗を配った。
 イングランド側の聖職者たちは、それらの旗に魔法をかけているのではないかと強く疑った。当時は誰もが魔法を信じていたため、そのような疑いをかけられることは危険を伴うものだった。[125]

 ジャンヌとアランソン公は時間を無駄にしなかった。
 サンドニに到着するとすぐに、パリの門前で小競り合いを始めた。
 一日に2〜3回、散発的な戦闘を繰り広げ、特に、サンドニ門の風車のそばやラ・シャペルの村でよく戦った。

 ジャン・ド・ブイユは「毎日、戦利品を略奪した」と告白している。[126]
 略奪と破壊が繰り返されてきた地域に、まだ奪えるものが残っていたとは到底信じ難いが、従軍していた貴族の一人はこのように証言している。

⚠️ジャン・ド・ブイユ(Jean de Bueil):ジャンヌの戦友の一人。のちに自身の体験に基づいた半自伝『ル・ジュヴァンセル(Le Jouvencel)』を著した。シャルル七世時代の百年戦争に従軍し、ジャンヌ本人を知っている当事者による貴重な記録。

 聖書に書かれた『モーセの十戒』のうち、第七戒「汝、盗むなかれ」を尊重し、ジャンヌは仲間の兵士たちにいかなる窃盗も禁じた。盗んだものだと分かると、差し出された食料を必ず断った。

 実際には、ジャンヌも他の者たちと同様に略奪によって暮らしていたのだが、そのことを認識していなかった。

 ある日、スコットランド人が「盗んだ子牛の肉を食べているじゃないか」と指摘すると、ジャンヌは激怒して彼を殴りつけようとした。聖なる乙女といえど、このような激しい感情に駆られることがままあるのだ。[127]

2.10 休戦協定(1)騎士道理論家ジョフロワ・ド・シャルニーとエトワール騎士団のこぼれ話

 ジャンヌはパリの城壁を注意深く観察し、攻撃に最も有利な場所を探していたと言われている。[128]

 しかし、実際には他のあらゆることと同様に、この件に関してもジャンヌは「声」に頼っていた。それ以外のことでは、彼女は勇気と善意において他のどの兵士よりもはるかに優れていた。

 ジャンヌはサンドニから国王に何度も書簡を送り、パリを占領するよう促した。[129]

 しかし、その頃のコンピエーニュでは、国王とその評議会はブルゴーニュ公の使節と交渉中だった。
 使節のメンバーは、ボールヴォワール領主のジャン・ド・リュクサンブール、アラス司教のユーグ・ド・カイユ、(リニー領主の)ダヴィッド・ド・ブリム、そして《《あのシャルニー卿》》もいた。[130]

⚠️シャルニー卿(Lord of Charny):百年戦争の初期にフランス側で戦った騎士ジョフロワ・ド・シャルニーについて。フランスでは説明するまでもなく有名な人物のようだが、現代日本人にはまったくわからんので補足。
半自伝『ジョフロワ・ド・シャルニーの書』、フランス王ジャン二世がイングランドのガーター騎士団に対抗するために創設したエトワール騎士団の理念と問題点を記した『騎士団の書』などの著者。ブシコー、サントレと並ぶ三大「騎士道理論家」のひとり。なお、ジョフロワ・ド・シャルニーは1429年当時は故人につき、本文中の人物は子孫だろう。

⚠️エトワール騎士団(Ordre de l'Étoile、星の騎士団):フランス史上初の君主制騎士団・軍事勲章だが、ポワティエの戦いで敗北・瓦解した。軍事的には失敗したが、騎士道の理念(軍隊の人道的なあり方)、軍事勲章のシンボルに「星」を採用するなど、後世各国の騎士団〜近現代の軍隊に影響を残す。また、ルイ14世よりもはるか以前に「老騎士たちが余生を過ごすための施設を作る」構想を打ち立てた。敗北と捕虜の印象が強いジャン二世が善良王(le Bon)と呼ばれるのは、この辺が由来だろう。
ちなみに、エトワール騎士団のモットーは「星は王への道を示す(Monstrant regibus astra viam)」

 以前述べた、15日間の休戦期間はすでに満了していた。

 この件に関する唯一の情報は、ジャンヌがランス市民に宛てた手紙の中に記されている。ジャンヌによれば、ブルゴーニュ公は15日目にフランス王に都市を明け渡すことを約束していたという。[131]

 仮に、ブルゴーニュ公がそのことを合意していたとしても、何か条件があったかもしれず、約束の詳細は不明だ。したがって、条件の有無とそれが履行されたかどうかを断言する立場にはない。

 なんにせよ、ジャンヌはこの約束をまったく信用していなかった。
 そして、ジャンヌの言い分はまったく間違っていない。
 しかし、すべてを知っていたわけではない。

 ジャンヌがランス市民に休戦協定について不満を訴えていたまさにその日、ブルゴーニュ公フィリップは、イングランド摂政(ベッドフォード公)からパリの指揮権を譲渡された。今後はブルゴーニュ公の好きなようにパリの処遇を決める立場にあったのだ。[132]

 フィリップ公は、モントロー橋で父の殺害現場に居合わせたシャルル・ド・ヴァロワの姿を見るのが耐えられなかった。だが、その一方で、イングランド人を憎み、彼らが地獄に落ちるか、島に帰ることを望んでいた。

 ブルゴーニュ公の領地にはブドウ畑と毛織物が非常に多く、非常に重要(な産業)だったため、平和を願わずにはいられなかった。

 ブルゴーニュ公フィリップは、フランス王になる気はなかった。
 したがって、貪欲さと偽善にもかかわらず、交渉する余地があった。

 だが、休戦期間の15日目が過ぎても、パリ市は依然としてイングランドとブルゴーニュの手に残っていた。彼らは友人ではないが、同盟者だった。

2.11 休戦協定(2)ブルゴーニュ公のパリ総督就任

 8月28日、またしても休戦協定が締結された。
 今度の休戦はクリスマスまで続き、セーヌ川以北のノジャンからアルフルールまでの全域に及ぶ。ただし、川を渡る場所にある町は除外されていた。

 パリ市の処遇については、「我らのブルゴーニュ公と我らのいとこ、双方の部下は、町を防衛し、戦争を仕掛けたり危害を加えようとする者に抵抗することができる」と明記された。[133]

 フランス陣営の宰相ルニョー・ド・シャルトル、ラ・トレモイユ卿、クリストフ・ダルクール卿、オルレアンの私生児卿、セー司教、そしてクレルモン伯やヴァンドーム伯、バル公(ルネ・ダンジュー)といった戦争に熱心な若い貴族たちを含め、この条項に署名した国王顧問官と血統貴族たちは、敵に武器を与え、パリへの攻撃を放棄したように見える。

 しかし、彼ら全員が愚か者だったわけではない。
 オルレアンの私生児卿は機転が利く人物として知られ、ランス大司教(ルニョー・ド・シャルトル)は無能の代名詞オリブリウスとは程遠い人物だった。[134]

 彼らは、ブルゴーニュ公のパリに対する権利を認めた時、自分たちが何をしているのかを間違いなく理解していた。

 ブルゴーニュ公フィリップは、8月13日からこの大都市の総督を務めていた。
 摂政ベッドフォード公は、イングランドよりもブルゴーニュ公のほうがパリ市民をうまく統制できると考えて、パリを譲渡した。なぜなら、パリに駐在しているイングランド人は少数で、外国人として嫌われていたからだ。

 シャルル王は、いとこ(ブルゴーニュ公、実際ははとこ)のパリに対する権利を認めることで、何か利益を得たのだろうか? 正確には分からないが、結局のところ、この休戦協定は他の協定と比べて良くも悪くもなかった。

 確かに、この休戦協定はパリを国王に明け渡したわけではない。
 だが、国王がパリを奪還することを妨げてもいない。

 アルマニャック派とブルゴーニュ派が戦う気になった時、休戦協定が戦闘行為を阻止したことがあっただろうか? 頻繁に結ばれた休戦協定は、実際にどの程度守られていたのだろうか?[135]

 この休戦協定に署名した後、国王はサンリスへ進軍した。
 アランソン公はそこで二度、国王に会っている。
 そして、シャルル七世は9月7日の水曜日にサンドニに到着した。[136]


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