SE7EN
1995年公開の映画『SEVEN』(SE7EN)。先日、この作品について少し書いて。気分がノッた。もっと書く気になった。

言わずと知れた超有名作でも・幾度となく観ていても、あなたがまだ知らないことがあるかもしれない。私も、また観ながらこれを書いている。
映像が美しい。ずっと雨を降らせてくれるから、ここちいい。
We are all gonna be real glad when we get rid of you, Somerset, you know what?
しょっぱなからサマセットが同僚にかなりのことを言われていて、笑う。笑うが、作品の大テーマに関わる話だ。
人間は善だ/人間は悪だの哲学対決。または、特に追求しない群衆。
前回の内容を貼っておく。






アンドリュー・ケビン・ウォーカーは、ペンシルベニア州立大の映画学科卒だが。映画業界で働いてはいなかった。(いくつか脚本を書いてみたり・映画制作に関わる副業をしたりはしていた)郊外から都市へ移り住みはしたものの、タワー・レコードの店員として働いていた。
ウォーカー「タワー・レコードで働いた3年間、ずっと、今週こそ書き終えてここを辞めようと思っていた」
自分の人生にぜんぜん満足していなかったウォーカーは、七つの大罪を犯罪の動機とする殺人犯が登場する、陰鬱で重苦しい脚本を書いた。ウォーカーがプロに見てもらおうとデヴィッド・コープに送り、コープがこれはすばらしいとエージェントに送った。


ちなみに。元祖『ジュラシック・パーク』と2作目の脚本を書いた彼は、最新作で久しぶりにジュラシック・シリーズに復帰した。恐竜好きな私はもちろん映画館で観た。
最終的に、ニュー・ライン・シネマが『SEVEN』の脚本を買った。

ウォーカーは言う。自分が住んでいた1986年から1991年は、ニューヨーク特有の問題が山積していた時期とかぶっていた。あらゆる街角に大罪が横行していたと。
例)1980年代半ばのニューヨークには、クラック・コカインが蔓延していた。タイムズ・スクエアの治安は今よりもずっと悪かったらしい。

ウォーカーの「七つの大罪殺人事件」というコンセプトは、世間知らずで都会慣れしていない若者が麻薬中毒者の多い大都市で暮らすーーそんな心境にもとづいて、生まれたものだった。
ウォーカーは、罪人に対して異常に敏感な人物がいたら、どんなことが起こるだろうかと空想した。それが『SEVEN』のはじまりだったのだ。

『ナショナル・ランプーン/クリスマス・バージョン』の監督が、本作の監督になる予定だった。1989年のアメリカのコメディ映画だそう。知ってる?私は観たことない。
ジェレマイア・チェチック監督で、と話が進む中。ウォーカーは脚本を大幅に変更することを求められていた。
彼は、チェチックらが望んだバージョンに対して、このように感じていたようだ。爆撃される教会に絵画で表現される七つの大罪……この人たちはバットマン映画(無論、時系列的にも内容的にもノーラン監督の『ダーク・ナイト』ではない)をつくりたいのだな。
詳しい理由はわからないが、チェチックはプロジェクトからおりた。新しい候補が探されることに。そして、デイヴィッド・フィンチャー監督に決まった。

他のすばらしい作品たちの話もさしこんでいくが、別にいいよね。いろいろと寄り道をしながらの方が、いい文章になるような気もするし。
『エイリアン3』後、大きな仕事をしていなかったフィンチャーのもとに、『SEVEN』の脚本が。
『エイリアン3』をおもしろくないという人もいるらしい。へーという感じ。何だったらおもしろいと言うのか。
フィンチャー監督作品にはS級~SS級が複数ある。(主観と書くべきところだが。実際、異論はないだろう)

『エイリアン3』と『セブン』と『ファイト・クラブ』を観たことはあるが、『ゲーム』や『パニック・ルーム』や『ゴーン・ガール』を観たことがないという人はいるだろう。
『ゲーム』は絶対に観なさい。人生哲学的な学びも得れるが。シンプルに展開がおもしろいし、俳優の演技もすばらしいし映像も美しい。

フィンチャーは、『SEVEN』のエンディングの秀逸さに特に心をうたれ。スタジオに、結末をオリジナルの方にしていいのなら受けると伝えた。
実は、プロデューサーたちは、主人公の妻が生き残るかたちに結末を変更していたのだが。何らかの手違いがあり、改変前のもの(緊迫したクライマックスを含むもの)が彼の手に渡った。
運命の(よい)いたずらを感じる。神もこのバージョンを観たかったようだ。

ウォーカー「最初はペンタという会社がマネージャーだった人物と共同で、次はチェチック氏が、オプション権を取得した。私が彼らの要求に従っていったため、物語は完全に別ものになってしまっていた。はじめに私が描いた『SEVEN』が映画になり、神に感謝している。フィンチャー氏にも。彼は私の人生を変えてくれた。著名な俳優たちも、自分の脚本(特にエンディング)を守るために戦ってくれた。私のような下っ端でなくモーガン・フリーマンが言えば、軽視されるはずがなかった」


下の段に貼る過去回でも書いたが、ハリウッドは原作者や脚本家に「やさしくない」ことも多い。特に、彼や彼女がまだ無名の場合。だが、フィンチャーはウォーカーを全面的に関与させ続けた。
最初の死体を演じたのはウォーカーだ。サマセットが連続殺人ではない事件を捜査している冒頭のシーンで、寒い中・長時間・下着姿で微動だにせず、死体役を立派に演じきった。思った以上に「関与」させられていた。笑
『グッド・ウィル・ハンティング』は、まわりからの意見もとり入れて、傑作が生まれたパターンだったのだが。





恋愛について書くと女性に読んでもらえる。恋バナをする。書いていないことのハッシュタグをつけれないくらいの誠実さが、私にはあるのだ。笑
もうすぐ沈没する船の上でないと、大恋愛をできないのか。もし、そうなら。私たちはみんな大バカ者だ。神もガッカリだよ。死神「私でさえ一世一代の恋をしたのに」(意味がわからない人は下に貼った作品を観よう)
午前中のダイナーでも大恋愛をしろ。
スマート?違う。過剰だから効いたのだ。女側がどれだけ常識的なはんちゅうにとどまろうとしても、男側がそのラインを超え続けたからだ。こんなイケメンに生まれていたら、自分だって恐れ知らずだった?大丈夫。ブラピと比較して考えるなんて、じゅうぶん恐れ知らずだ。
容姿のいい男はこれをできる男の100倍(比喩だから数はテキトーだ。1000倍でもいい)存在する。自己防衛で自分のかたちを変形させないから、この『ジョー・ブラック』のブラピはカッコイイのだ。老若男女、誰が見てもだ。
大恋愛でないのなら恋愛などしなくてよい。
引用元は私😂探求や追求が好きなことと矛盾していないと、自分で感じている。AというものにはAの醍醐味が・BというものにはBの醍醐味がある。それらがないAやBには、やる意味がない。たとえば「友人とくだらないおしゃべりをする」意味は「友人とくだらないおしゃべりをする」ことであるのだから、それで100なのだが。大恋愛でない恋愛より、私的にリアルにおもろみを測定して、勉強の方が断然おもろい。
恋に魂をゆさぶられていない男に「つまらない男」と言って、怒られたことはない。私がブスとかビンボーとか言っても思ってもいないということを、理解してくれるからだろう。
たしかに、ここ↓も名シーンだ。男の良さと女の良さが両方あって。ローズに so stupid, why !? と言いはしたが、ジャックもわかっている。自分の論理的な行動と彼女の非論理的な行動は、どちらも、愛と呼ばれるものからきていることを。
男が女を守った、99%そうとしか見えない流れだが。私は思う。男にも1%ある弱さを女が感知して、この展開になったのだと。男は他の男の(同性の)全てを一生見ない。男の全てを見るのは、競争しなくてよい相手・負けることのできる相手ーー女だけだ。
女にも「勝とう」とする男らは、異性と関わる醍醐味をわかっていない。カッコイイところを見せるのと弱さを見せないのは、違うことだ。

イェール大でグラフィック・デザインを学んだカイル・クーパーが、オープニングを制作した。あわせられたのはナイン・インチ・ネイルズの曲。
クーパーのこの仕事は人々から絶賛された。「映画本編よりも優れたタイトル・シーケンスをつくってしまうため、彼を起用したがらない監督もいる」と語られたほど。


文字がふるえるような描写は、その後の多くの映画に、敬意をもってまねされた。
フィンチャーは、別にタイトルは「固定」されていなくてもいいと考えていた。センスのよい人とセンスのよい人がタッグを組んで、このマスターピースは世に放たれたわけだ。
ヴァル・キルマーは「ジョン・ドゥ」役のオファーを断った。

同役を希望したがかなわなかったリー・アーメイは、警察署長役を得た。

ケビン・スペイシーはオーディションですばらしい演技を見せたという。
ブラピが、なぜ彼と契約を結ばないのだとフィンチャーを問いつめると。「彼は高すぎる」という答えが返ってきた。まだ知名度が低かったにもかかわらず、要求する出演料が高額だったのだ。そんなことはどうだっていいと言い(決まっている予算はどうでもよくないが笑)、プラピはすぐにスペイシーに電話をかけた。

彼の出演は公開まで明かされていなかったし、(本人の提案で)オープニング・クレジットにも見あたらない。エンディング・クレジットにその名が2度出るのは、最初に出ない分なのだ。

先ほど、まだ無名と書いたが。同じ95年の中で、『ユージュアル・サスペクツ』の公開は『SEVEN』より早い時期だった。スペイシーの存在は一気に世に知れ渡っていたわけだ。
スペイシー曰く。自分が映画に登場することを知らせてしまうと、観客は登場を待ち続ける。それでも現れないのだから、殺人犯役だと気づいてしまう。(自信云々でなく事実だ。『ユージュアル・サスペクツ』は相当ヒットした)
Fucking Dante. Goddamn poetry-writing faggot piece of shit. などとダンテに悪態をつく青年には、当時のブラピの方があうが。笑
ミルズ役は、はじめ、デンゼル・ワシントンにオファーされた。葛藤を抱えながらも高潔な男を演じることに定評のあった俳優に。

『ペリカン文書』『タイタンズを忘れない』『ボーン・コレクター』『デジャヴ』『ジョンQ』……ワシントンはすばらしい俳優だ。
彼は『トレーニング・デイ』で、アカデミー賞主演男優賞を獲得した2人目の黒人俳優となった。
とは言え、1人目はシドニー・ポワチエだからな。シンプルに活躍した時代が古い。誰それ?という人も少なくないだろう。私も大して知らなかったため、これを書きながら学んでみた。彼に関しては、また別の機会に。得たばかりの知は文章を書くには早すぎる。(主観)少しは私の人生観とからまないと、無味無臭のものにしかならない。
ワシントンは、『SEVEN』に出演すればよかった・人生のすばらしい機会を逃してしまったと、後によく後悔したそう。
黒人刑事2人の物語になるはずだったのか、と気づいた人がいるだろう。だが、そうではないのだ。
他の2つの中心的キャラクターも、演じたのは第二第三候補だった俳優だ。

ウォーカーがサマセット役にと望んでいたのは、ウィリアム・ハートだったらしいが。結局、オファーされたのはアル・パチーノやハリソン・フォードだった。彼らとはスケジュールがあわず、実現しなかった。
かつてブラッド・ピットとグウィネス・パルトロウが恋仲であったことも、彼女にオファーがいった理由の1つではあるが。(本作をきっかけに恋仲になったというのは、ハッキリと撮影中にとかキッチリと撮影終了後にという意味ではない。落ち着いてから世間にサマリーをお伝えしただけだし、何月何日から互いを特別に感じ出しーーなどと説明するわけがない)
フィンチャーは、それ以上に、パルトロウの演技力を高く評価していた。

一度は断り、もう一度頼まれても受けるかどうか決めかねていた彼女を、説得したのは誰か。もちろん「恋人」だ。この重要な役に君以外考えられない・僕は君のすばらしさを知っていると、アツく語ったのだろうか。愛している、一緒に挑戦しようとも言ったかもしれない。
特定の関係でない者どおしや特定の関係性が終わった者どおしが、I Love You. と言いあうことは、何もおかしなことではない。私は、日本もこのようになればいいと思っている。言霊だから。
この過去回で、あまりにも元夫や元恋人のことを忘れ去る女性陣について書いた。「ものすごくどうでもいい」とかね。言霊……。
ここで貼るのは、このショート動画がいいだろう。
トム・クルーズは、下品なインタビュアーに抵抗しただけでなく、大事な話をした。誰かと誰かが愛しあっているのだから、そこに何が付随されていてもいいだろ。著名人どおしが性的関係をもったかもたないかなど、そんなことが気になるという人たちは(赤の他人の性事情を知りたがるなんて正気か)、自分たちの人間性こそが問われていることを知った方がいい。
話を戻す。「誰でも」この役は断る。意味わかるよね。

『SEVEN』があるため、私の彼女のイメージはこうだ。

犯人を追うシーンでブラピは負傷した。
大量の水に足をすべらせたか、転倒してしまい。車のフロント・ガラスが割れ、彼の腕につき刺さった。かなりひどいケガで、かけつけたフィンチャーは顔面蒼白。
長期間の撮影中断かと思いきや。負傷する流れを話の中に入れれば済むとブラピ本人が提案し、続行された。

時系列的にそれより前のシーンを撮影する時、できる限り腕を隠すことに。ギプスで血流が悪くなった手元は紫色に。(スタッフの試行錯誤で目立たなくなっている)
役者って本当に大変な仕事。感謝があふれる。
暴食の罪の被害者を演じた役者は、大量の昆虫を体中にまかれた。

誰もが吐き気をもよおす現場で。モーガン・フリーマンは、なんとも彼らしく、目立たないところへ行ってから上品なため息を1つついたらしい。笑
強欲の罪の被害者を演じた役者は、撮影開始まで、具体的にはどんな役どころなのか知らされていなかった。全裸で椅子にくくりつけられる役だった。(全裸を拒否した彼にフィンチャーが、そっとシルクの下着を手渡した)

この被害者は、金に目がくらんでいたとしても絵の趣味はよかった。記憶に残るようなセンスのいい絵でないとならなかったからね。私もサマセット同様、絵が逆さまになっているのには絶対に何かあると、ここは追求し続けると思う。今までのやり方から、この犯人が凡ミスをしたなどということは、考えられない。


ちょうど「1年前の今日」犯人に拘束された(私もきっとここで確信する。コイツは本当に強敵だと)怠惰の罪の被害者を演じた役者は、オーディション時も40kgしかなかったにもかかわらず、「もう少しやせれないかな」と言われた。さすがに厳しいと答えても、合格したのだが。

SWAT隊員を演じた役者らは、死亡していると思われた被害者が実は生きていた、という展開になることを聞いていなかった。彼らがあわてふためく様子は演技ではなかったのだ。

セット装飾の担当者は、死んだ売春婦の役を演じてみたいかとたずねられた。その役を特に演じてみたい人などいないだろうが。彼女は、私のナイス・バディーが望まれているのね的な冗談を言い、ひき受けた。明るくていい人だね。色欲の罪の被害者だ。
色欲の罪のもう1人の被害者は、極度に混乱した感じをつくり出そうと、ためしに数日間ほとんど眠っていない状態で撮影にのぞんでみた。

これは絶対に書きたい。
サマセットに「悪いが、後にしてくれないか」と言われた掃除係の話だ。いや、クリスティー様の話だ。

フィンチャーと他の人たちの会話↓
「友人がサマセットの名前を削る役をやりたがっている」「あの役をやりたい?笑。OK」撮影当日、クリスティー様は1時間遅刻してきた。「迎えの車に乗ったのはたしかなんだが……」「チョイ役に送迎車!?」「だって、ジョージ・クリスティーだから」一体何者なんだ、自分が知らないだけで相当な大物なのか。「遅れて申し訳ない。カプチーノを飲んでから来たかった」誰だってかまやしないと、フィンチャーは叫んだ。「さったと着替えろ!!」
あはは😂
感謝すべき相手は、もちろん役者だけではない。
ジョン・ドゥの書類は、全て手書きで用意された。小道具部門の人らが2ヶ月間書き続けた。
サマセットのセリフに、この部屋にある本を全て読むとした50人がかりで2ヶ月かかるーーというのがあるが。手書き文字に統一感を出すために、数人でやりとげた可能性がある。

ある作品を『SEVEN』の続編として制作していき、『Ei8ht』というタイトルにしようという、かんべん願いたい企画が存在した。
『SEVEN』のSALIGIA(七つの大罪のラテン語頭文字)が、アンソロジー形式で・それぞれ異なるクリエイティブ・チームによって描かれた、マンガがある。絶版となっているが、ある程度の金額を出せば収集できるだろう。


「高圧線の鉄塔が見えるか。あそこだ」なぜ、ジョン・ドゥは最終決戦をここで行いたかったのか。
元は、こういう設定だったそう。彼は、電力線が無線通信に支障をきたすのを知っていて、完全勝利(自分のシナリオを完成させること)に向けてぬかりがないようにと、そうした。
ちなみに。撮影現場でスタッフたちも、本当にトランシーバーで会話できなかったそうだ。

サマセットがミルズに、即座に犯人から離れるようにと、明確に伝えることができていたならば。ジョン・ドゥに語り出す間を与えず。結果は違ったかもしれない。

実際、混乱してしまい、うまくやれるか自信はないが。私だったら、「危ない!そいつから離れろ!」と叫ぶ。ざっくりとした危険性を表すのが最も効果的なはずだから。英語だったら最後に「Now!」と言って、有無を言わさず行動するよう、うながす。おそらく、これで奴に「勝てる」。
犯人はそういう可能性を排除してあったーーいい設定だ。なぜ、採用されなかった = 鉄塔による受信状態の悪さからサマセットの指示はミルズに通らなかった、という記述は特になかったのか。
蛇足だからだろう。そんな仕込みまでされていたと解説するようなシーンを入れる?わざわざ残りの数分に?絶対に要らない。思いついたことをなんでも話す人がぜんぜん美しくないのと、同じ。
通信機器を装着するシーンには、時間をさいたのに?あれは嵐の前の静けさ系で、意味がある。

サマセットがヘミングウェイに半分反対して半分同意して、終わり。これでいい。
「世界は素晴らしい場所であり、戦う価値があるーー後半部分には同意する」
連続殺人スリラーだが、実際、本作には暴力行為はほとんど出てこない。発生している最中の暴力は。例外:ミルズによる非武装のドゥの射殺。
「箱の中の頭部」もだ。映っていない。
フィンチャー「私がそんな画はさしこんでいないといくら言っても、生首がちらりと見えたと主張する人たちが途絶えることはない。人間は自分が見たいように物事を見るのだと、改めて実感した」

すでに書いたように、別の結末が計画されていた。一部の関係者らは、生首エンディングにどうしても抵抗を感じたのだろう。苦情が殺到するかもしれないだとか、まぁ、いろいろと考えたのだろう。

犯人はつまらない男だ。身勝手極まりない理論だとしても7という数や大罪にこだわれよ。つめがあまいんだよ。彼女は善人だろ。赤ちゃんはノンカウントか。
誘拐された妻が救出されるパターン・サマセットが犯人を撃つ/撃たないパターン・ミルズの愛犬の頭部が箱の中にあるパターン(嘘のようだが本当にこんなアイディアも出された)など。
ウォーカーとフィンチャーも、引退直前の先輩が代わりに手を下し後輩のキャリアを守るという案には、賛成しかけた。
それはそれでアリかと、発言力のある人たちがみんな傾きかけていた。その時も、ブラピだけは反対し続けた。ここまできてあきらめるな!と熱弁する彼が、目に浮かびそうだ。
(ほら、「これ」ができる人間となると、数がぐっと少なくなるでしょう。途中ではさんだ『ジョー・ブラック』のブラピを例にした恋愛の話は、この部分の伏線でもあった。冒頭のサマセットを超越しているミルズの下りも、関連話なわけ)
オリジナルのそれを守るために、大勢が努力した。

『SEVEN』は、ハリウッドにあったさまざまなしがらみを断とうと、果敢に挑んだ作品でもあったのだ。
デヴィッド・フィンチャーとブラッド・ピットとモーガン・フリーマンが、かつて、アツく語っていた。(DVDの特典などで聞ける)
俳優の顔を大きく出すだけのビジュアル・イメージには、うんざりだとか。宣伝部隊が、客を呼べると思われる無難なことだけして・その逆が起こりかねない「余計なこと」をしないところには、うんざりだとか。
3人とも、当時のポスターに不満を抱いていた。また役者の(自分たちの)顔写真かよ、と。イケてるデザインを出すクリエイターがたくさんいるのに、採用されない。それがかつてのハリウッドだった。
彼らの会話を聞くに。こんな感じにしたかったのだと思われる。

制作に関わった全ての人たちに感謝。すばらしい作品を私たちに観せてくれて、本当にありがとう。









