365.✴︎音楽エッセイ∶都会の余韻に、耳を澄ます──Grover、Harry、Matt、そして私の美意識
第1章:
一時期、スムースジャズばかりを好んで聴いていた。
今でも、夜にひとりで車を走らせるときは、自然とフュージョンやスムースジャズに手が伸びる。
理由ははっきりしている──あれは、自分の中にある“静けさ”を思い出させてくれる音楽だからだ。
この嗜好の原点は、学生時代に読んだ『遠藤周作』のエッセイだった。
タイトルは忘れてしまったが、内容は今でも鮮明に覚えている。
「一流に触れる努力」について書かれていた。
芝居、演劇、芸術──意識して“上質”に触れることが、人生の土台になるという話だった。
私はその言葉に導かれるように、20代前半は絵画を観に行き、美術館を歩いた。
そしてもう一つ、意識的に続けていた習慣がある。高級ホテルのラウンジを訪れることだ。
ロビーに佇むだけの日もあれば、少し余裕のある日は、カフェやバーで静かに時間を過ごした。調度品の質感、空間の光、他人の会話が溶けていくような気配──その静謐な空気の中に、いつも流れていたのがスムースジャズだった。
第2章∶
最初に惹かれたのは、Grover Washington Jr.だった。
サックスが甘すぎず、湿っぽくもない。
ただ、都市の空気にしっくりと馴染んでいた。「Just the Two of Us」を初めて聴いた夜の記憶は今でもはっきりしている。夜のネオンが滲むウィンドウ越しに、あのメロディが静かに浮かび上がった。
この曲には、“都会の孤独”ではなく、“都会の余裕”があった。
語らずして伝えること──それは、音楽の中にも美意識として宿るのだと、Groverの音が教えてくれた。
第3章:
次に惹かれたのは、Harry Connick Jr.。
彼のアルバム『20』を初めて聴いたとき、20歳の青年がどうしてこんなにも老成した音を奏でられるのか、驚いた。
「Do You Know What It Means to Miss New Orleans」──その穏やかな歌声には、敬意と矜持があった。
技巧を見せつけるのではなく、“曲に礼を尽くす”という佇まい。
音楽を語る前に、背筋が伸びるような品格を感じたのを覚えている。
Harryのピアノと歌声は、都会に生きる知性と静けさの象徴だった。
第4章:
そしてもう一人──Matt Dusk。
彼の音楽には、Groverのような都会性と、Harryのような伝統への眼差しが両方あった。
2000年代に入ってから登場した彼のネオスウィングには、現代の耳に馴染む軽やかさと、古き良きジャズのエレガンスが同居していた。
「Back in Town」や「It Can Only Get Better 」は、洒脱でありながら馴れ馴れしくはない。
近すぎず、遠すぎず──音楽の中に“大人の距離感”があった。
第5章:
Grover、Harry、Matt。
時代もスタイルも異なる三人だが、彼らの音楽には共通して“品”と“余白”があった。
それは、かつて私がホテルのラウンジで感じた静けさとも似ている。
誰もが声を張り上げず、光も抑えられ、しかしすべてが整っていた空間。
音楽とは、“自己主張”ではなく、“空間を整える意志”なのだと彼らは教えてくれた。
──だからこそ、今でも夜、ひとりで車を走らせるとき、
私は、彼らの音楽を選ぶ。
それはただ音楽を“聴く”ためではない。誰かと分かち合うためでもない。
自分の中にある、美意識を反芻するため。
そして、その静かな時間に、また少しだけ、確かさを取り戻すためだ。
別に、スムースジャズでなくてもいい。
誰にでも、そんな音があると思う。
静かに、自分自身と繋がり直すための音が──。
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