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長男の不登校で溺れそうだった私が、次男の「学校行きたくない」に前ほど焦らない理由

こんにちは、サチです。

新小1の次男が「学校に行きたくない」と言っています(^^;;

入学式の直後から、学校はあまり好きじゃなさそうでした。
でも、お友達がいることで何とか行けていた、という感じでした。

ところが今朝は、そのお友達が朝「学校いこー」と迎えに来てくれても、行けませんでした。

その時、私はふと、長男が不登校だった頃の自分を思い出しました。

あの頃の私は、もっと焦っていたし、もっと怖がっていた。
「子どものため」と思いながら、実際には自分の不安にもかなり飲まれていたと思います。

もちろん、今も不安がないわけではありません。
でも、あの頃とは見えているものが少し違う。

たぶんそれは、子どもの問題と、私自身の不安を、前より少し切り分けて見られるようになったからなんじゃないかと思います。

今日は、そのことを書いてみます。


「子どものため」のつもりでずっと焦っていた

現在小6の長男が学校に行けなくなった当時、私はとにかく焦っていました。

このまま学校に行けなかったらどうしよう。
勉強は? 友達は? 将来は?
今こんな状態で、本当に大丈夫なの?

そんなふうに、目の前の出来事からすぐに将来の不安へ飛んでいました。

しかもその不安って、ただ「子どもが心配」というだけじゃなかったんですよね。

この子が学校に行けないのは、私の関わり方が悪かったんじゃないか。
もっと早く気づいていれば違ったんじゃないか。
ちゃんとした母親なら、こんなふうになっていないんじゃないか。

そんな思いまで、かなり混ざっていました。

子どもの状態を見ているはずなのに、実際には、自分の中の「母親として失敗したくない」という気持ちまで強く揺れていたんだと思います。


「子どもの問題」と「私の不安」が混ざっていた

当時の私は、「子どものため」と思って動いていました。

それは嘘じゃなかったと思います。
本人がしんどそうなのも見えていたし、助けたい気持ちも本物でした。

でも今振り返ると、あの時見ていたものは一枚岩ではありませんでした。

長男本人のしんどさ。
学校の環境が合わないこと。
今の状態への戸惑い。

それは確かにあった。

でもそれとは別に、
「学校に行けないと大変なことになる」
「このままだと将来困る」
「母親として、ここでなんとかしなきゃいけない」
みたいな、私自身の恐れもかなり大きかったんですよね。

子どもの問題と、私の不安。
本当は別のものなのに、当時はそれがごちゃ混ぜになっていました。

ただ、これは今だから言えることで、あの時の私はそんなふうに思っていませんでした。
全部ひっくるめて「子どものため」だと思っていたし、それだけ真剣だったんだと思います。

だから、ごっちゃになること自体を「ダメだった」とは思っていません。

それだけ真剣だった。
それだけ、怖かった。

ただ、ごっちゃになったままだと、本当にしんどいんですよね。


ごっちゃになると、子どもの「今」が見えなくなる

何がしんどいかというと、子どもの“今”を見ているつもりで、実際には将来の最悪を見てしまうことです。

今この子は何が嫌なのか。
何がしんどいのか。
何なら少しラクなのか。

本当はそこを見たいのに、いつの間にか、「親である私が安心できる形」を探してしまうことが多くなります。

学校に戻れればひとまず安心。
行けるようになれば少しホッとする。
何か“前に進んでいる感じ”がほしい。

親だって人間なので、不安にもなるし、安心したいです。
ただ、「この子に今必要なこと」と「親である私が安心できる形」その二つが混ざったままだと、子どもの状態を見るのが難しくなる。

あの頃の私は、まさにそれで苦しくなっていました。


次男への不安はある。でも、あの頃とは不安の質が違う

「学校へ行きたくない」と言う次男への不安が、ゼロなわけではもちろんありません。

「次男も長男と同じ道をたどるのかなあ…」と思う瞬間もあるし、「次男に合う不登校スタイルは、まだよく分からないな」とも思います。
そこは普通に不安です。

でも、長男の時と決定的に違うのは、「学校に行かなければ大変なことになる」という種類の不安には、もうあまり飲まれていないことです。

前だったら、もっと焦っていたと思います。

どうしたら行けるようになるか。
ここで休ませたら長引くんじゃないか。
今なんとかしないとまずいんじゃないか。

たぶん、そういうモードにすぐ入っていたはずです。

でも今は、そこよりも先に「じゃあどうすれば次男が笑顔でいられるだろう」「どうしたら私も必要以上に怖がらずに見守れるだろう」と考えられるようになっています。

これは、自分の中でかなり大きい変化だなと思います。

不安がなくなったわけではない。
でも、不安の質が変わった。

“学校に行かないことそのもの”が怖い、というより、“この子に合う形がまだ見えていない”ことへの不安になっている感じです。

この違いって、すごく大きいなと思うんですよね。


「子どもの問題」と「私の不安」を切り分ける

長男の時の私は、それが全然できませんでした。

子どもの問題と、私自身の不安。
この子の気持ちと、母親として失敗したくない私の気持ち。

それが全部、ひとつの塊になっていたと思います。

でも今は、完全ではないにしても、これは次男本人の感じている嫌さだな、とか、これは私の「また同じことになるのかな」という不安だな、とか、少しずつ分けて見られるようになってきました。

分けて見られるようになったからと言って、すっきり解決するわけではないです。
相変わらず迷うし、不安だし、「これでいいのかな」とも思います。

でも、少なくとも、昔みたいに全部が一気に襲ってきて、自分まで溺れるような感覚は減りました。

不登校とか、「学校に行きたくない」とか、そういう場面って、親の中の不安や思い込みがものすごく刺激されるんですよね。

だからこそ必要だったのは、正解を見つけることよりも、まずは「これは子どもの問題なのか、私の不安なのか」を切り分ける視点だったんだと思います。


前回の記事で書いたこと

前回の記事では、教育や子育ての場面で、親の不安がどこで混ざりやすいのか、それを少し整理するための3つの問いについて書きました。

正直、こういう問いって、気持ちが揺さぶられていない時には「ふーん」で終わるのですが、不登校とか、「学校行きたくない」とか、そういう場面になると急に必要になるなと思います。

私自身、長男の時にこの視点がもっとあれば、もう少し苦しさを減らせたかもしれないし、今次男のことで揺れている場面でも、この問いがあることで、前よりも俯瞰して物事を見れている気がします。

もし今、子どものことを考えるほど苦しくなっていたり、「これは本当に子どものためなんだろうか。それとも私の不安なんだろうか」と揺れている方がいたら、前回の記事が少し整理のきっかけになるかもしれません。


おわりに

不登校みたいに気持ちが揺さぶられる出来事って、子どもの問題だけじゃなく、親自身の不安や思い込みまで一気にあぶり出すんだなと思います。

だから苦しいし、だからごっちゃになる。

でも、ごっちゃになるのは、愛情がないからでも、未熟だからでもなくて、
それだけ真剣だったからなんだと思います。

ただ、真剣であればあるほど、全部をひとつにしない方がいいんですよね。

子どもの問題は子どもの問題。
私の不安は私の不安。

きれいに切り分けられなくても、「今、私はどっちを見てるんだろう」と一回立ち止まるだけで、見える景色が少し変わる気がしています。

今の次男のことも、まだどうなるかは分かりません。
でも、少なくとも昔よりは「学校に行かせなきゃ」ではなく、「この子にとって何がいちばん自然か」を考えられるようになってきました。

それだけでも、私の中では大きな変化です。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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