IBM CEOが語る「長期ベット」の技術——Red Hat買収からQuantumまで、公開企業で10年賭けを通す方法
IBMは、創業115年を超えるテクノロジー企業だ。パンチカード、セレクトリック・タイプライター、メインフレーム——各時代の技術革新を牽引してきたが、近年は「かつての栄光」という文脈で語られることも少なくなかった。その流れを変えようとしているのが、2020年にCEOに就任したアービンド・クリシュナ氏である。
PwCが制作するポッドキャスト「The CEO Signal」に出演した同氏は、340億ドルのRed Hat買収の内幕、AIの「第二ラウンド」戦略、そして、量子コンピュータへの長期ベットについて率直に語った。投資家・ビジネスマンにとって、公開企業における長期的な技術投資の意思決定プロセスを理解するうえで示唆に富む内容だ。
1. IBMの「心臓部」を再定義する——テクノロジー・イノベーション企業への回帰
1-1. 「マーケティング企業」か「発明企業」か
CEO就任に先立つ6〜7年前から、クリシュナ氏は根本的な問いに向き合っていた。「IBMを定義するものは何か。マーケティングとスケーリングの会社なのか、それとも技術を発明し産業規模にする会社なのか」。
彼の答えは後者だった。人々がIBMについて記憶しているのは、パンチカードリーダー、セレクトリック・タイプライター、メインフレーム——いずれも「スケーリングとマーケティング」だけでは説明できない技術的飛躍だ。「それがIBMの心臓部だ」 というのがクリシュナ氏の確信であり、この認識がその後の一連の戦略を方向づけている。
1-2. IBMメインフレームの教訓——5年間の忍耐
クリシュナ氏が、「過去のIBMを象徴する製品」として挙げるのがメインフレームだ。1960年に1〜2年のプロジェクトとして始まったが、実際には5年を要し、全社のリソースを投入する大事業となった。発売後も最初の2年間は振るわなかったが、3年目の1970年には市場シェア80%に到達し、企業・政府のコンピュータ購買を再定義した。
この歴史は、クリシュナ氏の経営哲学——「本当に難しい問題に取り組み、完成まで何年もかける忍耐力」——の原型となっている。
2. 340億ドルのRed Hat買収——「市場が間違っていた日」
2-1. ハイブリッドクラウドという逆張りの確信
2018年、クリシュナ氏は、IBMが「ハイブリッドクラウド」戦略を取るべきだという結論に達した。当時の通説は、「企業は一つのパブリッククラウドに集約する」というものだったが、クリシュナ氏はその逆を信じた。「企業は複数のクラウドをまたいで運用し、既存のインフラも20年は消えない。だからこそ、すべての環境を横断するものが必要だ」。
自社開発なら3年+市場浸透に2年で計5年。買収なら即座に市場に出られる。候補を2〜3社に絞り込んだ中で、Red Hatは「今の課題だけでなく、次に来るものにも対応できる」という点で他の選択肢を上回っていたという。
2-2. 社内の80%が反対
しかし、IBMの時価総額の約30%にあたる巨額買収には、社内から激しい抵抗があった。クリシュナ氏の推定では「80%の人が反対だった」。反対の理由は悪意ではなく、自然な人間心理だ——巨額の資金が一つの買収に回れば、他のプロジェクトへの資本が消える。
クリシュナ氏は、まずCFOを味方につけた。「CFOは数字は私より上手にできる。だから、数字の話ではなく、ビジネスロジックを語った」。次に、CEOと取締役会を説得するために、大手コンサルティングファーム(ビッグ3の一つ)を第三者として起用。重要なのは、コンサルタントにIBMの顧客ではなく自社の顧客を調査させたことだ。バイアスを排除するための工夫である。
2-3. 株価▲20ドル、「不機嫌な取締役会」
買収発表日、IBMの株価は20ドル下落した。「市場は"お前たちは何をやっているんだ、過払いだ、うまくいかない"と言った」 とクリシュナ氏は振り返る。
その1週間後の取締役会は「ひどい雰囲気」だったという。他の議題も準備されていたが、「何も話しかけるな」という空気だった。しかし、クリシュナ氏は、「驚くほど冷静だった」と語る。市場が間違っていることを証明するには時間がかかると分かっていたからだ。
2-4. 3年後——32億ドルが60億ドルに
Red Hatの買収時の売上は32億ドル。3年後には60億ドルに倍増し、買収前よりも速い成長率を示した。市場のセンチメントは完全に反転し、「340億ドルで買ったものが今は1,000億ドルの価値がある」 と評されるようになった。
クリシュナ氏は、この経験から、「3年かかることもある」という教訓を引き出す。そして、この買収の成功が自身のCEO就任につながったことも率直に認めている。
3. 主要な反対意見と克服法
Red Hat買収で直面した主な反対意見は3つあった。
「オープンソースと独自技術は混ぜられない」——オープンソースコミュニティの支持を失い、シナジーではなく「ディスシナジー」を生むのではないかという懸念
「Red HatはIBMの競合と提携している」——なぜ彼らがIBMの傘下で仕事を続けるのか
「技術は人だ。人材は残るのか」——Red Hatの従業員が流出するリスク
これらはいずれも買収後の統合リスクであり、クリシュナ氏は一つひとつ具体的な緩和策を提示して信頼を積み上げていった。
4. ハイブリッドクラウド+AIの「接続レイヤー」戦略
4-1. Red Hat → HashiCorp → Apptio → Confluent
Red Hat買収後、IBMはHashiCorp、Apptio、そして、Confluentと立て続けに買収を進めている。インタビュアーが、「企業がクラウドやAIモデルを自由に組み合わせられる"接続レイヤー"を構築しているように見える」と指摘すると、クリシュナ氏は「それ以上に正確だ」と肯定した。
「私たちが行うすべてのことは、クライアントがハイブリッド環境を容易に活用できるようにすることだ。一つのものにロックインさせない」。これが一連の買収を貫く戦略的意図である。
4-2. 「ハイブリッドAI」の確信——100%の確率
クリシュナ氏は、AI市場もクラウドと同様にハイブリッド化すると「100%の確信」を持って断言する。
大規模言語モデル(LLM)は言語や動画には優れるが、すべての用途に最適ではない。例えば、乳がんのX線画像解析には、俳句やフランス語も扱える汎用モデルではなく、メモリアル・スローン・ケタリングやMDアンダーソンのデータで訓練された専門モデルが求められる。
将来的には、3〜4の非常に大きな汎用モデルと、数百〜数千のより小さく目的特化型のモデルが共存する世界になるとクリシュナ氏は予測する。
5. Watson Jeopardy!の教訓——「ブラックボックス」の失敗
5-1. 「完成品」ではなく「部品」を渡すべきだった
IBMがAIの代名詞だった時代がある。2011年、Watsonがクイズ番組「Jeopardy!」で人間のチャンピオンを破った瞬間だ。しかし、その技術の商業化は「お世辞にも成功とは言えなかった」(kindly mediocre success)とクリシュナ氏自身が認める。
失敗の核心は、技術を「完全なブラックボックスの回答」として提供しようとしたことだった。「新しい技術は完全なブラックボックスでは勝てない。部品として渡し、クライアント内のティンカラー(試行錯誤する人たち)が自信と安心感を得られるようにしなければならない」。
5-2. 「第二ラウンド」のAI戦略
この反省を踏まえ、現在のIBMは、AIを「部品」として提供するアプローチを取っている。ハイブリッドクラウドの「接続レイヤー」上で、企業が自社のデータと組み合わせてモデルを活用できる基盤を整える——これが「第二ラウンド」の戦略だ。
6. 量子コンピュータ——「AIは過去を活用し、量子は未来を計算する」
6-1. 10年間のベットの構造
IBMの量子コンピュータへの投資は2015年に始まった。当初は200,000人規模の組織から100人程度を充て、数千万ドルの予算を投じた。「会社の規模から見れば、失敗しても会社を壊さない程度のリスク」だった。
2020年頃から顧客価値の検証フェーズに入り、スケーリングやIP保護の課題に取り組み始めた。ここでベットの規模は大きくなるが、「できるかどうかの問題」ではなく「3年か4年か5年かの問題」にリスクが低減している。
6-2. AIとの補完関係
クリシュナ氏が繰り返す定義は明快だ。「AIは過去を活用して未来を少し予測する。量子は未来を計算する」。
具体的な応用例として挙げたのは以下の3つ:
肥料製造のエネルギー消費を100分の1に削減
金融商品のリスク裁定と価格計算
AIでは扱えない複雑な実世界問題の解決
6-3. 「今から考え始めるべき」
量子コンピュータの実用化まで3〜5年とクリシュナ氏は見積もる。そしてCEOたちへのアドバイスは「大金を使え」ではなく、「少人数のチームで"もし量子が来たらどう活用するか"を考え始めよ」だ。AIですら3年経っても多くの企業がまだ活用法を模索している現状を踏まえれば、量子の準備は今から始めるべきだという論理である。
7. 「シリコンバレーのFail Fastでは勝てない」——長期ベットのリスク管理
7-1. 「ベットが大きくなるほど、リスクは下がっていなければならない」
クリシュナ氏の投資哲学で最も特徴的なのは、ベットのサイズとリスクの逆相関だ。初期段階では小さなチームと少額の予算で高リスクを取る。進捗が見えてベットを大きくする段階では、リスクはすでに低減していなければならない。
「スタートアップなら完全な失敗の高リスクを取れる。しかし、公開企業では、問題を分解し、分かるものから進め、分からないものは脇に置いて後から戻ってくる」——これが彼の言う「エンジニアリング的アプローチ」である。
7-2. 不協和音の中に住む
公開企業で長期ベットをする最大の困難について、クリシュナ氏は、「頭の中の不協和音の中に住まなければならない」と表現する。リスクを取りながら、同時に測定可能な進捗のマイルストーンを要求する。この二つは矛盾するが、その矛盾を受け入れることが「本当に難しい問題を解く」鍵だという。
8. リーダーシップの実像——「孤独」と「協働」の共存
8-1. コンテキストを与え、判断を委ねる
クリシュナ氏がCEOの最大の仕事として挙げるのは、「チームにコンテキスト(文脈)を与えること」だ。文脈が共有されれば、チームは自律的に意思決定できる。これが「協働」の側面である。
一方、人事や困難な選択に関しては「一人で決めなければならない」。信頼する2〜3人に事後的に確認はするが、決断は先に自分で下す。「良い事実があれば意見を変える」という柔軟さも持ち合わせているが、最初の判断は常に孤独だ。
8-2. 「失敗してもバックアップする」文化
クリシュナ氏が強調するのは、リスクテイクを促す文化の重要性だ。「ある程度の失敗は許容される。助けを求めていい。すべての答えを知らなくていい」と伝えるだけで、チームの生産性は同じ期間で3倍になるという。
ただし条件がある。「透明性は双方向だ。私は透明でいる。あなたも透明でいてほしい。進捗を報告してくれれば、たとえ結果が悪くてもバックアップする。しかし、他の人から問題を知ることになったら、あなたは一人だ」。
9. 「テクノロジーはバランスシートと同じくらい重要だ」
9-1. ビジネスリーダーへの警鐘
他のCEOがAI(およびテクノロジー全般)について最も間違えていることを問われ、クリシュナ氏はこう答えた。「多くのCEOは、テクノロジーがバランスシートと同等に重要だということにまだ気づいていない」。
200年前は物的資産が価値だった。次に知識労働者、そして、資本へのアクセスが重視された。しかし、今、企業価値を最も左右するのはテクノロジーを活用する力だとクリシュナ氏は主張する。
興味深いことに、この認識は国家レベルではすでに浸透しているという。GDPに占めるテック企業の比率、株式市場の時価総額に占めるテック企業の比率——国家はこれを見て戦略を立てている。「群衆の知恵がある。政府は理解した。しかしビジネスリーダーは、30年前に学んだプログラムの延長で考えている人がまだ多い」。

