「大衆を狙わない」という戦略——On HoldingがNikeに挑める理由
スポーツウェア業界に新たな挑戦者が現れてから15年。スイス発のランニングシューズブランド「On(オン)」は、今、Nikeの約10分の1の規模にまで成長し、業界最速の成長企業としての地位を確立しつつある。2024年のバロン投資カンファレンスで登壇したOn Holding CEO・Martin Hoffmann氏は、その成長の核心を「プレミアム戦略の一貫性」と「人と文化への投資」に求めた。
1. Onの出発点——「もう一つのスポーツウェア会社」は求められていなかった
1-1. スイス発というブランドの制約と強み
Hoffmann氏は、Onの創業当時をこう振り返る。「15年前、誰も新しいスポーツウェア会社を待っていなかった」。しかし、それは同時に、業界の常識を問い直す余地があることを意味していた。
スイスという拠点は、ブランド構築における一つの制約でもある。「スイスから生まれるブランドは、プレミアムかラグジュアリーかのどちらかだ。マスマーケット向けのブランドはスイスからは作れない」とHoffmann氏は語る。この地理的・文化的条件が、Onが創業初日からプレミアム路線を選択した背景にある。
1-2. 使命——「運動を通じて人間の精神を点火する」
Onのミッションは、「ignite the human spirit through movement(運動を通じて人間の精神を点火する)」だ。Hoffmann氏自身も、毎日ランニングを続けており、「走り始めて15〜20分で、頭が澄み渡り、新しいアイデアが生まれ、笑顔になる」と話す。この個人的な体験がブランドの根幹にある。
2. 成長の方程式——イノベーションと卓越性の両立
2-1. 創業チームの補完性
Onは、共同創業者3名の異なる強みの組み合わせから生まれた。元アスリートで性能にこだわるOlivier、ブランドビルダーでありアーキテクトのDavid、そして誰をも説得できるCasperだ。Hoffmann氏はCFOとして参画し、後にCEOとなった。
「5人のリーダーシップチームの中に、すでにあらゆる強みと能力が揃っていた。これが非常に特別なことだった」とHoffmann氏は語る。互いの専門領域に対する高い信頼関係が、意思決定の速さとブランドの一貫性を支えた。
2-2. 戦略を変えなかったことの強み
創業から15年間、Onは、一度も基本戦略を変えていない。「間違った方向に進んでいないかと立ち止まることなく、明確な道を進み続けることができた」とHoffmann氏は述べる。5人のチームという規模が、迷いが生じたときに互いを支える力にもなったという。
「一人か二人が疑い始めても、残りの三人が『いや、進もう』と言える。これはかなり強力だ」
3. 製造革命——3分で靴を作るLightsprayテクノロジー
3-1. 125の手作業から自動化へ
スポーツウェア業界は製造面では保守的だ。「通常の靴は、約125の手作業を経て作られる」とHoffmann氏は指摘する。テスラのModel 3よりも手作業が多いというのが現実だ。
Onは、インターンが持ち込んだアイデアを起点に、ホットグルーガンのような仕組みで素材を有機的な形状に噴射する「Lightspray」技術を開発した。約2年半の研究開発を経て、現在ではスイスのチューリッヒで3分で一足の靴を完全自動生産できる体制を整えた。
3-2. 性能・デザイン・サステナビリティの三位一体
Lightspray技術が持つ意義は製造効率だけではない。素材の軽量性と高いフィット感は競技性能に直結しており、実際にマラソン選手のHelen Obiriが、この技術を用いた靴でニューヨークマラソンを制した。
さらに、CO2排出量は、アッパー素材で75%削減を実現。単一素材構造により完全リサイクルが可能だ。パリ五輪で初公開されて以降、より多くのモデルへの展開が進んでいる。Hoffmann氏は「ランニングだけではない。それ以上になる」と今後の可能性を示唆した。
4. ブランドを支える人——採用・文化・アンバサダー戦略
4-1. 採用倍率はハーバード以上
Onには年間20万件を超える採用応募がある。2024年には700名を新規採用し、現在の社員数は約4,000名だ。Hoffmann氏は「クリエイターはベストのクリエイターと働きたがり、イノベーターはベストのイノベーターと働きたがる」と述べ、優秀な人材が優秀な人材を引き寄せる好循環を語った。
採用プロセスでは7〜8回の面接を行い、カルチャーフィットを最重視する。「経験よりもマインドセット——起業家精神とアスリートスピリットを持っているか」が判断基準だ。
4-2. アスリートとの関係は「スポンサー」ではなく「パートナー」
Roger Federerが、Onのシューズを身につけたのは、最初は計画されていなかった。オフィスを訪問したFedererが予定の15分を2時間に延ばし、その後夕食へと続いた。「一緒に何かを作ろう」というアプローチがすべての始まりだった。
Onは、アスリートを「スポンサーする」のではなく「チームに加える」という姿勢をとる。引退後のキャリア支援や教育まで含めた長期的な関係が、Ben Shelton、Iga Świątek、Burna Boyといったアスリートや文化的インフルエンサーとのパートナーシップにも反映されている。
5. 成長の次の軸——アパレル・直営店・AI
5-1. 「第二のスタートアップ」としてのアパレル
アパレルは、現在売上の約8%を占めるにすぎないが、急速に成長している。フットウェアとアパレルは、製品開発から流通まで全く異なるビジネスであるため、Hoffmann氏は、これを「社内に立ち上げた第二のスタートアップ」と表現する。Lululemonが、10億ドル規模のアパレル企業であることを踏まえれば、Onにとっての潜在市場は大きい。
5-2. 直営店60店舗とグローバル展開
2020年まで直営店を持たなかったOnは、現在60カ国で60店舗を運営している。直営店は「ブランド体験の頂点」として機能し、卸売パートナーやEコマースとの多層的な流通を補完する。
5-3. AIをクリエイティブ産業に組み込む
Onの売上の約40%は、Eコマースだ。AIがショッピング体験を変える中で、Hoffmann氏は、その影響を「神経を使うが、同時に強気になれる機会でもある」と表現した。
特に注目するのは、消費者とのパーソナライズされたコミュニケーションだ。「将来は、一人ひとりに異なるニュースレターを送れる。サイトに来たとき、毎回違うものを見せられる」と述べた。一方、需給計画の最適化においてAIが果たせる役割も大きいとし、「在庫過多は値引きにつながり、プレミアムブランドにとって最悪の事態だ」とも語った。
ただし、Onがある程度の慎重さを持っているのは、「私たちはクリエイティブ産業にいる。感情を作り、ブランドを作る。それには常に人が必要だ」という認識からだ。
6. Nikeとの関係——ゼロサムゲームではない
6-1. Nikeの復活はOnの脅威か
Nikeが積極的な投資でブランド再強化を進める中、Onとの競合関係に注目が集まる。しかし、Hoffmann氏の見方は明確だ。
「過去15年間、Onの成功は、Nikeの不振によるものではない。Nikeの状況にかかわらず、私たちは市場全体を拡大することで成功してきた」
プレミアム路線への集中が、Nikeとの直接競合を避けつつ市場を広げる構造を作っている。「まだOnを知らない人が対象市場の75%いる」という事実が、Onの成長余地の大きさを示している。
おわりに
On Holdingの事例は、スポーツウェア産業における戦略的明確さの重要性を示している。プレミアムであり続けること、製造イノベーションを競争優位にすること、人と文化を成長エンジンにすること——これらの一貫した選択が、15年間で業界最速の成長を実現した。投資家・ビジネスマンの視点からは、Onがどのように「大衆を狙わない」という逆説的な戦略でグローバルブランドを構築したかは、ブランド経営と長期投資の本質を考える上で有益な事例だ。

