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なぜあなたのカメラ欲は終わらないのか? | 僕とカメラ | note


これまでのあらすじ


手元に大人気の最新ミラーレスカメラ、FUJIFILM X-E5があります。

泣く子も黙る、売り切れ必須のブラックのレンズキットモデルです。

えへんえへん!


そんな中、とあるイベントで他人に対してカメラマウント("写真"を楽しんでいる人に対してカメラ何使ってるの?と尋ねること)を取ってしまい、自己嫌悪と共に自分の中の「カメラとは?」が揺らぎ始める事件が起こります。


この中で僕は自問します。
「カメラが何だったら何だったと言うのだろう?」と。

今回はFUJIFILMのカメラ、西武百貨店そして日光東照宮の話に触れながら、僕たちのカメラに対する終わりなき欲望について語りたいと思います。

3,300字です。







カメラ(レンズ)選びは楽しい


カメラ選びは楽しい。レンズ選びも楽しい。
僕は子供の頃、変形ロボットを触って遊んだりしていたので、そんなふうにしてこっちのカメラをそっちのレンズに合体させて、最強の組み合わせだ!ガシャーン!みたいな遊びをずっとしているような気がする。

24mm、35mm、50mm、85mm、105mm…..。レンズ選びもキリがない。
そんなに色々な画角が欲しいなら24-105mmみたいな万能ズームレンズを買えば全てが解決すると思うのだけれど、実際には「いやそう言うことじゃないじゃん…」とため息混じりに抵抗してしまう。

その根底は、暗所性能がどうとか、ボケ感がどうとか、取り回しがどうとかではなく、「要は色々なレンズをガチャガチャいじって合体させたい」と言うところに帰着する。

身も蓋もないが、この言葉に明確に反論できる人が果たしてどのくらいいるのか。真実とは得てして身も蓋もないのである。


カメラにしても、性能が良ければいいと言う訳ではないのがポイントだ。

「LUMIX GX7mk2の方がファインダーが固定で使いやすいけどmk3の方が解像度は高いんだよなー」と言いながら2016年のカメラと2018年のカメラを比較して頭を悩ませている人がいたりすると、いかにカメラ選びが実質無限でキリがない世界なのかがわかるだろう。


ここで僕が何が言いたいのかと言えば、僕たちは究極のカメラに未だ出会えずにカメラやレンズを買ったり売ったりを繰り返しているのではなく、究極のカメラというのはこの世界にはそもそも存在せず、僕たちはカメラを買ったり売ったりすることそのものに快楽を得ているのだ、と言うことだ。






X-E5は究極のカメラだと思う(そして/やがて)


ここであえて逆説的なことを発言してみる。
FUJIFILM XE-5は究極のカメラである。

妥協のない磨き抜かれたデザイン、カメラに込められた物語、唯一無二のギミック、使いやすいインターフェイス、軽量コンパクト、高解像度、最強の手ぶれ補正、レンズ交換可能、チルト液晶、電子ファインダー、デジタルテレコン、typeC充電、そしてリセールバリューの高さ。

このカメラの弱点はもちろん色々あるだろうが、僕にとってはこのカメラは完全無欠のカメラである。誰がなんと言おうと間違いなく、このカメラ一台でもう何もいらない。そう思わせるカメラだ。


そして僕は脱力する。「終わってしまった」と。

カメラの趣味とは、<究極のカメラ>を探す終わりなき旅であり、そのゴール地点は"ユートピア"でなければならないのだ。
つまりそんなものは存在しない。だからこそ目指すのが面白い。


しかしそれが何かの拍子に本当の意味で達成されてしまったとき、僕たちは脱力する。このとき、カメラ趣味の一つの醍醐味は「死んで」しまうのだ。




その醍醐味はどのようなものなのか、説明しよう。

まずあなたは高性能なカメラが欲しい。しかし高性能なカメラは重たい。すると軽量なカメラが欲しくなる。軽量なカメラを買うと、今度はレンズ交換ができない。レンズ交換ができるカメラを手にいれる。しかしカバンの中で嵩張るー…etc

そうしてわらしべ長者の如くカメラを次から次へと買い換えていく営み…それそのものがカメラ界隈における定型パターンであり、(半ば市場によってあらかじめ仕組まれた)テンプレートなのだ。「それがカメラの楽しみ方ですよ(にっこり)」というわけだ。カメラ市場を支えているのがプロではなくアマチュアだというのも頷ける。


さて、僕もまた同じように旅をした。終わりなき旅のはずだった。


やがてX-E5に辿り着いた。辿り着い"てしまった"。
これが結果的に究極のカメラだった。


僕のカメラの旅は唐突に終わってしまった。



そして小さなため息と共に、信じられない言葉が僕の口から漏れる。

「もっと不完全なカメラがほしいな」

と。



西武百貨店と欲望の哲学


1988年、西武百貨店のキャッチコピーを手掛けたのは伝説のコピーライター糸井重里だ。「ほしいものが、ほしいわ。」という高度消費社会を体現するこのコピーを見たことがある人は多いのではないか。


僕たちはカメラが欲しいのではない。
「カメラがほしいが、ほしい」のではないか?と考えてみる。

自分のカメラは確かに気に入っている。当たり前だ、自分で選んで買ったのだから。
でも世の中にはもっと性能の良いカメラや、今のカメラにない性能のカメラが色々存在していて、その全ては当然手に入れられない。その豊かさの話をしたい。

手に入れられる豊かさではなく、手に入れられない豊かさの話を。


美学者・難波優輝は著書「物語化批判の哲学」の中で、欲求の概念を次のように説明する。

僕が新しいスマホを欲しがっているとする。ここには「新しいスマホを所有したい」という欲求がある。しかしこのとき、同時に「何かを欲しがっている状態でありたい」という欲求は満たされている。

次に僕は新しいスマホを手に入れる。すると「新しいスマホを所有したい」という欲求は満たされる。しかし同時に「何かを欲しがっている状態でありたい」という欲求は頓挫するのだ。

僕はこの概念を読んだとき、鳥肌が立った。
僕たちは何かが欲しくてたまらないとき、同時に「何かを欲しい私でありたい」という欲望が満たされているのだ。この理屈で言えば僕たちは永遠に満たされないではないか、と。

つまり言ってしまえば、欲望の完結というのは原理的にあり得ないということなのかもしれないということだ。


建築物は完成と同時に崩壊が始まる


世界遺産である日光東照宮の逆さ柱をご存知だろうか。

「満つれば欠ける」という言葉があるように、完全なものは完全になった時点から崩壊が始まるという考え方から、陽明門の12本ある柱のうち1本をあえて逆さまに立てているというものだ。いわば魔除けの意味合いだ。

建築物は完成と同時に崩壊が始まる。つまり、完全無欠なものにも不完全性を内包させなければ破綻してしまうのだ。


カメラの欲望も同じことが言えないだろうか。

自分の全ての欲望を満たす究極のカメラというのは本来存在しない。しかし、奇跡的にその究極のカメラを手に入れたとき、本当の満足が訪れるわけではない。

そこで新たにやってくるのは「何かを欲しがっている状態でありたい」という欲望の欠乏なのだ。(ほしいものが、ほしいわ。)



まとめ / なぜあなたのカメラ欲は終わらないのか?


結論だ。

なぜあなたのカメラ欲は終わらないのか。

その答えは2つある。一つは究極のカメラ(自分のあらゆる要望を満たしたカメラ)というのは存在しないから。そしてもう一つは、究極のカメラを手に入れることができたとして、それを手にした瞬間に「何かを欲しがっている私」を喪失するからだ。

誤解を恐れずに言えば、究極のカメラの獲得とは、手にいれるまではハッピーエンドに見えるが、手に入れた途端にバッドエンドに変貌するのだ。

少し難しいけれど、それは元々バットエンドだったものが露呈したのではない。手に入れてしまったことによって変貌してしまったのだ。


この結論を読んであなたがどう思うかはわからない。
それは人それぞれだと思う。「それは違うんじゃないか」と思う人もいるかもしれない。それは当たり前のことだと思うし、色々な考え方があって面白いと思う。


一つ僕がヒントとしてここに残しておくとしたら、僕たちがいる現在地に終わりはなく、そしてそれは絶望ではなくむしろ希望なのだということだ。




以下参考図書




今日はここまで。

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