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青い点が止まった朝――鳥獣調律課・パブ犬ハチ 3

目 次

第一章 停止した青い点と、不可視の異界

第二章 首輪だけが残っていた

第三章 存在しない課

第四章 犬のいなくなった五十年と、片翼の喪失

第五章 消された十二分間と、ハチの意志

第六章 霧が通学路へ降りる

第七章 生きた広場の夜明け、あるいは新しき調律の始まり

第八章 青い点が帰る場所第


三章 存在しない課

1

翌朝、町議会庁舎の廊下には、いつもより多くの靴音が響いていた。

革靴の硬い音、取材用機材を運ぶ車輪の音、誰かを呼び止める職員の声、紙の資料を急いでめくる音。

鳥獣調律課の執務室に漂っていた霧のような静けさとは対照的に、議会棟の空気は乾き、尖り、目に見えない熱を帯びていた。

午前九時から、町議会の環境防災特別委員会が開かれる。

議題は、本来なら来年度予算に向けた「広域鳥獣生態調整実証事業の中間報告」であるはずだった。

だが、ハチの失踪と、破壊されたGPS首輪の発見によって、意味合いは完全に変わっていた。

失敗した事業の責任追及――議員の中には、すでにそう位置づけている者もいた。

橘は会議室前の待機室で、手元の資料を確認していた。

パブ犬五頭の基本情報、過去六か月間の巡回距離、野生動物との遭遇推定回数、住民からの苦情件数。

咬傷事故ゼロ、感染症ゼロ、給餌地点への帰還率九十八・七パーセント。

数字の上では、完璧な運用記録だった。

しかし、第一委員会室から戻ってきた課長の蓮見は、ネクタイを乱暴に緩めると、パイプ椅子の背もたれに深く身体を預けた。

その顔は、梅雨の迫る曇天のような灰色に濁っていた。

「……徹底的に叩かれたよ」

蓮見は机の上に、分厚い予算要求書と実証事業評価書の束を放り出した。

バサリ、と湿った音が室内に響く。

「犬一頭の管理も満足にできず、山林に紛失した。その機材損失の責任はどこにあるのか。そもそも『鳥獣調律課』などという組織図のどこにもない幽霊部署に、なぜこれほどの予算が割かれているのか――。大先生方の追及はそこだ。ハチが消えた理由ではなく、ハチという『行政の所有物』が紛失したことの辻褄合わせばかりを求めてくる」

橘はキーボードを叩く手を止め、静かに蓮見を見つめた。

鳥獣調律課。

その名前は、町役場の正式な組織図には存在しない。

正式名称は「総務部防災対策課兼農林水産課鳥獣対策係実証運営室」。

環境保全、農政、防災、そして動物福祉という、互いに異なる理念を持つ既存の部署の「隙間」に、蓮見が執念で割り込ませた臨時の実証部門だった。

行政の縦割り組織において、どこにも完全には属していないということは、裏を返せば「何かが起きた時に誰も責任を取りたがらない」部署であることを意味していた。

パブ犬の予算を守るため、蓮見は議会で彼らを「GPS管理された生物学的防災インフラ」と説明し続けてきた。

しかし、そのインフラが「自ら首輪を外して消えた」かもしれないという不確定要素を、議会という制度が許容するはずもなかった。

2

「お疲れ様でした、蓮見課長、橘さん」

声のした方を見返すと、待機室の入り口に、地域FM局の白石まどかが立っていた。

手には小さなボイスレコーダーが握られている。

「白石さん、取材なら後にしてくれ。今は議会への答弁書を書き直さなきゃならん」

蓮見が片手で顔を覆いながら拒絶したが、白石は引かなかった。

彼女はまっすぐに橘を見つめ、静かに、しかし重い問いを投げかけた。

「蓮見課長は議会で、パブ犬を『防災インフラ』だとおっしゃいましたね。橘さん、あなたに伺いたいです。――ハチはインフラなんですか? それとも、生き物なんですか?」

橘は資料をめくる手を止め、白石のまっすぐな瞳を見つめた。

「両方です」

橘は感情を交えず、淡答した。

「ハチは高度な訓練を受け、GPSによって制御されたシステムの一部です。同時に、肉体を持った犬でもある。どちらか一方だけでは、この事業は成り立ちません」

「両方なら、どちらが先なんですか?」

白石の声が、待機室の乾いた空気に染み込んでいく。

「生き物としての命が先にあって、それをインフラとして使わせてもらっているのか。それとも、インフラとしての目的が先にあって、犬はその道具に過ぎないのか。……もし後者なら、私たちは『共生』という耳当たりのいい言葉を公共の電波に乗せながら、その実、犬という生命を都合よくシステムに組み込んでいるだけではないでしょうか。リスナーに届けるべき真実は、どちらにあるんですか」

橘は答えられなかった。

データ至上主義の彼にとって、その問いは「計算不可能な領域」に属するものだった。

しかし、白石自身もパブ犬構想を無条件に批判しているわけではないことを、橘は夕べのラジオ放送で知っていた。

彼女は、クマが出るたびに射殺を繰り返す現状にも疑問を抱いている。

二人は反発し合いながらも、世間に溢れる「駆除か愛護か」という子供じみた二元論だけでは、目の前の深い霧を晴らすことはできないという共通の予感を抱き始めていた。

3

その夜、午後十一時。

役所の閉庁時間をとうに過ぎた薄暗い執務室で、橘は独り、再びメインサーバーの画面に向き合っていた。

昼間の白石の言葉が、耳の奥でかすかにリフレインしている。

(僕たちのシステムは、何を見ていないんだ……?)

ハチ以外の四頭のパブ犬たちの管理画面上では、青い点はすべて、それぞれの担当区域である防護帯の範囲内を規則正しく巡回していることになっていた。

稼働率、九十八パーセント。

エラー、なし。

完璧なインフラの運行記録だ。

しかし、橘はデータの「表面」ではなく、その裏側にあるパケットの受信時刻のタイムスタンプをミリ秒単位で追っていった。

「……待てよ」

橘の指が止まった。

不自然な「揺らぎ」があった。

例えば、昨日、ハチが九頭竜谷で消失した午前六時五十二分の前後。

第三防護帯を巡回していたID003「サクラ」のデータに、わずか「四秒間」の通信欠損が存在していた。

通常、山林での運用において数秒の電波の途絶は「環境ノイズによる誤差」として自動処理され、画面には表示されない。

GPSパケットは一定周期で送信されるはずだが、地形や植生によって受信が不安定になることは珍しくないからだ。

システムは前後の座標から直線を補間し、あたかも犬がスムーズに移動し続けているかのように画面を偽装する。

だが、橘が違和感を覚えたのは、その「質」だった。

ランダムに発生するはずのノイズにしては、欠損の入り方があまりに整然としている。

まるで、誰かが意図的にその数秒間だけ、送信スイッチを切ったかのような。

あるいは、犬たちが「通信を拒絶する特定のポイント」を通過したかのような、不気味な規則性。

橘は他の犬のログも狂ったように精査した。

ID001「クロ」――午前七時五分に、六秒間の空白。

ID002「ギン」――午前七時十五分に、五秒間の空白。

ID005「モク」――午前七時三十分に、七秒間の空白。

一頭一頭のデータを見れば、それはただの「電波の瞬き」に過ぎない。

しかし、その空白の発生時刻をタイムライン上に並べ、山の立体地図の上に配置した瞬間、橘の背中に冷たい衝撃が走った。

空白の発生は、ハチが消えた九頭竜谷を中心として、ドミノ倒しのように同心円状に広がっていた。

犬たちは、画面上では人間の決めた防護帯にいるように「見せかけられ」ながら、実際にはその数秒の空白の間に、一斉に首を振り、あるいは足を止め、ハチの消えた北の谷の方向を「感知」していたのだ。

4

橘はすぐさまスマートフォンを手に取り、白石まどかの番号をタップした。

深夜のコール音が三回鳴った後、彼女が息を弾ませて出た。

「白石さん、橘です。今、お時間よろしいですか」

『橘さん? どうしたんですか、こんな時間に』

「システムは、犬がどこにいるかは見ていた。でも、犬が何を見ているかは、見ていなかった」

橘は一気にまくしたてた。

「ハチは何かに気づいた。そして、ほかの犬たちもです。画面上では正常を装っていますが、彼らは数秒間の空白を使って、人間の決めた担当区域の枠組みから精神的に離脱し始めています」

『それを……犬の意思だと言いたいんですか?』

「分かりません。でも、単なるエラーという言葉だけで片づけることは、僕のデータ倫理が許さない」

そう口にした瞬間、橘は自分の喉が異常に渇いていることに気づいた。

スマートフォンの角を握る指先が、微かに、だがはっきりと震えている。

未知のバグに直面した恐怖か。

あるいは、論理の檻の外側に広がる巨大な何かに触れようとしている高揚か。

自分でも判別のつかない感情が、熱を帯びた拍動となって胸の奥を叩いていた。

その時、電話の向こうで白石が短く息を呑む音が聞こえた。

『橘さん……今、私のタブレットに、また例の匿名メッセージが届きました』

「内容は?」

『読み上げます。――「彼らは逃げたのではありません。境界線へ戻ったのです」……』

橘の指がキーボードの上で止まった。

「送信時刻を記録してください。元データを保存。……境界線へ戻った、って?」

『どういう意味でしょう』

「僕たちがパブ犬たちに割り当てた担当区域は、人間が都合よく地図の上に引いた『制度の線』です。もし、彼らが人間とは違う、別の境界を認識しているとしたら……」

『別の境界?』

「僕たちの管理システムには、最初から見えていない線です」

白石はスタジオの窓から、夜の闇に沈む町の家々、道路、学校、そしてその先に聳える巨大な山の影を見つめた。

人間は地図を作り、壁を建て、世界を分類した気になっている。

しかし、その分類の隙間に落ちてしまった本当の「山の姿」を、犬たちは今もその鼻と耳で捉え続けているのかもしれない。

「白石さん」

橘の声は、これまでになく低く、生々しい熱を帯びていた。

「この謎を解くには、行政のデータだけでも、あなたのラジオに届く声だけでも足りない。この里山の、僕たちが生まれる前の『記憶』を知る必要があります」

『……心当たりがあります』

白石は夜の山を見つめたまま、強く頷いた。

『かつてこの山で、犬と共に生きていた最後の猟師がいます。明日、会いに行きましょう』

電話を切った後も、橘のモニターの上では、四つの青い点が静かに明滅していた。

しかし橘には、もうそれがただの記号には見えなかった。

それは、人知れず連動し、深淵に向かって呼びかけ合う、未知の生命のネットワークの瞬きだった。



作品ノート

「データは、犬がどこにいるかを示していました。けれど、犬が何を感じ、どこを境界として見ているかまでは、示していませんでした」――橘

「人の声も同じです。たくさん集めるだけでは、全体の姿は見えてきません」――白石

数字だけでも、記憶や感情だけでも足りない。分断された情報を重ね合わせた時、初めて見えてくる世界があります。

この物語は、犬の失踪を追うミステリーであると同時に、私たちの社会が見落としてきた境界線を探す思考実験でもあります。その境界線を、現実の行政、技術、地域社会の中へどのように実装しようとしているのか。

「パブ犬構想」グランドデザインを、こちらからご覧いただけます





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