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青い点が止まった朝――鳥獣調律課・パブ犬ハチ 1

目 次

第一章 停止した青い点と、不可視の異界

第二章 首輪だけが残っていた

第三章 存在しない課

第四章 犬のいなくなった五十年と、片翼の喪失

第五章 消された十二分間と、ハチの意志

第六章 霧が通学路へ降りる

第七章 生きた広場の夜明け、あるいは新しき調律の始まり

第八章 青い点が帰る場所


第一章 停止した青い点と、不可視の異界

1

液晶モニターが放つ冷徹な青い光が、橘の網膜を静かに灼いていた。

午前六時四十五分。

地方自治体の片隅に設けられた「鳥獣調律課」の執務室は、まだ本格的な始動前の、吸い殻のような静けさに満ちている。

カチ、カチ、と規則的なマウスのクリック音だけが、コンクリートの壁に跳ね返っていた。

橘は、右手に持っていた紙コップを机の上へ置いた。

まだ口をつけたばかりのコーヒーから、細い湯気が立っている。

六月とはいえ、山あいの町の朝は冷える。役所の古い庁舎には、夜の冷気が壁の奥にまで染み込んでいるらしく、室内は始業から一時間が過ぎた今なお、どこか薄暗く湿っていた。

入口のプレートに書かれた「鳥獣調律課」という文字を見上げる者は少ない。

正式名称は、広域鳥獣生態調整実証室。

環境、農政、防災の隙間に設けられたこの課の存在を、役所内部の職員でさえ正確に説明できる者は少なかった。

初代室長であり、現在の課長でもある蓮見が、「何をしている部署か、町民に伝わらなければ意味がない」という理由でこの呼び名を使い始めたのだ。

調律。

橘は、その言葉が好きではなかった。

自然と人間が、まるで一台の楽器であるかのように聞こえるからだ。

現実の山に、旋律などない。

あるのは生息域、個体数、被害件数、それに確率だけだ。

世界は数値でできている。

少なくとも、行政が扱う世界はそうでなければならない。

誰かの「かわいそう」という感情も、誰かの「怖くてたまらない」という訴えも、そのままでは政策にはできない。

必要なのは、再現できる客観的な根拠だ。

そうでなければ、声の大きい者の感情によって、別の誰かの命が左右されてしまう。

橘がデータを信頼するのは、彼が冷酷だからではない。

曖昧な主観によって命を弄んではならないという、彼なりの強い自戒だった。

数字にできない不確定要素を現場に持ち込むこと――それこそが、最も危険な職務怠慢であると彼は信じていた。

橘は、画面上に整然と並ぶ移動ログの波形を追った。

壁一面の管理モニターには、里山の地形図、集落の位置、そして人間活動優先区域と野生動物優先区域のあいだに設けられた、幅およそ二キロの緩衝帯が映し出されている。

その地図上を、小さな青い点がいくつも動いている。

ID001、クロ。稼働率良好。心拍数、正常値。

ID002、ギン。山腹の第三給餌拠点にて待機中。

ID003、サクラ。傾斜三十五度の急斜面を巡回中。

ID004、ハチ。

ID005、モク。

彼らが「パブ犬」――広域公共公務犬だった。

全頭にGPSスマート首輪が装着され、体温、心拍数、移動距離、吠声の振動まで一括管理されている。

野良犬でもペットでもない。

山と里の境界を巡回し、その存在と臭い、鳴き声によって野生動物に人間の生活圏を知らせる、いわば「生物学的防災インフラ」であり、生きた境界標識だった。

執務室内の天井近くに吊るされたテレビモニターからは、朝のニュース番組が流れていた。

防犯カメラの白黒映像の中を、住宅地に侵入した大きな影がゆっくり横切る。

画面の端には『またもやクマの出没、緊迫する山あいの町』というテロップが躍り、スタジオでは「迅速な駆除」を求める排斥論と、「人命か共生か」を訴える愛護論が、互いの言葉の刃で切り結び、不毛な二元論の澱を形成していた。

橘は音量を一段下げ、見慣れた感情の騒音を冷淡に無視した。

行政に必要なのは主義主張ではなく、遭遇確率の計算と被害予測の冷徹なシミュレーションだ。

その時だった。

管理デスクのスピーカーから、短く鋭い電子音が鳴り響いた。

――ピッ。

警告灯が黄色く明滅する。

画面の中央で、ひとつの青い点が不自然な動きを見せていた。

行動区域逸脱。

個体番号は、ID004。

ハチ。

「……どうした、ハチ」

橘の指先が素早くキーボードを叩く。

ハチの青い点は、本来の巡回ルートである「第二防護帯」の尾根筋を大きく外れ、北側の渓谷――通称「九頭竜谷」と呼ばれる深い霧の森の入り口へと向かっていた。

通常巡回区域から、直線距離で三・八キロメートル外れている。

ハチの移動速度は静止する直前まで時速十二キロメートルを維持していた。

意図を持って走らなければ、その速度で谷へ向かうはずがない。

迷った犬の動きではない。

何かを追っている、あるいは、何かに呼ばれているような軌跡だった。

そして午前六時五十二分、九頭竜谷の入り口を示す座標で、その青い点は完全に、ぴたりと動きを止めた。

2

「橘、ハチの信号がおかしいな」

背後から、低く落ち着いた声が掛けられた。

鳥獣調律課の課長、蓮見だった。

このパブ犬の試験導入を、泥をすするような行政交渉の末に予算化させた張本人である。

「はい。担当区域外への逸脱です。通信状態はグリーンですが、心拍数が毎分百四十八まで急上昇したのち、現在は一分間に六十前後で完全に安定……いえ、動いていません」

「ハチの周辺に配置している自律型監視ドローン『ファントムⅢ』を、座標エリアへ収束させます」

橘の手元で複数のコマンドが実行され、役所の屋上から発進したドローンが山へと急行していく。

モニターの別ウィンドウに、ドローンのリアルタイム映像が映し出された。

画面に映ったのは、乳白色の濃厚な霧だった。

ドローンが地表からわずか十メートルの空間に滑り込むと、そこは杉の巨木が墓標のように乱立する、薄暗い森の入り口だった。

「高度を下げろ。サーマルに切り替えろ」

蓮見の指示に従い、橘がモードを切り替える。

だが、画面に表示されたのは、霧の冷気によって全画面が青く染まった、温度のない世界だった。

風に押された霧が、濡れた木々のあいだをゆっくり流れている。

次の瞬間、カメラの広角レンズが地表のシダ植物を捉え、画面の端に白い影が映った。

ハチだった。

ハチは林道脇の開けた場所に立っていた。

その特徴的な白い毛並みを霧に濡らしながら、尾根の斜面に向かって低く身を構えている。

スマート首輪のLEDが、霧の中で青白く点滅している。

ハチの耳は前方に完全に伏せられ、尾は硬く水平に伸ばされていた。

それは、橘がこれまでの訓練データの中で一度も見たことがない、極限の警戒を示す姿勢だった。

「何に向かって身構えているんだ……?」

橘の呟きと同時に、ハチの視線の先、カメラの画角の最奥にある木々の隙間が、ぐにゃりと歪んだ。

影、だった。

圧倒的に巨大な、黒い影。

それは通常のツキノワグマのサイズを遥かに凌駕していた。

霧と広角レンズの遠近感が影を引き延ばし、画面上では体長が三メートルを超える怪物のように見えた。

実際の寸法は判定できない。

それでも、通常記録されてきた個体より大きいことだけは、肩の高さと幹との比較から疑いようがなかった。

前脚を地面につけているにもかかわらず、肩の位置が異様に高い。

濡れた毛が身体に張りつき、輪郭を黒く重く見せている。

霧のベールを纏ったその影は、不自然なほどに輪郭が揺らぎ、まるで森の闇そのものが起き上がって、ひとつの「怪物」の形を成したかのような悍(おぞま)しさを放っていた。

クマは動かない。

ハチも動かない。

互いに、霧の中で正面から向き合っている。

そのとき、スピーカーから地を這うような唸り声が漏れた。

――ウ、ウ、ウ、ウ……。

3

ズ、ズ、ズ、ズ、ズ……。

スピーカーの低音と庁舎設備の微かな共振が重なり、橘には建物の床まで震えたように感じられた。

大型トラックが建物の横を通り過ぎる時にも似ている。

紙コップの水面には、空調か音響の振動か判別できない細い波紋が広がった。

マイク入力は原因不明の低周波ノイズを検出している。

谷の反響なのか、クマの唸りなのか、それとも機体の振動なのか。

九頭竜谷の森全体が巨大なひとつの生き物となり、怒りの呼吸を漏らしているように、橘には思えた。

理性が、その未知の現象を「エラー」として処理することを拒絶していた。

背筋に冷たい汗が伝わる。

そこにあるのは、人類が未だデータ化できていない、自然という名の「圧倒的な異界」の気配だった。

画面に細い砂嵐が走り、映像が一度暗くなった。

次の瞬間、クマが一歩前へ出た。

ハチが、画面の中で喉を大きく震わせ、天に向かって吠えた。

一度だけ。

短く、引き裂くような声だった。

――ワン!

そこから先へ来るな。

橘には、そう聞こえた。

ハチは後退しない。

直後、キィィィィィンという、鼓膜を直接針で刺すような高周波のノイズがスピーカーから炸裂した。

メインモニターのドローン映像が激しくブレ始め、デジタル特有のブロックノイズが画面を覆いつくす。

「橘、ドローンを引き戻せ! 局地的な電波干渉か、機体の異常だ!」

蓮見が声を張り上げる。

橘は予備回線に切り替えたが、接続は失敗した。

映像が一瞬だけ戻る。

霧の中をハチが横へ走り、クマの大きな影が身体をひねり、木々が激しく揺れた。

そこで映像は完全に途切れた。

同時に、モニターに表示されていたハチの心拍数、体温、GPSの全データが、一斉に灰色の「LOST」という文字へと切り替わった。

超低周波の振動がピタリと止まり、室内に、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきた。

時計の針は、午前六時五十二分を指していた。

橘は、マウスを握ったまま硬直していた。

手のひらにはべっとりと脂汗がにじんでいる。

「課長……現場へ行きます。ハチの首輪の最終発信電波を追えば、まだ近距離で予備信号を拾える可能性があります」

橘が立ち上がろうとしたとき、蓮見の手がその肩を強く掴んだ。

「駄目だ、橘。あのサイズの個体と霧の中で遭遇すれば、猟銃を持たない人間など一溜まりもない。単独での現場確認は許可できない」

「しかし、ハチが……まだ生きているなら!」

「橘」

蓮見の声が低くなった。

「お前の仕事は、犬を助けに山へ飛び込むことじゃない。犬も人間も死なせないために、状況を管理することだ」

正しい。

蓮見の言うことは正しい。

「了解しました」

橘は絞り出すように言い、椅子に座り直した。

画面の向こうで砂嵐が吹き荒れ、あの白い毛並みが闇に消えた瞬間、橘の脳裏を過ったのは、冷たい二進法の数字ではなかった。

毎朝、出勤時に冷え切った彼の指先を、その湿った鼻先で不器用に突っついてきたハチの、あの少し生臭く、けれど確かな「体温」の記憶だった。

モニター上の青い点が止まった。

ただそれだけのことなのに、橘の硬質な世界は、今、音を立てて軋み始めていた。

橘は、ハチの最終記録データの解析画面を開いた。

最後に残された音声波形、その最末尾。

ザーッという砂嵐の奥、ほんの一秒にも満たないノイズの隙間に、いくつかの短い波が一定の間隔で並んでいた。

橘はスピーカーに耳を近づける。

(……犬の声だ)

ハチの問いかけるような吠え声に、森のどこかから、別の犬が応答しているように聞こえた。

橘はすぐに他の公務犬たちの位置を確認した。

ID001、クロ。通常区域。

ID002、ギン。通常区域。

ID003、サクラ。通常区域。

ID005、モク。通常区域。

全頭、地図上ではいつもの場所にいる。

データも正常。

青い点は、決められた区域内を動いている。

なのに、その整いすぎた画面のどこかに、見落としている空白があるような気がしてならなかった。

目には見えないほど小さな、しかし決定的な何かが。

橘は、ハチが消えた地点へカーソルを合わせ、画面の隅に表示された時刻を、手元のメモ用紙に書き写した。

『午前六時五十二分十二秒』

そして、その下に、理由も分からないまま、胸を騒がせるもう一つの言葉を書き加えた。

『十二分間』

その文字を見た瞬間、庁舎の窓を、山から吹いてきた風が低く震わせた。

橘が顔を上げると、遠くに見える九頭竜谷の稜線は、いつの間にか、白い霧に深く呑み込まれ始めていた。



作品ノート

ここまで読んでくださったあなたへ。

モニターの上で、青い点が止まりました。

けれど、本当に止まったのは、犬の生命ではありません。

止まったのは、私たち人間が、世界を数字だけで把握できると信じていた、その認知の方だったのかもしれません。

ハチが最後に見たものを、私はまだ言葉にできません。

ただ、彼らが守ろうとしていた『境界』の正体だけは、

記録に残しておく必要があります。

……こちらが、その設計図です。――橘

人間と自然の境界線を取り戻す「パブ犬構想」本編




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