青い点が止まった朝――鳥獣調律課・パブ犬ハチ 2
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目 次
第一章 停止した青い点と、不可視の異界
第二章 首輪だけが残っていた
第三章 存在しない課
第四章 犬のいなくなった五十年と、片翼の喪失
第五章 消された十二分間と、ハチの意志
第六章 霧が通学路へ降りる
第七章 生きた広場の夜明け、あるいは新しき調律の始まり
第八章 青い点が帰る場所
第二章 首輪だけが残っていた
1
翌朝の九頭竜谷は、昨日にも増して深い、濡れた霧に閉ざされていた。
ヘッドライトの光が、行く手を阻む白い壁に虚しく吸い込まれていく。
橘は、鳥獣調律課の公用車の助手席で、膝の上に置いたタブレット端末の画面を凝視していた。
画面には、ハチのGPS信号が途絶えた最終座標が、赤いバツ印で示されている。
車が林道の終点に止まると、橘は蓮見、長年この山を歩いてきた猟友会のベテランである男たちと共に車外へ出た。
ドアを閉める音が、湿った空気の中に重く沈む。
誰も口を開かなかった。
「……静かすぎるな」
猟友会の男が、手にした猟銃の安全装置を確認しながら、低く呟いた。
確かに、異常な静寂だった。
初夏の山であれば、本来なら夜明けと共にアカハラやウグイスのさえずりが森を満たしているはずだ。
しかし、この九頭竜谷の入り口には、鳥の羽音どころか、虫の羽音さえしなかった。
ただ、冷たい霧が杉の木肌を濡らし、しずくとなって地面のシダを叩く音だけが、不規則に聞こえてくる。
橘は、昨日ドローンの映像が途絶えた、まさにその場所へと歩を進めた。
ぬかるんだ土を踏みしめるたび、靴底から大地の冷気が伝わってくる。
「橘、足元を見ろ」
蓮見の声に、橘は視線を落とした。
そこには、激しい争闘の痕跡は一切なかった。
クマの鋭い爪が木肌を削った跡も、引きちぎられたハチの白い毛も、地面を赤く染めるはずの血痕すらも、一滴も見当たらない。
ただ、濡れたシダの葉の上に、ぽつりとそれが落ちていた。
ハチのGPSスマート首輪だった。
橘は手袋をはめた手でそれを拾い上げ、目を凝らした。
最新型の特殊強化樹脂製のベルトは、何箇所も深く傷つき、本来なら簡単には外れないはずの堅牢なバックル部分が、無残にひしゃげている。
「クマに噛み砕かれたのか?」
猟友会の男が覗き込んできたが、橘は即座に首を振った。
「いえ、違います。これを見てください」
橘はバックルの金属部分を指でなぞった。
傷は一見不規則に見えたが、特定の箇所に、幾重にも重なる「並行した鋭い溝」が刻まれていた。
野生動物の牙や爪による、引き裂くような破壊ではない。
硬い工具――プライヤーかニッパーのような金属製の道具で、何度も強い力をかけ、精密に噛み合わせを破壊した痕跡だった。
「人為的な破壊です」
橘の言葉に、蓮見の眉が険しく跳ね上がった。
「誰かが、意図的にハチの首輪を外して壊した、と?」
「データ上はそうなります。首輪が破壊されたから信号が途絶えた。つまり、ハチの身に何かが起きたのではなく、誰かがハチの存在をシステムから消し去ろうとしたということです」
橘の胸の奥で、冷たい不穏が広がっていく。
ハチの首輪を外せる者がいるとすれば、それは訓練された人間か、あるいは――。
「一度役所へ戻り、ログを徹底的に洗い直します。通信途絶の直前に、首輪内部のセンサーが記録した微細データを抽出すれば、破壊された正確な瞬間のログが残っているはずです」
橘は首輪を厳重にビニール袋へ収め、引き返した。
霧の奥から、冷たい風が彼らの背中を追いかけるように吹き抜けていった。
2
同じ朝、地域FM局「FMみねかぜ」のスタジオには、別の「声」が集まっていた。
パーソナリティの白石まどかは、時折、自分のラジオ番組に寄せられる、返事のしようのない便りに出会うことがあった。
苦情でもない。
相談とも違う。
ただ、自分の中に抱えている不安や記憶を、この町の空気のどこかへ置いておきたいという、そんな切実な便りだった。
午前七時十五分。
スタジオのガラス窓越しに、朝日が町の屋根を薄く照らし始めるのを眺めながら、白石は手元のタブレットを操作していた。
「続いては、皆さんから届いた朝のお便りをご紹介します」
白石はマイクへ向かい、いつもの柔らかな声を乗せる。
「ラジオネーム、『柿の木の下』さん。昨夜、家の裏の物置のあたりで、何か大きな動物が動く気配がしました。パブ犬のワンちゃんたちが近くにいてくれれば安心なのですが、最近、山の様子がどこかおかしい気がして心配です……」
ここ数日、番組にはクマや山の異変についての便りが急増していた。
駆除を求める切実な農家の声。
動物たちとの共生を願う声。
そして、試験導入中だった公務犬「ハチ」の姿を最近見かけない、という子供からの心配なメッセージ。
白石はふと、手元の未読リストの一番下にある、奇妙なメッセージに目を留めた。
件名はない。
ラジオネームも白紙。
本文には、ただ一言だけ、こう書かれていた。
『犬を山から返してください。あの子たちは、人間の盾ではありません』
白石の胸に、小さな棘のような違和感が刺さる。
それは単なる愛護団体の抗議文とは異なる、妙に生々しい響きを持っていた。
「……次の曲をお送りしている間に、町内の天気予報をお伝えします」
カフを下げ、スタジオが静寂に戻った瞬間、白石はすぐにスマートフォンを取り出し、以前、役所の取材で交換した「鳥獣調律課」の番号を探し始めた。
町で囁かれ始めている「パブ犬ハチの失踪」の噂と、この不可解なメッセージが、彼女の直感の中で不穏に結びついていた。
3
午前十時。
町役場庁舎の三階にある鳥獣調律課の執務室。
橘は、現場から持ち帰った首輪をデスクに置き、メインサーバーのアクセスログを凝視していた。
その表情は、普段の冷静さを欠き、冷徹な仮面の奥に焦燥が滲んでいる。
「……消されている」
橘の呟きに、隣にいた蓮見が身を乗り出した。
「どういうことだ」
「昨日、ハチのGPS信号がロストする直前――午前六時四十分から六時五十二分までの、ちょうど十二分間です。首輪内部に保存されていたはずの、心拍数と移動ログの生データが、サーバーから完全に削除されています。機材の破損によるデータ欠損ではありません。『管理者権限』を使って、意図的に上書き消去された形跡があります」
蓮見の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「管理者権限? その権限を持っているのは、この役所内でも、私とお前、それからシステム管理の上層部だけのはずだぞ」
「そうです。つまり、外部の妨害派住民の犯行ではない。ハチがロストしたまさにその瞬間の記録を、この行政の『内部』の人間が、意図的に隠蔽したということです」
そこへ、コンコン、と執務室のドアを叩く音が響いた。
入ってきたのは、マイクを持たない私服姿の白石まどかだった。
彼女は緊迫した室内の空気を敏感に察知しながらも、まっすぐに橘のデスクへと歩み寄った。
「鳥獣調律課の橘さんですね。FMみねかぜの白石です。突然すみません」
「……取材なら、広報課を通していただかないと」
橘はタブレットの画面を素早く伏せ、冷淡な声で応じた。
「広報課を通していたら、夜の放送に間に合わないので。――単刀直入に伺います。パブ犬のハチが、昨日から行方不明になっているというのは本当ですか? リスナーの子供たちからも、心配する声がたくさん届いているんです」
橘は無言で白石を見つめ返した。
彼女の持つ、すべてを見透かすような、しかしどこか温かみのある全方位的な視線が、今の橘には酷く煩わしかった。
「現在、実証実験のデータ調整中です。個別の犬の配置状況について、公表できる段階にはありません」
「データ、ですか」
白石は一歩踏み込み、橘のデスクの上に置かれた、傷だらけのスマート首輪に目を留めた。
「ハチは、あなたたちにとってただのデータなんですか? 町の人にとっては、毎朝見かける、生きた守り神のような存在なんです。行政がそうやって情報を閉ざすほど、町には恐怖と憶測だけが広がっていくのを知っていますか?」
「憶測で動くのが、一番危険だと言っているんです」
橘の声に、明確な拒絶の鋭さが混じる。
「私たちは感情ではなく、確実な事実に基づいてシステムを運用しています。あなたがたメディアが安易に騒げば、パブ犬計画そのものが廃止に追い込まれ、結果として町全体の安全が脅かされることになる。それが分からないのですか」
白石は小さく息を吸い、それ以上言葉を重ねるのをやめた。
二人の最初の対話は、互いに深い不快感と、埋めがたい溝だけを残して終わりを迎えた。
「……失礼しました。でも、私は私のやり方で、この町の声を聴き続けます」
白石はそう言い残し、毅然とした足取りで執務室を去っていった。
4
その夜、午後九時。
地域FM局のスタジオで、白石まどかはマイクの前に座っていた。
夜の生放送番組『みねかぜ・ナイトアゴラ』の生放送中を示す赤いランプが点灯している。
手元の端末には、夕方から届き続けている膨大なメッセージの山が映し出されていた。
『パブ犬を怖がる住民もいる。子供が噛まれたら誰が責任を取るのか』
『クマに作物を荒らされた農家にとっては、あの子たちだけが頼りなんです』
『犬を危険な現場に置くなんて虐待だ。すぐに回収すべきだ』
『ハチ達がいなくなれば、今夜は誰が山を見張るんですか』
どれも切実で、どれも一片の曇りもない「正義」だった。
誰も間違ったことは言っていない。
誰もが善意で、誰かの幸せや安全を願っている。
だが、それぞれの正義が、互いを否定し合い、排除し合うための強固な「柵」のようになって、この町を分断しようとしていた。
白石は、マイクのスイッチをオンにした。
カフを上げ、スタジオの静寂の中に、自らの声を乗せる。
「……たくさんのメッセージ、本当にありがとうございます。今夜は、町の守り神のようだった公務犬、ハチを心配する声が、本当にたくさん届いています」
白石は、スタジオの窓の外、夜の闇に沈む巨大な山の輪郭を見つめた。
「皆さんから届く声を聞いていると、ふと思うことがあります」
彼女は、台本にない言葉を、ゆっくりとマイクに向かって紡ぎ始めた。
「私たちは、自分の信じる『正しい声』が大きくなるほど、なぜか全体の本当の姿が見えなくなってしまうことがあります。ひとつの正義だけで、この複雑な現実を説明することはできないのかもしれません。今、山の境界線で何が起きているのか。私たちは、目を逸らさずに見つめる必要があるのではないでしょうか」
同じ時刻。
暗い鳥獣調律課の執務室で、一人居残ってデータを精査していた橘は、デスクの小さなラジオから流れるその声を、静かに聴いていた。
白石の言葉が、昼間の彼の頑なな防壁をすり抜け、胸の奥の最も深い場所に、小さな波紋を広げていく。
「ひとつの正義、か……」
橘は呟き、手元のメモ用紙を見つめた。
そこには昼間書き写した『十二分間』という文字が、白く浮かび上がっていた。
そのとき、ラジオ局のスタジオの白石の手元で、タブレットが小さく振動した。
新着メッセージ。
朝と同じ、匿名化サービスを経由した、発信者不明の便りだった。
本文には、ただ一行、こう記されていた。
『十二分間を探してください』
白石の指が、マイクの前で完全に止まった。
十二分間。
何のことかは分からない。
しかし、それが朝のメッセージと同じ送り主であり、パブ犬を巡る「行政の隠し事」の核心を指していることだけは、彼女の鋭い感性が告げていた。
白石は放送を続けながら、密かに手元のスマートフォンを操作し、昼間、自分を冷たく追い返したあの青年職員――橘の連絡先を画面に呼び出した。
この町を包む霧の向こうで、何かが確実に動き始めている。
そしてその謎を解く鍵は、自分とあの青年が持つ「分断された二つのピース」を合わせる以外にないのだと、彼女は確信していた。
作品ノート
マイクを切った後のスタジオは、驚くほど静かです。
マイクを切った後のスタジオは、驚くほど静かです。
今夜、この町に届いた声の中には、返事のしようのないものがありました。
犬を守ってほしい。
人間を守ってほしい。
クマを殺さないでほしい。
怖くて眠れない。
どの声も切実で、どの声も、それだけでは世界の全体を語りきれません。
だからこそ、ひとつの正義だけでは見えなくなってしまうものを、別の角度から照らしてみる必要があるのだと思います。
「駆除か、愛護か」という二つの選択肢の外側に、本当に別の道はないのでしょうか。
その問いから始まった「パブ犬構想」
この霧の向こうにある真実を、一緒に見届けてください。――白石
犬と人間と野生が、共に生きられる距離を考える本編はこちらです
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