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青い点が止まった朝――鳥獣調律課・パブ犬ハチ 4

目 次

第一章 停止した青い点と、不可視の異界

第二章 首輪だけが残っていた

第三章 存在しない課

第四章 犬のいなくなった五十年と、片翼の喪失

第五章 消された十二分間と、ハチの意志

第六章 霧が通学路へ降りる

第七章 生きた広場の夜明け、あるいは新しき調律の始まり

第八章 青い点が帰る場所


第四章 犬のいなくなった五十年と、片翼の喪失

1

翌朝、橘と白石は、町の北端にある古い集落へ向かっていた。

県道を外れると、公用車が走る道は急に細くなった。

片側には重苦しい杉林、もう片側には石垣で支えられた小さな畑が続いている。

だが、その畑の多くはとうに使われておらず、竹が侵入し、崩れかけた防獣柵へ蔓草が絡みついていた。

人の手を離れた土地が、まるで貪欲な獣のように、少しずつ里を山へと引きずり戻そうとしている。

白石は助手席の窓から、その寂れた風景を見つめていた。

「昔は、ここにも家がもっとあったそうです」

運転席の橘が、前方に視線を固定したまま答える。

「住民基本台帳では、三十年前に八十七世帯。現在は十九世帯、高齢化率は六十八パーセントです」

「……そういう数字を聞きたいわけではなかったんですが」

「では、何を」

「人がいなくなると、風景はどう変わるんでしょうね、と思って」

「耕作放棄地が増えます。草地化、藪化が進み、野生動物が身を隠しやすくなる。人間の活動量が減れば、彼らの警戒心も低下します。風景の変化とは、野生との距離の収縮です」

「やっぱり、どこまでも数字と論理で答えるんですね」

「質問が曖昧です」

白石は小さく笑った。

昨夜、二人は深夜の電話越しに「別の境界」について話した。

行政のデータだけでも、ラジオに届く声だけでも、目の前の深い霧を晴らすことはできない。

ならば、この山で人と犬がかつてどのように暮らしていたのか、その歴史を知る必要がある。

九頭竜谷の険しい斜面が落とす影の底に、その古い民家はへばりつくようにして建っていた。

トタン屋根は雨風に晒されて赤茶けて錆び、庭先には薪が整然と積み上げられている。

ここが、この山を半世紀にわたって見つめ続けてきた老猟師、御橋子(みはしこ)の住処だった。

「中へ入りな。霧が身体に障る」

低く、ひび割れた声に促され、橘と白石は薄暗い土間へと足を踏み入れた。

囲炉裏からはパチパチと薪の爆ぜる音が聞こえ、乾燥した木酢液の匂いと、獣脂の入り混じった独特の空気の層が室内に立ち込めている。

橘は、持参した防水ジップロックの袋をおもむろに木目の粗いテーブルの上に置いた。

中には、あの九頭竜谷の入り口で回収された、ひしゃげたハチのスマート首輪が入っている。

「御橋さん。お話を伺いたいのは、これについてです」

橘は努めて冷静に、論理的なトーンで切り出した。

「この首輪のバックル部分には、何条もの不自然な平行傷があります。私は、パブ犬の運用に反対する者が金属工具を使ってハチを拘束し、無理やり剥ぎ取ったと考えています。さらに役所のデータログも管理者権限で改ざんされている。これは、明確な意志を持った人間による隠蔽工作です」

2

御橋子は、濁った、しかし全てを見透かすような眼でビニール袋の中の首輪をじっと見つめると、鼻で小さく笑った。

「役所の若造は、何でも人間の仕業にしたがるな。工具? 隠蔽?……そいつは違うよ。これは、ハチ自身が自分で外したんだ」

「そんな馬鹿な」

橘は眉をひそめた。

「このバックルは特殊強化樹脂とステンレス製です。犬の力だけで外せるような構造にはなっていません」

「外せないから、あいつは道具を使ったんだよ」

「道具?」

橘は一瞬、言葉の意味を掴みかねて沈黙した。

高度な知能を持つ霊長類ならいざ知らず、犬が人間のように工具を操る姿など、彼の論理的な思考回路には存在しない。

「犬が、道具を……使うはずがありません。物理的に不可能です」

「あんちゃん、あんた頭が固いな。そこの傷を見てみな。九頭竜谷の入り口にある、あの尖った突き出し岩の角――あそこには鉄分を多く含んだ硬い赤石がある。ハチはな、あの岩の隙間に首輪のバックルを叩きつけ、何度も、何度も、自分の首をちぎらんばかりに擦りつけたんだ。この傷は、その時に岩の角が金属を削った跡だ。……犬を舐めるなよ、あんちゃん。あの子らは、自分が何をつけられているか、ちゃんと分かっている」

土間に重い沈黙が降りた。

白石が、痛みをこらえるようにして訊ねた。

「どうして……ハチはそんなにまでして、首輪を外さなければならなかったんですか?」

御橋子は囲炉裏の灰を火箸でいじりながら、遠い目をした。

「お前さんたち、この山から本当の『犬の声』が消えて、どれくらい経つか知っているか?」

「……パブ犬が導入されるまでは、約五十年間、野犬の一斉捕獲以降はゼロです」

橘の回答に、老猟師は頷いた。

「五十年前、昭和のあの頃だ。狂犬病対策って名目で、山にいた野良犬も、猟師が飼っていたおこぼれの犬も、全部役所が網で捕まえて、あるいは薬を撒いて殺した。国が決めた『正しいこと』だったからな。俺も、自分の相棒だった犬を、この手で役所の回収車に乗せなきゃならなかった」

御橋子の声が、かすかに震えた。

「あのとき、人間は『病の恐怖』を消したつもりで、同時に山とのあいだの『最強の境界線』を自ら切り捨てちまったんだ。犬っていうのはな、ただ吠えて野生動物を脅かす道具じゃない。あいつらは、山の奥で起きている『異変』を、その耳と鼻でいち早く感じ取って、人里に声で伝える『片翼』だったんだよ。犬がいなくなってからの五十年間、山は沈黙した。人間は、山が何を考えているか、全く見えなくなっちまったんだ」

3

御橋子の家を出た二人は、その足で役所の地下資料室へと向かった。

埃っぽい空気の中に並ぶ、半世紀前の行政文書の束。

橘は、昭和四十年代の『野犬捕獲・駆除実績統計』の黄色く変色した台帳を開き、その数字を、現在の『クマ出没件数推移』および『耕作放棄地分布図』の3Dマップの上に重ね合わせた。

陰謀などではなかった。

そこに出現したのは、部署の分断――行政の「縦割り」そのものが、五十年にわたって隠蔽し続けてきた、この町の真の構造だった。

保健所が「狂犬病対策」として野犬を撲滅したとき、農政課はその裏で起きている「里山の防衛線崩壊」に気づかなかった。

林務課が杉の植林を進めて山の生態系を変えたとき、防災課は山林の保水力低下と野生動物の飢餓確率の連動を計算していなかった。

それぞれの部署が、それぞれの法と予算に基づいて「正しい仕事」を完結させた結果、その隙間に落ちた『人と山の境界線』が、完全に消滅していたのだ。

そして橘は、ハチの過去数ヶ月間の運用ログの最深部を走査し、戦慄すべき事実に突き当たった。

「……そういうことか」

橘の指が、タブレットの画面を激しくスクロールさせる。

「パブ犬を導入したことで、確かに一時的にクマの出没件数は減少していました。しかし、ここ数ヶ月、ハチが消失する直前の期間において、クマの移動軌跡は、パブ犬たちが発するスマート首輪の『高周波の電子音』や『規則的な巡回パターンの電波』を、完全にあらかじめ学習し、その回路を迂回していたんです」

「クマが……学習していた?」

白石が声を潜める。

「そうです。僕が作った完璧なGPS管理システムは、クマにとってはただの『定時で鳴るアラーム』に過ぎなかった。ハチはそのことに気づいていたんだ。首輪をつけて、人間の決めたルートをデジタルになぞっているだけでは、あの巨大なクマの侵入を止められない。だからハチは、首輪を岩に叩きつけ、自らシステムを飛び出して――本当の境界線を防ぎに、あの九頭竜谷へ行ったんだ」

白石は、タブレットに映し出された、過去の駆除データと現在の移動ログが融合した美しい地図を見つめながら、静かに呟いた。

「真実は、分断された情報の間にある……。橘さんの持っていた数字と、私がラジオで集めていたみんなの記憶。その二つが重なって初めて、この町の本当の姿が見えたんですね」

4

白石は、さらに古い、明治時代のこの地域の民俗資料のコピーをカバンから差し出した。

そこには、里山の暮らしにおける動物たちの役割が、素朴な墨絵と共に描かれていた。

「昔の人は、犬のことを『外を見る目』って呼んでいたそうです。家の中にいるのが人間と猫なら、犬は常に外の闇を睨み、異界とのバランスを取る存在だった」

二人は役所の自動扉を出て、夕暮れの駐車場へと向かった。

山を背にした庁舎の影が、長く伸びている。

「……狂犬病対策のために犬を撃った、という御橋さんの話ですが」

橘が歩きながら、ぽつりと言った。

「当時の情報と公衆衛生の状況では、あれは完全に合理的な判断だった可能性があります。そうしなければ、より多くの人間の命が失われていた」

「やっぱり、最後までそう答えるんですね」

白石が少し寂しそうに視線を落とす。

「ただし」

橘は立ち止まり、彼女をまっすぐに見つめた。

「合理的であることと、そこに傷が残らないことは別です」

白石は目を見開いた。

「制度は結果だけを記録します。狂犬病患者数、捕獲頭数、被害件数。……けれど、犬を撃った人の耳にいつまでも残る、あの引き裂くような鳴き声は、行政文書には記録されない」

「だから、私のラジオに、返事のしようのない便りが届くのかもしれませんね」

白石の表情から張りつめた硬さが取れ、柔らかな笑みが零れる。

「記録されなかった記憶を、誰かが町へ置きに来る。それを聴くのが、私の仕事です」

「橘さん」

「何ですか」

「今日見えたあの『別の境界線』は、本当にあったと思いますか?」

「統計的な確証はありません」

「そうではなくて、あなたの主観で」

橘は、夕闇に包まれつつある九頭竜谷の稜線を見上げた。

犬の声。

夜の集落の灯り。

家の内側で眠る猫と、外側の闇を見つめていた犬。

人間が半世紀前に消したのは、ただの野良犬というインフラのバグではない。

人間と野生のあいだで、互いの気配を伝え合っていた、命の運動そのものだったのだ。

「あったと思います」

橘は静かに、しかし確信を込めて答えた。

「少なくとも、犬がいることで生じていた、あの確かな関係性は」

「最強の境界線ですね」

「最強かどうかは、これからの検証が必要です」

「今は、その言葉で十分です」

白石はいたずらっぽく笑った。

その時、橘のポケットの中で、携帯端末が激しく振動した。

ディスプレイに表示されたのは、鳥獣調律課の課長――蓮見の番号だった。

橘が通話ボタンを押した瞬間、スピーカーから、昼間の議会の熱気をも吹き飛ばすような、蓮見の切迫した怒声が炸裂した。

『橘、すぐに役所へ戻れ! 大変なことが起きた!』

「どうしたんですか」

『残りの四頭――クロ、ギン、サクラ、モクのGPS信号が、今、同時にロストした! 全頭、ハチと同じ九頭竜谷の入り口へ向かって一直線に走った後、一斉に画面から消えたんだ!!』

橘と白石は、息を呑んで顔を見合わせた。

ついに、犬たちが動いた。

人間の引いた偽物の線を踏み越え、彼ら自身の本当の境界線を守るために。

夕闇の向こうの山林から、五頭のパブ犬たちの、目に見えない大合唱が聞こえたような気がした。




作品ノート

昔はよかった、なんて話をするつもりはない。

昔の犬は人も噛んだ。

病気も運んだ。

だから、人間が恐れたのも、捕まえたのも、間違いだったとは言い切れん。

だがな。

病気を消すことと、犬が持っていた働きまで消すことは、同じじゃない。

昔へ戻るんじゃない。

昔より賢く戻すんだ。

首輪もいる。

医者もいる。

人間が責任を持つ仕組みもいる。

そのうえで、犬が山と里のあいだで果たしていた役割を、もう一度、現代の社会へ呼び戻せるか。

その話を、まだ知らん人はあんたらの目で確かめてくれ。――御橋子

失われた片翼を、現代の技術と責任で取り戻す「パブ犬構想」本編






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