映画『アダムの原罪』を観て、「人を助ける」ということを考えた|共生社会③
映画『アダムの原罪』を観ました。
上映時間約80分。そのほとんどが小児病棟の中で展開され、カメラは看護師のルシーを追い続けます。
大きな場面転換も、劇的な演出もありません。
それでも、圧倒されました。
この映画が訴えるのは、「人を助ける」という一見やさしい行為の前にある、過酷な葛藤だったからです。

助けを拒む母親
病院に運ばれてきた4歳の少年、アダム。
彼には食事が必要でした。しかし、母親のレベッカは病院側の判断を受け入れようとしません。
母親の言動は、明らかにアダムを危険にさらしているように見えます。アダムを守るためには、母親から引き離す必要がある。
けれど、映画を観ていると、母親自身もまた、助けを必要としていることがわかってきます。
彼女は独りでアダムを育ててきました。他者を信用できず、心身ともに限界を迎えている。自分が助けを必要としていることを、認める余裕も失っている。
加害する側と、傷つけられた側。
守るべき子どもと、問題を起こす母親。
そうやって、単純に切り分けることができない。
ルシーは、母親にいくつもの行動で伝えます。
「あなたを助けたい」
けれど、その願いは拒絶され続けます。
求められないコンサルタント
最近、僕はこんなことを感じていました。
「クライアントに意志がなければ、コンサルタントが支援することはできない」
あるプロジェクトで、僕は企業の変革に関わっていました。
戦略をつくるだけではなく、そこで働く人たちが「この組織は変わっていく」と思える状態をつくりたい。
そう思いながら、クライアントと対話を重ねてきました。
けれど、プロジェクトが終盤に近づく中で、クライアントは「このままやっていけば、数字目標は達成できるだろう」という姿勢に変わっていきました。
しかし僕には、これで本当にこの組織が変わるのだろうか、という違和感が残りました。
もっと踏み込んだ方がいいのではないか。
まだ議論すべきことがあるのではないか。
そう思う自分と、「相手が求めていないものを押し付けるのは、単なる自己満足ではないか」と思う自分がいました。
助けるということ
ルシーは、最後までレベッカを助けることを諦めませんでした。
目の前の子どもを守ること。
母親自身も、助けを必要としていると確信すること。
拒絶されても、「問題ある母親」と切り捨てないこと。
そしてラストシーンで、レベッカは初めて、ルシーの差し出した手を受け入れます。
これまで僕は、相手が助けを求めていなければ、助けることはできないと思っていました。
けれど、その前に考えるべきことがあるのかもしれません。
相手が何を恐れ、何を守ろうとしているのか。
助けを拒んでいるのか、それとも、助けを求められない状態なのか。
人を助けるとは、その人の言葉の奥にある苦しさを見ようとすること。
そして、相手が助けを求められるようになるまで、目を逸らさずに関わり続けることなのだと思います。
