「ヒルコ=事代主」で読み解く「海峡国家と出雲とヤマト」
本記事は、トンデモ系歴史ファンの仮説です。
特徴は、大きな流れ、構造を推理するということ。
アカデミックでは細部からの緻密な積み上げが主流だと思いますが、それだと消された記録、歪曲や捏造された記録に大変苦労することになる。もちろん、総合的な突合せで、除外したり、修正されるわけですが、皇統に関わる問題だとそれも難しい。
一方、細部から異説を唱えると、陰謀論になりがちです。本当は○○だったという主張は、陰謀論の口調に聞こえてしまう。
流れ、構造で考える方法は、それらに対する一石を投じることになるのではないかと。
具体的には、大仮説を立ててから、史料を照合していく。もし多くの史料と符合すれば、符合しない史料を再検討したほうがいいのではないかという発想になります。
一筋縄でいくわけがありませんが、そのうち瓢箪から駒も生まれるのではないか…… そのような趣旨とご理解いただければ幸いです。
「正史と民間伝承『ヒルコと猿』」の記事のコメントで、アトリエトモコさんから「ヒルコーエビスー事代主」というヒントをいただきました。
それがこの記事のきっかけになりました。
お手数ですが「正史と民間伝承『ヒルコと猿』」の記事を先にお読みいただけると、わかりやすいかと。
実は「正史と民間伝承『ヒルコと猿』」の記事には「出雲」と「龍」についての考察が欠落していました。不勉強なのでふれることが出来なかった。「ヒルコーエビスー事代主(出雲)」というヒントは、その弱点をつくものでもありました。
出雲を組み込むには、まずサルタヒコを捉え直す必要があります。書紀に記されているサルタヒコ所縁の地は伊勢だからです。ヒルコが出雲に流れ着いたとすると、サルタヒコをどうするか?
こういう時、トンデモ屋のよいところは古史古伝を参照できること。
今回は、まず出雲口伝を頼らせてもらいました。
出雲口伝ではインドのドラビダ族出身のクナ族が日本にやってきてイズモ族となったと伝えています。ドラビダ語ではゾウの鼻のように突き出た物を「サルタ」と呼び、インドのゾウ神がサルタ彦大神に変化して崇拝されたということです。サルタ彦大神は「鼻高彦(はなたかひこ)」とも呼ばれたそうです。
海峡国家の一員「クラゲ」→ ヒルコ → 事代主(出雲)
インドのゾウ神 → 出雲 → サルタヒコ
出雲口伝では、両者共に出雲!
しかも、ヒルコは単に救出されただけでなく、出雲の地で歓迎され、王に準ずる指導者(書紀では大国主の子)になっている!
こうなれば歴史上の人物であり、史実に重ねることが出来ます。
ちなみに、出雲と海峡国家の関係はどんなものだったのか?
古代出雲は、とても良い港をもっていました。
出雲は海峡国家の主要なルーツの一つだったと思われます。
しかし、出雲は港だけではありませんでした。鉄の生産地としても発展しました。また鉄を列島各地に供給することで陸の諸国との結びつきも深めていました。
一方、海峡国家は交易による重商主義です。商売のスピード、利幅は地味な生産者、保守的な山人の意識とはかけ離れていきます。出雲が海峡国家のメンバーから外れ、提携先のような立場になったことは想像に難くありません。
ところが、そうこうしているうちに、半島の北で勃興した騎馬民族国家が南下をはじめた。
彼らには、海峡国家の外交・交易の呼びかけは通じませんでした。彼らは領土を欲した。征服への強い自信をもっていた。
そうなると海峡国家は苦しい。騎馬民族に対抗できるような陸軍がなかったからです。 さて、どうしたか?
前記事でも書きましたが、列島諸国を支配下に置いて、陸軍を持とうとしたのだと思います。
その任務をまかされたのが「クラゲ」でした。
しかし「クラゲ」は首脳たちよりも聡明で、海峡国家が列島諸国を支配下に置くことは不可能だと判断していました。それまで列島諸国が海峡国家に従っていたのは富の分配にあずかれたからで、それだけなのです。支配されるつもりなど毛頭なかった。というか、強力な陸軍がないから困っているのに、どうして列島諸国を征服するというのでしょうか?
とはいえ、海峡国家が騎馬民族国家に征服されるようなことになれば、その次は、その海運力で海を渡れるようになります。そうなってからでは遅いのです。列島の小さな国々は個別に撃破されていき、列島全体が征服されてしまいます。
つまり、列島諸国の側にも海峡国家と連合は必要だった。ただ、それは対等の連合です。海峡国家の支配下になるということではありません。それが「クラゲ」の考えであり、その構想を実現すべく交渉相手に選んだのが、有力国の一つ出雲だった。有力国は他にもありましたが、出雲は鉄を各地に供給していた関係で、広範囲なネットワークをもっていたからです。
交渉はうまく進み、出雲が列島諸国をまとめてくれるという内諾を得て、「クラゲ」は竜宮城(海峡国家の宮廷)に帰還。首脳たちに、列島諸国との対等の立場で連合することを献策しました。
ところが、首脳部は激怒。「クラゲ」は命令に背いて敵と通じた国家反逆罪で捕らえられ、ひどく痛めつけられて不具の身にされて、見せしめとして出雲へと流された…
「クラゲと猿」の昔話を、海峡国家と出雲にこじつけてるんですが、ちゃんと重なっているでしょ?
前記事では、ヒルコ(不具)にされた「クラゲ」が「猿」に救われて、口承伝承者の祖となった… というところで終わりましたが、
今回は、事代主となっていた… から、はじまります
一体どうやって、不具のヒルコが出雲の指導者に推戴され、事代主という尊称で呼ばれるまでになったのか?
決め手になったのは、国家存亡の危機を迎えた状況で、ヒルコには明確なビジョンがあったということだとでしょう。
「海峡国家との連合は当面無理だが、内地の諸国だけでも早急に団結する必要がある」ということです。
ヒルコの分析と対策を即座に理解した出雲も偉かった。
新参者で不具のヒルコに全権を与えて、列島連盟の結成を指揮させたというのは、その判断自体が超ファインプレーです。
ヒルコは列島諸国に使者を派遣。のっびきならない事態が迫っていることを説明させ、代表者を出雲に派遣することを要請した。出雲で列島諸国の大会議を催した。それが、全国の神々が出雲の地に集まるという神話になったのだと思いますが、それはともかく、そうして出雲を盟主にした列島連盟が誕生した。
連盟は、まず何を検討して決定したか?
連盟の拠点を安全な場所に建設することでした。出雲は交易には、ひじょうな好立地ですが、海から攻撃されれば、ひとたまりもありません。
では、どこに連盟の拠点を置くか?
選ばれたのが奈良盆地です。当時の奈良盆地はまだ湖で、水上交通が使えました。それでいて内陸深くにありますから、攻撃され難く、守りやすい。万が一劣勢になっても臨機応変に東に退くことも出来ます。
それが、奈良盆地が諸国の中心地になった経緯だと思います。
それが、ヤマトの出発点になったのだと思います。
奈良にいた一氏族が強大化して、それがヤマト連合につながったのではなかったと思います。
さて、列島連盟の結成を知って、おもしろくないのは海峡国家です。アテにした列島諸国の征服は不可能になり、それどころか警戒されて孤立することになりましたから。
連盟と結ぶためには、自分たちから頭を下げねばなりません。それは海峡国家も列島連盟の一構成員になることを意味します。それは断じてプライドが許さない。
素直になれないと、人は得てして屈折するもの。
海峡国家は陰険なことを二つやりました。
一つは、列島連盟の有力者の暗殺。それが書紀に記されている、サルタヒコの最期だと思います。
海峡国家が、やったもう一つの手が、列島連盟の乗っ取り。
列島連盟が合議制で運営されていることに目を付けて、いわば役員の多数派工作をしかけた。港を持つ諸国は海峡国家との関係が深いですから、個別に誘惑して寝返らせたのでしょう。
さらに念には念を入れて、武装部隊も奈良に向かわせた。九州の物部氏の軍を秘密裏に海上輸送で紀州まで運び、武力衝突が起こる場合にも備えた。
この乗っ取り工作がなんと成功してしまいます。
事代主が普通の権力者であったなら、なりふりかまわず会議を中断させ、裏切り者を排除したでしょうが、事代主は理想主義者であり、あくまで規則にしたがった。潔く、主導権を譲り出雲に引き上げた。
落ち目の海峡国家が、なんと工作によって列島諸国をコントロールできる立場を手に入れることになった!
これが「国譲り」の正体では?
出雲は列島の支配者ではなく、列島全体の支配権を譲る立場にはありませんでした。出雲が譲ったのは列島連盟の盟主の座であり、連盟の主導権だったのだと思います。 そのほうが話が合いませんか?
史実と照合すれば(かなりアバウトですが)、
この出来事が起こったのは開化天皇、崇神天皇の時代だったと思います。
開化天皇の時代に列島連盟の主導権を海峡国家が奪取し、その後を継いだ崇神天皇が富国強兵政策に邁進した。もちろんその目的は、海峡国家の悲願である半島の利権の奪還です。
富国強兵政策は苛烈を究めました。富の源泉として狙われたのは民衆だった。戸籍を整備、徴税と徴兵を大幅に強化。要するに、民から徹底的に搾り取って国富とした。
(新しい支配者は、我々を奴隷にするつもりだ…)
民衆の間に、たちまちそのような噂が広がったことでしょう。
だから、多くの民衆が山奥や東に逃れて行った。
それが崇神天皇時代の人口激減の真相だと思います。疫病が主因ではなかった説です。
しかし、崇神天皇は少しも怯まず「神の祟り」のせいにしました。自分の政策が悪いのではなく、神が祟った。あるいは、神の祀り方が悪かったとして、問題をすり替えて宗教改革を敢行。
まず、宮廷から神を外に出します。すなわち大王家と神の切り離しです。さらに三輪山に出雲の神(大物主ー事代主)を祀り、出雲勢力の懐柔を図りました。出雲の末裔に名誉職と奉納を約束したわけです。まさに老練な政治手管。(どうして事代主が奈良で祀られているのか。列島連盟の活動があったからではないのか…)
いずれにせよ、崇神天皇がブレずに敢行したのは富国強兵です。
ただ、富国強兵までは列島諸国も同意してくれました。
騎馬民族の襲来への備えは必須でしたから。しかしそれはあくまで専守防衛のつもりだったと思います。こちらから半島に攻め入るなど思いもよらなかった。
半島攻撃を実行に移す時点で、海峡国家の末裔たちと列島連盟の末裔たちとの間の相違が顕在化したのは、当然の帰結でした。具体的には、仲哀天皇・神功皇后の時代です。
神功皇后の半島征伐に先立って発生した熊襲の反乱は、いずれかの陣営が武装ほう起したものかもしれません。
はっきりしているのは半島攻撃から戻ってきた神功皇后に対して、故・仲哀天皇の皇子である麛坂皇子と忍熊皇子が反旗を翻したこと。その実態は、やりたくなかった戦争に巻き込まれた列島連盟の強い不満の表れだったのではないか。跡継ぎ問題は主因ではなかった説ですね。
トンデモ余談になりますが、
神功皇后は、海峡国家の女王の直系だったのかもしれません。あの行動は並みの女性、単に優秀とか気が強いだけではでは到底やれるものではなかったと思えるからです。
特別なDNAと、海峡国家の秘願成就というミーム(意味の遺伝子)の両方があったからこその、超人的な働きだったように思えます。
また、半島は元々、列島の支配下にあった……という解釈は、まったく根拠のないことではなく、海峡国家が半島に一定の利権を保有していた。それが奪われたので奪い返すという論理があったのでしょう。
しかしそれは、半島南部を倭国が領有していたという話ではありません。港と鉄の産地など面積的にはごく狭い一部を海峡国家が保有していた…。
さらにいえば、海峡国家と列島連盟は本来、別物です。
海峡国家と列島連盟が一つになったのが日本だという云い方は出来ますが、神功皇后の時代には、まだ両者は一体化してません。
海峡国家の末裔が主導権を握っていたに過ぎません。
実際、その体制=仁徳朝は長続きしませんでした。
継体天皇が何とか盛り返そうとしましたが、結果的には海峡国家の末裔が主導するヤマトはそこで終わったと思います。
では、その後のヤマトはどうなっていったのか?
列島連盟の末裔が主導権を握ったのか?
正直に云いますと、わたしの勉強はそこまで及んでいませんでした。
なので、そこはAI君に教わりました。AI君曰く、
継体天皇の後のヤマトの基本的な考え方、構造は
半島の利権を奪う(奪還)することは、魅力(利益)ではなくコストと判断されるようになった。代わって、主な収奪対象が国内(民)になった。
海峡国家の精神とか末裔とか、列島諸国の精神とか末裔とか、そのようなことが大きな原動力になることはなくなり、かわって国家の制度や官僚が整備され、それらが国家を動かしていくようになった。
「クラゲと猿」の物語が重ねられる時代ではなくなったということです。
「クラゲと猿」の物語が重ねられる最後の舞台は、
応神天皇亡き後の菟道稚郎子(宇治天皇)と大鷦鷯(仁徳天皇)の「国譲り」だったと思います。
トンデモ炸裂と云われそうですが、応神天皇が生前に後継者として指名していた菟道稚郎子は、思想的に列島連盟に近かった。海峡国家の復活ではなく、列島の民のための国づくりですね。
応神天皇は海峡国家の末裔ですが、母親の半島征伐で国内の対立が激化していたので、それを鎮静化させるために、列島ファーストの陣営に配慮する必要があった。
そして菟道稚郎子は実際に即位したと見ています。宇治天皇です。
ところが、宇治天皇がやったのは「かまどの煙」伝説の政策、すなわち民衆の税の大幅減免です。これが豪族たちの離反を招いた。無理もありません。貧乏を強いられるのは大王だけでなく豪族たちも同じだからです。
実際にはもう少し複雑で、宇治天皇のバックには秦氏の養蚕や製塩などのグループがいたと考えています。彼らは自分で稼げるんです。そもそも国の予算をもらっていませんでしたし。したがって、大減税には既存の豪族たちを弱体化させる狙いもあった。机上の戦術としては立派なものだった。
ところが、秦氏の中の土木開発グループが裏切った。彼らにしてみれば公共事業の中断はやはり許しがたいものだった。
というような経緯があって、有力者はこぞって大鷦鷯(仁徳)擁立に傾いたのではないか。
特筆すべきは、ここで宇治天皇があっさりと身を引いたことです。両者の間で戦争は起こらなかった。まるで事代主の再来!
菟道稚郎子と大鷦鷯が皇位を譲り合ったという書紀の記述も、そう考えるとまんざら潤色でもありませんね。
「ヒルコー事代主」の記事なのに、どうして菟道稚郎子のことまでふれたかというと、事代主の精神が、どうもその後のヤマト、そして日本に受け継がれている気がするからです。
むろん少数派ですよ。多数派はいつも現実的で利己的。
ところが、時おり、自分の利益保身よりも、皆の理想を考え、実現しようとする変人が現れる。
聖徳太子やら菅原道真やら具体例を挙げると、見方が大きくわかれそうですが、皆さんの周囲には、そんな人がおられませんでしたか?
仕事人としては、最後までやり遂げていないので、むしろ失格者。
というか社会人、大人としても未熟者と見なされるでしょう。
でも、そういう変人でしかはじめられなかったようなこともある……
ト説、しかも長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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