【あがり症|美大中退編9】うに、死ぬのもムリだ|ふるえるままに、すすめ46
あがり症でHSP気質のうにが、美大受験、大学中退、そしてその後も続いていく日々の中で、変わりたくても変われない、どうしようもない自分を抱えたまま世界を泳いでいく『うに』のイラスト付き連載エッセイです。うまくいかない日も多いけど、うにはうにのまま、ふるえるままに進んでいきます。
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「おかあさん、これ、桃のゼリーだよ。わかる?」
六人部屋の廊下側のベッドから、
女性の声が聞こえてきました。
うには酸素マスクをつけたまま、
ほんの少しだけ、声のするほうへ頭を向けました。

「ちょっとだけ味見してみる? おいしいよ」
ベッドに横たわるおばあさんの枕元で、
娘さんらしい人がゼリーを口元へ運びながら、
懸命に話しかけています。
「オレンジ味もあるし、ブドウ味もあるよ。甘くないコンソメ味もあるよ」
娘さんが何度も声をかけているところへ、
点滴を交換しに看護師さんがやってきました。
「Mさん、よかったですねえ。少し嬉しそうですよ」
「……はい……」

娘さんと看護師さんが、
ベッドの傍らで話している姿が、
廊下から差し込む明かりに照らされ、
シルエットになって見えました。

うにが入れられたのは、
ナースステーションのすぐ隣にある大部屋でした。
どうやらそこには、
病状の厳しい患者さんたちが
集められているようでした。
緊急入院だったためでしょうか。
うには、その部屋の窓際に空いていたベッドへ
寝かされていました。
深夜、慌ただしい物音で目を覚ますと、
おばあさんのベッドが
別室へ移されていくところでした。
廊下には家族が集まっていて、
おばあさんの名前を小さな声で何度も呼んでいました。
その声が、病室の中までかすかに届いてきました。
おばあさんは、明け方近くに息を引き取りました。
そして、おばあさんがいなくなった場所には、
間を置かず、次の重症患者さんが運ばれてきました。
その人も数日すると、
深夜に個室へ移され、家族が呼ばれました。
うにが入院していたあいだに、
同じことが幾度か繰り返されました。

朝が来て、カーテンが開けられると、
朝日がうにのベッドまで差し込んできます。

うには、窓の外に広がる青空を見上げました。
今日も、かろうじて生きています。
酸素マスクに呼吸を助けてもらい、
点滴からは薬と栄養が血管へ送り込まれています。
患者さんの入れ替わりが激しいこの病室で、
ベッドが入れ替わらないのは、うにだけでした。
まもなく午前七時。朝食が運ばれてきます。
身体はまだ重く、
食事のために上半身を起こすだけでもつらい。
食欲も、ほとんどありません。
それでも、食べなくちゃ。
ひと口でも多く。

ああ、明日がまた来る。つらい。
もう、明日なんて来なければいいのに。
誰も自分を知らない世界へ行きたい。
自分という存在を、どこかへ消してしまいたい。
うつ状態になると、突然、
心の中がこんな気持ちで
いっぱいになることがあります。
うにが、もし一人きりで
この苦しさに向き合っていたら、
耐えるのは難しかったかもしれません。
けれど、うには病室にいて、
毎晩まったく違う現実を見せられていました。
明日を迎えられるかどうかも分からない
重症の患者さんと、夜を越える。
それは、死へ向かっていく人の苦しい呼吸を、
薄いカーテン一枚隔てた場所で、
夜通し聞き続けるということでした。
短く途切れる息。
苦しそうに痰の絡む音。
夜中に慌ただしく出入りする
看護師さんたちの足音。
ご家族の悲痛な呼び声。
それをずっと聞いていると
自分の苦しみどころじゃなくて。
ああ、もう、楽にしてあげたい。
神様がいるなら、
どうかあの人が
これ以上苦しまなくて済むようにしてあげてほしい。
せめて、その苦しい時間を
できるだけ短くしてあげてほしい。
うには布団の中で、何度もそう願っていました。
自分が喘息の発作で息が止まりかけたときには、
――自分の人生、ここまでか。
まあ、いい人生だったよな。
なんて、脳内で走馬灯まで流していたのに、
思えば、ずいぶん勝手で情けない話でした。
うには、本当に死ぬということについて、
何も分かっていませんでした。
何人もの患者さんたちの終末期の夜を
病室で一緒に過ごし、
永遠の別れの後に、
残される家族の姿をみるまでは。
何も分からないくせに、
うに、本当に死ぬところだったんだ……。

そして、また朝がやってきます。
目を覚ますと、
昨日よりも明らかに身体が回復していました。
昨日より呼吸が楽になり、
食事も少し多く食べられます。
酸素マスクが外されました。
眠っているあいだにも、
うにの十八歳の身体は、
勝手に生きるほうへ向かっていました。
生きているから、
お風呂に入れない髪の毛はべとべとになるし
口周りの産毛も眉毛も伸びるし
爪だって伸びるし
匂いも気になってくる。
何とか洗面台まで歩いて行って、
身体と顔を、お湯で絞ったタオルで拭きました。
鏡に映った自分の顔は
少しずつ血色が戻ってきています。
ああ、うには、死ぬのもムリだ。
と、つくづく思いました。
人は、死にたいと思ったときに
死ねるわけでもない。
それなのに
死なないでほしいと願っても、
逝ってしまう人もいる。
こればかりは、本当にどうしようもないんだな。
自分では人生は終わったように思えるのに
ここにいると、大学とは遠く離れているからか
(うに、何をやっているんだろう)
って心底情けなく思えてくる。
どうすればいいかはまだわかんないけど。
うには生きる希望を見つけたのではなくて
死んだら楽になれるという考えを、
そもそも信じられなくなったんだと思う。
生きるしか、ないじゃんか。
その間にも、身体だけが、着実に回復していく。
うには、運ばれてくる病院食を黙々と食べました。


「……お腹が空いた……」
何日目かの朝がやってきて、
目が覚めたとき、ふいに空腹を感じました。
枕元の時計を見ます。
(朝ごはんが運ばれてくるまで、あと何分かな?)
と思い、はたと気づきました。
お腹が空いてる。
……お腹が空いてるよ。
うに、朝ごはんの時間を待っている。

……そうか。
病院では、毎日、
食事の時間が決まっているからかも。
朝七時、昼十二時、夜六時。
この時間になると、
栄養バランスの整った食事が
必ず運ばれてくる。
身体がこのリズムに慣れ始めたんだ。
身体って、単純で、偉大なんだな。
うには、ぼんやりそう思いました。

おばあちゃんに頼まれて、
ハオユーが、大学の授業の合間に、
うにの荷物を持ってきてくれました。

「なんか食いたいもんとかある?」
「う~ん、お菓子が食べたいかも……」
「お菓子? どんなの?」
「……チョコ系かな……?」
「いいよ。売店で買ってくる」
しばらくして、ハオユーは、
チョコ系のお菓子をいくつも買って戻ってきて、
「どや」と言わんばかりの顔で、
サイドテーブルの上にずらりと並べました。

「こんなに食べられないよ」
「ちょっとずつ食べればいいだろ」
けれど、ハオユーが選んできたチョコレート菓子は、
どれも微妙にうにの好みから外れてます。
ムムム。
「ありがと」
そう言いながら、うには心の中で思いました。
(やっぱり、自分で買いに行くか)

次第に喘息の喘鳴も収まり、
売店までなら、息が上がらず歩けるようになっていました。
朝食のあと、
自分で買ったミスターイトウの
チョコチップクッキーを食べていると、
ちょうどあの主治医が病室へ入ってきました。
先生は、うにの手元の
食べかけのクッキーを見て、
あの寒々しいまなざしで
フン、と鼻で笑いました。

つづく!


大切なお知らせ
本作は実体験に着想を得たエッセイですが、プライバシー配慮のため登場人物・団体・時系列・場所等に創作・合成・編集を含みます。特定を意図していません。ただし、うにが感じた気持ちと気づきは本物です。

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※本作は実体験をもとに再構成した創作エッセイです。
