【あがり症|美大受験4】個性と模倣。好きと苦しいが繰り返す日々|ふるえるままに、すすめ4
あがり症でHSP気質のうにが、美大受験、大学中退、そしてその後も続いていく日々の中で、変わりたくても変われない、どうしようもない自分を抱えたまま世界を泳いでいく『うに』のイラスト付き連載エッセイです。うまくいかない日も多いけど、うにはうにのまま、ふるえるままに進んでいきます。
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ふうこ「ねえ、誰が好き?」
なつめ「あたし? マルスかな」
ふうこ


マルス。
闘う青年神。
兜をかぶった、筋肉と沈黙の石膏像です。
なつめ

ゆき「www気持ちはわかるけどぉ」
なつめ「ゆきちゃんは?」
ゆき

なつめ「アリアスって、あの縦ロールでしょ? むり〜。描くのうざくない?」
ゆき「うざくないよw エレガントだよ。首と巻き毛の間の空間がさ、綺麗じゃない?」

アリアス。
静かでエレガントな女神様。
首から肩へ落ちる陰影が、女性らしくなだらかで、やわらかい。
ふうこ「うには?」

うには、参考作品が載っている大型の本から顔を上げました。
(美大予備校では、過去の合格作品が見れるので、多くの生徒がその参考作品を見て、レベルや課題への考え方などを見て学ぶのです)
ふうこ「推しの石膏像。どれが好き?」
うに「え……推し……」
少し考えて、うにはいいました。
「モリエール……」
ふうこ「モリエール!? どこがいいの、あんな口ひげロン毛のおっさん!
超めんどいじゃん。時間内に全然描き終わんない、あいつ」
うに「顔が」
ゆき「うにちゃん、あ〜ゆ〜のが好みなの?」

モリエール。
マルスやアリアスに比べると、妙に人間っぽい、なぞの像。
うに「え、えっと、顔が……描いていて、わりと似せやすい気がするような……」
なつめ「あ、それ、なんかわかる。似せやすい顔ってある」
ゆき「モリエールって、意外とよく見ると顔、整ってるよね。パーツの配置がバランスいいっていうか。案外、リアルな人間だったら、イケおじ系じゃない?」
ふうこ「だってモリエールって俳優だよ。フランスの」
なつめ「え、うっそ! まじ? なんで神々の中に、人間、混じってんのw」
ふうこ「そういえば、そうだわ! うける~」

美大予備校に通う女子高生の会話というのは、
世の中の一般的な女子高生の会話とは、かなりかけ離れています。
顔の好みで盛る上がるのは、
クラスメイトのかっこいい男子でも、アイドルでもなくて
石膏像の顔。

美大受験には、デッサンのほかに、色彩構成や、構成デッサンの課題などもあります(大学や学科によって異なります)
たとえば、以下のような課題です。
与えられたモチーフを使って、
「透明感」をテーマに色彩構成をしなさい。
モチーフ:レモンの断面/試験管/リボン

受験である以上、そこにはある程度、評価の基準があります。(別に明文化されているわけじゃないんだけど、なんとなくわかってくるんです)
課題文を的確に理解しているか。
その意味に合った構成意図が、画面にあるか。
構成意図に沿って、モチーフの形や質感を、
画材の性質を利用して的確に描写できているか。
空間の処理に工夫があるか。
色彩の対比と調和が、美しく設計されているか。
そして、完成度が高いか。
大きく分ければ、つまるところはこの二つです。
課題文を正確に読み取る力。
それを画面に的確に描写する力。
この二つについては、経験値が豊富な浪人生が圧倒的に有利です。
けれど、合否を分けるもう一つの視点があります。
それが、
独自の発想があるか。
という点です。
想像してみてください。
ずらりと並んだ、たくさんの受験作品。
その前を、大学の先生たちが歩いていく。
一枚一枚をじっくり見る前に、まずはその大量の作品の中で、
「お」
と、目が止まるものがある。
その「お」とは、いったい何なのか。

この「独自の発想」という言葉が、なかなかクセモノです。
独自の発想、と聞くと、つい「人と違うことをしなければいけない」と思ってしまう。
奇抜なことをすれば目立つ。
変わった構図にすれば、先生の目が止まる。
誰も思いつかないようなことをすれば、それが個性でしょう? って。
でも、うには、少し違うんじゃないかという気がしていました。
長年、書道をやってきたせいかもしれません。
個性というのは、いくら尖っても、表現できるものじゃない気がして。
むしろ、基礎を叩き込む過程で、自分の悪い癖を直して、直して、直して。
それでもなお、どうしてもにじみ出てきてしまうもの。
己という存在の、どうしようもなさみたいなもの。
……なんじゃないか、という気がするのです。
絵を描かない人は、絵を描いている人を見て、こんなふうに思うかもしれません。
「あの人は個性があってすごいな」
「自分らしさを絵で表現できるなんて、うまいな」
「あんなに上手に描けるなんて、才能があるのね」
でも、描いている本人の心の中は、たぶん全然違います。
描いても、描いても、自分が思うようには、描けていない。
フラストレーションがたまる一方。
特に描き始めのころは、
(自分が描きたいと思っている絵なんて、全然描けない)
(そもそも、自分らしさって何なんだよ、わっかんね~!)
(あ~~、周りのみんながうまくみえすぎてツラ)
と思いながら描いています。
絵を描くのは好きだ。
でも、思う通りに描けないのが苦しい。
自分の理想より、自分がはるかに下手なのが悔しい。
楽しい×1回
苦しい×いっぱい、みたいなw
それでも、毎日描く。
描いていると、やっぱり描くのは好きって思う。
ああ、好きと苦しいは、同時に存在しうるんですよね。
好きだから、逃げられなくて辛いんだろうな。。。
(まるでダメンズに沼った女子のようw)

現実は鉛筆と絵の具にまみれて悪戦苦闘w
そうやって毎日毎日、絵と向き合っていると、何かが降り積もって。
自分の感覚を信じる力。
それを出力するための力。
想像力。
構成力。
判断力。
何を残し、何を捨てるかを選ぶ力。
そういうものが、少しずつ身体に入ってくる。
すると、ほんのわずかずつですが、
「思うように描けない」という不自由さから、解放されていくのです。
もちろん、完全に解放されることなんて、たぶん一生ありません。
それでも、以前よりは少しだけ、自分の感覚を画面に表現できるようになっていく。
そしてあるとき、気がつくのです。
派手でもない。
奇抜でもない。
でも、自分の中に
「私は、このようにしか描けない」
というものが、たしかにちゃんとある。
それが、「個性」と呼ばれるものなのかもしれません。
面白いことに、渦中にいる本人は、なかなかそれに気づけません。
けれど、周りの人や先生から見ると、そういうものは意外なほど見えているらしいのです。
「あの子は、素材の質感の表し方に個性がある」
「あの子は、色の選び方が独特だ」
「あの子は、ダイナミックな画面を作るのがうまい」
そうやって、本人より先に、周りが気づいていることがある。
……というよりもむしろ、自分で「これが自分の個性だ」なんて高ぶりながら描いたものほど、後から見てこっぱずかしいものはなかったりもします……!!
そして、ある日。
その人が、自分でもまだうまく説明できないまま、
つかみかけていた「何か」が、鮮やかに作品へ昇華される瞬間がきます。
ついこの間まで、迷いだらけの、グダグダした絵を描いていたと思っていた人が、急に、
「おっ」
と、誰もが目を止めざるを得ない作品を作る。
そのとき、周囲は騒然とするのです。
「え、何、あれ。すごくいい」
「あれ描いたの、誰?」
奇抜な絵ではありません。
特に変わったことをしているわけでもない。
誰も思いつかないような大技を決めているわけでもない。
でも、何かが、他とは違う。
その人にしか描けない「何か」が、たしかに表れている。
見る人の目を、どうしようもなく惹きつけてしまう、「何か」が。
そこに、現役でいけるか、
1年かかかるか2年かかるか、何年かかるか。
いけたとしても、年に1回の受験日当日に
それを発揮できるか。
それはだれにもわからないのでした。

波多野先生は、合格作品集を机に広げている私たちを見て、軽い調子で言いました。
「参考作品を見るのはいいが、見すぎるなよ〜」
「は~~~い」

参考作品を、見すぎるな。
それはたぶん……
他人の正解を見すぎると、自分の中からにじみ出てくるはずだった「何か」を、逃してしまうという意味かも。
たしかに、参考作品は、道しるべにはなる。でも、それは「わたしの何か」にはならない。
でも、うにはこのとき、実は別のことも考えていました。
参考作品を見すぎるな。
それは、たしかにそうなのかもしれない。
けれど、見ないわけにもいかない。
だったら、分析的に見なければいけないのではないか。
ただ「上手いなあ」と眺めたりすると
つい、その絵の「何か」に無意識のうちに惹かれすぎてしまうから
一枚一枚の中にある、
その作品の「おっ」は何なのかを
要素に分解して理解する。
それは、影響されるのとはかなり違う。
どこに目が止まったのか。
なぜ、その色の組み合わせが気持ちいいのか。
なぜ、その余白が効いているのか。
なぜ、その表現に説得力があるのはなぜか。
なぜ、その作品には、その人にしか描けない「何か」があるように見えるのか。
それを、できる限り言葉にする。言語化できないものは、学び難く、応用が利かない。
合格作品を見ることは、答えを見ることではない。
その人の「何か」の痕跡を、作品を通して読むことなのだと思いました。

でも、ある日のことです。
予備校の廊下の奥で、先輩たちがもめていました。
最初は何が起きているのかわからなかったのですが
通りすぎようとしたとき、耳に入ってきた言葉にはっとしました。
「だから、あれ、完全に真似じゃん」
「違うって。参考にしただけだよ」
「いや、構図も色もほぼ一緒だったじゃん」
「でも、モチーフ違うし」
「そういう問題じゃなくない?」
先輩たちの教室のピリピリとした空気が、廊下まで伝わってきていました。

話の内容は、ある色彩構成の課題のことでした。
ある先輩が出した作品が、別の先輩の作品に似すぎていた。かなり。
構図の取り方。
色面の置き方。
画面の抜けの作り方。
中心に置いた透明物の扱い。
たしかに、横に並べて見たら、似ているのかもしれません。
でも、どこからが「参考」で、どこからが「真似」なのか。
うにには、すぐにはわかりませんでした。
ただ、その場にいる人たちが、みんなそれをかなり深刻なこととして受け止めているのはわかりました。
現役生の私たちは、ピリピリした本科の教室を避けて、
基礎科の教室に集まって話していました。
ふうこ

なつめ

ゆき

なつめ「変かな?」
ゆき「だれだって、他の誰かに影響を受けているでしょ。全く影響を受けていない人なんていないじゃん」
なつめ「そーだけどさあ……う~ん、でも、なんかさ……それを同じ塾の中でやらなくてもいいんじゃない? あの表現が流行っちゃってさ、実際の受験で、似たような表現が増えちゃったらさ、あの先輩にとっては確実に不利なわけだし。怒るのも仕方なくない?」
ふうこ「あーたしかに…」
ゆき「うん……でもさ、そうはいってもさ、盗みました、なんてどうやって証明するの?」

みんなの議論は続いていました。

真似したのか。
参考にしただけなのか。
たまたま似ただけなのか。
誰にも、はっきりとは言えませんでした。
でも、似ていると感じた人がいる。
傷ついた人がいる。
怒っている人がいる。
だって受験は競争でしょ、何が悪いの、っていう人もいる。
盗作かどうかを証明することは、たぶん難しい。
けれど、証明できないからといって、何をしてもいいわけではない。
それが、意識的なものだったのか。
無意識だったのか。
本当に偶然だったのか。
外側からはわからない。でも、きっと、描いた人の中ではわかっているんだろうな。
模倣か盗作か。
その境目を本当にわかっているのは、本人だけ。
誰かの作品の中にある、あの煌めく「何か」は、その人が何枚も描いて、迷って、苦しんで、ようやく画面に出てきたもの。
それを、「受験のために」「勝てそうな要素」として、自分の画面に取り入れたら……?
たしかに、自分の咀嚼力によっては、良くなる可能性もあるかも…しれない。
でも、誰かの「おっ」は
そのまんま、私の「おっ」にはならない。
……ならないんだよなあ、これが。
それに、きっとめちゃくちゃ違和感あるだろうなあ。
悪くすると、それで褒められてしまって
かえって自分を見失って迷走しちゃう気しかしない。
それにさ、塾の中で褒められても、どうなのさ
って言う側面もある。
問題は受験で合格するかどうか、だから。
これもまた、どうしようもなさであり、救いでもあり……。
(なんで日本の美大受験って海外のように
日頃から描いているポートフォリオによる選考じゃないんだろう)
って、うには不思議に思っていました。
(※今は推薦など、そのような形式にちかい選考方法も増えてきたようです)

「参考作品は、見てもいいけど見すぎるなよ」
波多野先生の言葉が、頭をよぎりました。
おまけw👇


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※本作は実体験をもとに再構成した創作エッセイです。
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