『夜明けの18秒』Episode 7 クレーンフェルトへの18秒【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】
プロローグ・episode1 小さな違和感と、雪の降る日に
episode2 不可逆な時間
episode 3 ひとりの記憶、ふたりの放課後
episode 4 記憶が目を覚ます時
episode5 旅のはじまりと、雪原の光
Episode 6 夜と昼の境界で
Episode 7 クレーンフェルトへの18秒
「…17……」
そう、ふたりで数え終わる頃だった。
キーン、耳鳴りがした。そして頭が、割れるように軋む。視界が大きく揺れて、僕は小さく呻いた。列車の車輪が刻むリズムが、傷口のように胸の奥を叩いていた。
雪が、音もなく視界を埋めていく。体のバランスが崩れて、世界が反転していく。ぐにゃり、ぐにゃりと映像が混じり合う。吐き気がする。ヨアケは…微かにその存在を探しながら、僕は記憶が薄くなるのを感じた。
気づくと、そこはもう、列車の中ではなかった。
世界は音もなく白く深く沈み、僕はその中心で立ち尽くしていた。あたり一面、雪。音もなく、耳鳴りだけがこだました。どこまでも、果てしなく広がる白銀の地。空も大地も区別がない。ただ、冷たい時の粒子が風に混じって舞っていた。
ふと、風に紛れて、あの古い本の一節が、耳の奥で響いた。
”列車に乗る者は、かならず“間”を越える。
そこは、時間と記憶のはざま。
進む者には、過去と未来のどちらかを手放す覚悟が問われる”
“クレーンフェルトの旅”──
かつて、ヨアケと何度も読み返した、あのページだった。
⸻ここは、時間の狭間。
ネバートレインの旅は、記憶を運ぶだけのものじゃなかった。”選ばれる者の、最後の試練”。そんな一節が、頭のなかに、直接語りかける。
「ヨアケ…?」
声が出たのかわからなかった。喉の奥が細く息を吐くような小さな問いかけだった。いくら繰り返しても、返事は、ない。
「ヨアケ……どこ……?」
雪をかき分けるように走る。冷たい風が頬を裂き、声が喉の奥で凍っていく。
「…ヨアケ……!」
荒い息だけが、かすかにどこかで響いていた。でも、その姿はどこにもなかった。
シャリ、シャリと、チェーンの音が雪の中に響いていた。そして、時間の中に、黒いスーツ姿の男。右手には、黒の懐中時計。つめたい存在だけが、雪の中違和感なく立っていた。男が口を開く。
「……わかっているんだろう?」
その声は静かだったけれど、深く、迷いもなく刺さってきた。
「時間は、不可逆なんだ。もう、戻れない。何もかも」
男は、片手で懐中時計を掲げた。そこには、止まったままの“6:41:17”。
「君が選ぼうとしているのは、痛みの道だ。ヨアケを連れていけば、彼女の時間は削られていく。あの子が笑うたびに、少しずつ消えていく。選べ、ナオ」
頭の中に数々の映像が浮かび出す。
鮮明に、そして、まだ僕の知らない、未来のようだった。どこかきらきらと光る、万華鏡のように。白い雪しか知らない僕には、眩しいほどに彩りに満ちていた。
——雪のない、あたたかなフィンロッホの町。
——いまよりも、大人びたヨアケ。
——明日を語る、ヨアケ。
『ナオ、セディさんがいうの。1秒よりもっと細かく時を刻む時計を作りたいって。もう年だから、やらないって笑うんだけど、すてきだなぁって、思ったの。1秒をもっと大切にしたくなるよね。私の代々伝わるこの銀の懐中時計。おじいちゃんも、おばあちゃんも、みんなこの時間の中で生きてきたの。私も誰かにこの時計を渡す時、1秒や、1分を大切にできるように、そんな時計に作り替えてあげたいって思うの。セディさんの代わりに。ナオ、手伝ってくれる?』
そうやって、ヨアケは、笑った。僕より背が高くて、髪は今よりも長く伸びていた。
「……今見たのは君の“夢”だよ。君が本当に望んでいた世界だ。ヨアケと共に生き、時間の外側から抜け出して、未来へ向かう願望。でも、それは叶わない。幻想なんだ。現実に戻れば、もう……。わかっているだろう。ヨアケの姿が透けていることに」
視界がまた、歪む。誰かの手が、白い雪のなかから伸びてきた。
『……ナオ』
声が、響いた。
『明日、迎えにいくね。夜明けが終わる、その前に』
——それは、ヨアケの声。
『ナオ、一緒に、朝日を見よう』
僕の心が、確かに震えた。それは夢でも幻でもない。“今のヨアケ”がくれた、“本当の願い”だった。
「僕は……」
足元の雪が砕ける。白が崩れ、僕のまわりを暗闇が囲んでいく。
「僕は……ヨアケを、置いていかない」
男が、ゆっくりと後ろへ下がっていく。
あの本にも、そう書いてあった。
”列車に乗る者は、過去と未来の狭間で“もっとも大切なもの”を選びなおす試練に出会うだろう”
「君は、本当にそれでいいのか。君はまだ、すべてを知らないんだぞ……」
幻想は、まだ続いていた。ヨアケの声が響く。
『ねえ、ナオ。
ずっとここにいた気がする。雪のなかで、時間が止まったまま。だけどね、ある時から思ってたの。誰かの止まった時間を、少しだけでも進められたらいいって。その“誰か”が、私自身だったかもしれないけど……。意味なんて、ずっとよくわからなかったけど、ただ、光が差すのを、待ってたの』
幻想と、幻想。
足元の定まらない世界のなかで、僕は、前を向いた。
「知ってるさ。全部は知らない。でも……願いなら、わかる」
男は、怒ったように捲し立てる。
「君がそれを選ぶなら、ヨアケはもう、そこにはいない。ヨアケは進めない。過去を越えられない。それでも、いいのなら…行け」
男は、そう言って、ふっと微笑んだ。そして、ゆっくりと、雪に溶けるように消えた。
僕は小さく、けれど確かに微笑んだ。
そして、足元の雪が溶ける音とともに、世界はまた動き出す。列車の音が戻ってきた。
「……18」
その瞬間、ヨアケの声が、雪の外から響いた。意識が、景色が、入り乱れるように変わっていく。フィンロッホの町、セディさん、パーシさん、トコさん、パパ、ママ。そして、ミーシャとヨアケ。たくさんの人々の顔が浮かび上がって、霧のようにしずかに消えた。気がつくと、僕はヨアケとともに、列車の座席に座っていた。
「ナオ?顔色悪いよ」
ヨアケが、心配そうに覗き込む。僕は、ふっと微笑んだ。
「……18。ちょうど、18秒」
僕も、慌ててそう答えた。現実を思い出すように。ミーシャが、雪の上でしっぽを揺らしている。窓の向こうに、雪に覆われた森の彼方から、うすく光が滲みはじめる。
『クレーンフェルト行き、
ネバートレイン号、発車します』
アナウンスと共に、ガタンと列車は動き出す。世界が、ほんのすこしずつ、再び動き出した。その心の奥に、昨日という名の約束と、まだ見ぬ明日を乗せながら。
ネバートレイン号は、雪の原を静かに滑るように走りだした。
ガタン、ガタン、ガタン。
線路はいつしか消えたように、宙に浮いた感覚を残した。車窓の外にはもはや雪はなかった。夜明けの18秒を越えて、僕たちは、世界の境界を越えたのだ。ネバートレインは、今日に別れを告げて、走り出す。
外に広がるのは、葉を落とし黒く乾いた森。どこかで命の温度を感じる、冬のまえの夢のような気配だった。
ネバートレイン号は、雪の原を越えたあたりで、ふと速度を落とした。
「……あそこ、行かなきゃいけない気がする」
ヨアケがそう言ったとき、車掌の姿はもう見えなかった。列車は音もなく停止し、ドアがひとりでに開いた。静けさの中にその駅はあった。
外の空気は無音だった。風もなく、雪の匂いもしない。ただ、過去だけが、ぬかるんだ土の上に沈んでいるようだった。
ふたりで列車を降り、森に足を踏み入れる。あたりは、次第に、過去の色に染まり始めた。それは懐かしさとは少しだけ、なにか違った。置き去りにしたものにふれるような、そっと触れてはいけない気配だった。
森の奥には、廃墟のような教室がひとつあった。屋根は抜け落ち、机も椅子も、雪の影を吸い込んだように黒ずんでいる。
壁には、誰かの名前を呼ぶように消えかけたチョークの跡。この教室は、いつかふたりで過ごしていた放課後に見えた。
僕がまだ何も思い出せなかった頃の記憶が蘇る。『私、名前を呼ばれなかったことがある』たしかに、そう言っていた。
思い出すということは、同時に、忘れていた誰かをもう一度迎え入れること。僕たちは、ここで名を呼ばれずに、昨日を置き去りにしてきた。
黒板のすみに、うっすらと書かれた詩の跡。ヨアケが指でそれをなぞった。
「ここ、私たちのスクールだね」
そこにはたしかに、僕たちの昨日があった。
ヨアケの声が、風のように空間にとけていく。
そのとき、教室の奥に、少年がひとり座っているのが見えた。背中だけが、やけにくっきりと、まるで時間のなかに取り残された影のように。誰かの記憶をのぞいているその景色は、夢の中のようで、手で掴めない幻想のようだった。
そのそばに、白猫がいた。ミーシャだった。その少年を見つめながら、悲しげに耳を伏せていた。彼が何か大切なことを忘れてしまったのを、ただ静かに見届けているように。思わず喉が震えた。少年は、ノートに文字を書いた。
”To ヨアケ…”
⸻あれは、僕だ。
あの時、誰の声も届かない場所にいた。名を呼ばれず、約束も交わせず、誰かの影をずっと待っていた。
ヨアケが、そっと手を握る。
「大丈夫。私は、ちゃんとここにいるから」
鼓動が早くなり、僕はヨアケの手を引いて、逃げるように車内へ戻った。まだ、心の奥が、痛い。
ネバートレイン号は、短く汽笛を鳴らした。そして、音を立ててまた動き出した。
ガタンガタン、ガタン。
列車はまた景色を少しずつ変えながら、大きな音を立てて進んでいく。鼓動と車輪の音が共鳴している。やがて窓の外に、また、小さな駅が見えてきた。
古びたホームに、看板はなかった。
駅名も、時刻表も、誰かの影も、どこにもない。
「……あの駅、降りたこと、あった気がする」
僕は、ふとつぶやいた。思い出そうとすればするほど、頭の中がしん、と静まり返る。
ヨアケは黙ったまま、僕の隣で窓を覗き込んでいた。彼女の瞳の奥に、なにか確かなものが揺れている気がした。ドアは、開かず、ホームには、誰もいなかった。列車は速度を変えずに進んでいく。遠くから小さな声が聞こえた。
「……ナオ……」
それは風のような、記憶が響くような声だった。だれかを求めるような、悲しい声だった。
「ねえ、あそこで待ってたんじゃない」
ヨアケの声は、すこし震えていた。
「ずっと、待ってたのかもしれない。降りてくるのを、ずっと──」
列車は、止まらなかった。ホームの影が過ぎ去っていく。僕たちは手を握りあった。
もう、戻れない。
あの駅には、もう、誰も降りることはできない。でも、その声は、どこかでまだ、待っているような気がした。
車内は静かで、腰掛けたエンジ色の客席は、列車の揺れと柔らかく軋んだ。ヨアケは僕の隣で目を閉じていた。その呼吸は浅くて、透きとおるほどに、儚かった。
「……ヨアケ」
僕が声をかけると、ヨアケはうっすらと目を開いた。その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。どこか、華奢で頼りない体は、ゆっくりと、気配をまた小さくしたようだった。
「ナオ、たぶん、私。昔、ここに来たことがある気がするの」
「ここって、クレーンフェルト?」
ヨアケは答えず、小さく微笑んだ。
そのとき、車内に静かなアナウンスが流れた。
『次は、クレーンフェルト。終点です。お降りの際は、昨日をお忘れなく』
列車が静かに減速し、世界が息を呑むように、雪の音だけが残されていた。
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