シェンムーの「70億爆死」「古い」は本当か?。本質とゲームの文法から紐解く評価の真相。
シェンムーは、古い、70憶爆死という世間の誤解を覆す。セガの技術投資の真実から、ゲームの文法という独自の視点まで、メディアが語らない「シェンムー横須賀」と「シェンムー2」の本質を徹底解説します。
私の衝動で、色んな記事に入れ込んでしまった、シェンムー横須賀、シェンムー2の話を、追記して纏めようと思います。シェンムー3と今後の事については記載しない。
検索用に不本意ながら下品なタイトルにしている事をご理解ください。
理解が足りていない、再生数目的だけのくだらない動画などで、
シェンムーは「最初から売れてない」のに、没落と言ったり、
シェンムーのシステムは「当時から受け入れられていない」例外的なのに時代遅れと言ったり、
時代背景を無視し「99年のタイトルに古い」と言ったり、
シェンムー横須賀とシェンムー2が、ゲーム史的に何を成し遂げたか?、何が本質なのか理解していない人が、くだらない動画を制作し、その動画内容に疑問持たず、何万人も視聴しているので、
シェンムーは、今でも異常なほど先進的なゲームだという事を説明したい。
早速本題ですが、
よく、シェンムー横須賀はつまらないと言われるが、
私も横須賀が全編面白いとは言わないし、ゲームが面白いとは色々あって、
キャラモデリング、テクスチャ、モーション、当時のセガの状況、ドリームキャストの境遇、話題性、先進性、志、完結しなかった所、フォークリフトもネタとしての面白さ、時代背景、ビデオゲーム史的に、シェンムーほど話題が豊富で、高揚感があり、特殊で、特別なビデオゲームは存在しない。
94年頃、バーチャファイター2発表前に、BEEP!メガドライブ紙上で、鈴木裕さんの中国取材日記が掲載されていて、

この記事を毎月楽しみ読んでいて、からの流れで、バーチャファイター2の画像が初公開された時の衝撃は深く記憶に刻まれている。
鈴木裕さんの、この中国旅行体験を、少しでもビデオゲームに盛り込もうしたのがシェンムーのベースになったのだと思う。
シェンムーは、この記事の体験がゲームに成るのかと興奮した。
ドリームキャストを、現在の液晶テレビにビデオケーブルで出力すると、超低画質になるので、それをシェンムーだと勘違いしないで頂きたい。
プレイステーション3を、コンポーネント出力や、ビデオケーブルで出力すれば、「HDMIケーブルを使ってから感想を言え」と苦情が飛んでくるだろう。それと同じ事なのだが、RGBケーブル、VGAケーブルなど、なぜかHDMI以前の出力方式はマニアックだと迫害される。

キャプチャーできないので、不本意だが、画像はPS4版になります。
シェンムーの70億円は爆死ではなく「未来への健全な技術投資」だった。
シェンムーは、セガがバーチャファイターなどで莫大に稼いだお金を、次のゲームを作るのに使ったに過ぎない。
ライト層は、複合的な理解と認識ができない。
政治は右か?左か?。習い事はピアノか?水泳か?みたいな、これは死にゲー、これは格ゲー、これはオープンワールドみたないな単一的で、
「シェンムーは70億円爆死」「シェンムー古い」一度刷り込まれたら、それだけの、浅い思考しか出来ない。
ドリームキャスト時代にセガが潰れかけたのはシェンムーのせいでは無く、経営者はゲーム機のプラットフォームビジネスに憧れて、80年代から業務用で稼いでいたお金を家庭用に突っ込んでいた。
業務用部隊は、ゲームセンター経営、ダービーオーナーズクラブ、セガラリー2、クレイジータクシー、オラトリオタングラム、タイピングオブザデッド、UFOキャッチャー、メダルゲームなどで稼いでいた。 そこにAM2の、バーチャストライカー2などもあった。
バーチャファイター4が大ヒットし、シェンムー横須賀も100万本売れている。鈴木裕はシェンムー時代赤字を出していない。その後です。シェンムーオンラインが完成しない。サイファイの注文が来なくて発売されなかったりしたのは。それを混同するべきではない。
なぜか、シェンムーが売れなかった事ばかり悪くばかり言われるが、
儲けたお金を何処に使うか?
ゲームからゲームへが理想。
シェンムーは理想的であり、純粋な投資だった。現に、セガは、様式、技術を引き継いで、龍が如くやジャッジアイズになった。
シェンムーのこの点を、なぜ、メディア、配信者は評価しないのか?
酷いのは、ドラクエ、ポケモン。あれほど稼いで、古いまま。業界の発展に全く貢献していない。ドラクエはファイナルファンタジーの赤字を埋めるだけの構造。

勝ち逃げしたスマホゲーの製作者や、CEOに給料30億円など、私腹を肥やすなら、シェンムーの制作費など、健全だったと評価するべきでは?
現在良くある、数十億円掛けて、テンプレゲームを制作し、大赤字のタイトルと、シェンムーを同じ扱いにするのは間違っている。
70億円は、ドリームキャストの広告費と混同していて、実態と離れているし、
シェンムーは、技術投資、「プレヤーと社員に還元した」にすぎない。
シェンムーは、セガが未来に投資した、文化的黒字作品。

なぜシェンムーは、現代のゲームより新しいのか?。
ゲームの新しさとは、発売年では決まるのではなく、「そのゲームがどの時代の文法を使っているか」で決まる。






スト2より、バーチャ2の方が新しい文法を使っている。
つまり、スト6は、スト2の文法を使っている訳なので、バーチャ2より古いゲームだという事。(奥に移動できない、後発で3D化したなど)
「革新」と「最適化」の違い。
革新したスト2は新しいゲームだが、スト6は古いゲーム。

この事を理解して欲しい。
ビデオゲームは、ポケモン世代以降、急激な保守化が起きた。
表面的な、外観についても、

GBAポケモンの文法は80年代のまま。
見た目も、絶対ポケモンの方が古い。
シェンムー横須賀の文法は、現在の新作ゲームでも追いついていない所がある。
しかし、古いと言われるのはシェンムーだけ。
以下の写真を比べて欲しいが、そっくりでしょう?





ファイナルファンタジー7のウォルマートは、引き出しを開ける余白も、NPC全員の生活ルーティンも「削ぎ落とされている」ので、文法的にはシェンムーより古い。
見た目だけでなく、龍が如く7外伝、ジャッジアイズなどは、ゲームプレイも同じです。
それなのに、シェンムーだけ古いと言われる、逆転現象が起きている。
アウトラン、ドラクエ、ポケモン世代には理解できないほど、シェンムーは新しかった。
本来は、シェンムーの、
新しい文法を理解できた人 は、「先進的」
理解できなかった人は、「保守的」
それが現在は、なぜか逆で、
理解できなかった人が、「シェンムーは古い」
理解できた人の事を 、「懐古主義扱い」
これは、論理的にも、歴史的にも完全に間違っている。
シェンムーを理解できなかった、ポケモン世代は、
80年代文法のRPGを今でも遊んでいる。
新しい文法を理解できない、変化を求めない。
F355チャレンジのリアル挙動を拒否。
シェンムーの生活シミュレーションを拒否。
ビデオゲーム史を語る人をノスタルジーだと非難する。
後になって、シェンムーは「古いだの」「ファンに懐古主義だの」言うのは、評価軸のすり替えであり、どう考えてもおかしい。
サイバーパンク2077と比べて、シェンムー横須賀を新しいと言っている訳ではない。
使っているシステム、様式の話。
メディアは、新規IPに、ソウルライク、ソウルライク言っているのだから、なぜ一言「シェンムー化したよね」と、言えないのか?
勿論、現在の基準において、古い部分もある。全てを肯定する気は無いが、それだけで語るようなビデオゲームではない。
シェンムーの醍醐味は「AV表現の狂気」にある。
多くの人がビデオゲームを、キャラクター、RPG、アクションアドベンチャー、システムなどの評価軸だけで語るが、そこでは無く、
シェンムー横須賀、シェンムー2「全編、同じ品質で展開される異常さ」。
シェンムーを「操作性が悪い」や「テンポが遅い」といった、既存の物差しだけで話をするのは、
映画で言えば、 黒澤明や高畑勲を 「古いだの」「画質が悪いだの」「ストーリーがどうだの」 「音声の録音が悪いだの」 と語っているようなもので、完全にズレている。


当時、メタルギアソリッド2など場面でかなりモーションの品質に差があった。


シェンムーに限らず、配信者、ライターの話を聞いていると、彼らは一切、音の話をしない。
ビデオゲームの面白さは効果音が決める。
シェンムー横須賀発売前のと比べて、シェンムー2は著しく高クオリティ化している。



ビデオゲームはインタラクティブなゲームプレイだけが本質ではなく、見るだけの楽しさがあり、
ビデオゲームはハードが新しく成るので、通常は過去作品はチープに見えるようになるが、
シェンムーの、音、モーション、テクスチャには、恒久の価値、
メタルスラッグのような「時代で古く成らない」凄さがあり、メインキャラのモデリング、背景のテクスチャ、イベントシーンのモーションは何度見ても素晴らしいので、繰り返しプレイしても見飽きない。




このクラスのビデオゲームは「好き嫌いで論じる物ではない」。
配信者達や、IGNなどのメディアは何をやっているのか?

最近のビデオゲームは、一見グラフィックは立派なのですが、ホワイト労働で、皆でエンジンにぶら下がり、仕様書に合わせて、各パーツを制作したのだろうという事が、(全部ではないが)私みたいな素人でも、分かってしまい、画面から熱意が伝わってこないので、全然面白みを感じない。
「狂気の沙汰ほど面白い」。
シェンムーの本質は、クレイジーで異常なゲーム。
シェンムー2みたいなビデオゲームを遊んだら、一般的なビデオゲームを面白いとは思えなくなる。
シェンムーは、フルスケールの3D空間を先駆けた。
シェンムーは、エリア制なのに、オープンワールドの元祖と言っている段階で程度が低すぎる。
なぜ誰も、「フルスケールの3D空間を先駆け」、「3Dに時間軸を導入し、ゲームを独立した世界にした」と言う文脈で語る人がいないのか。
99年当時、オープンワールドという、言葉が無かったので、後から説明しようとすると、既存のジャンル名に無理やり当てはめるしかないが、シェンムーのように「ジャンルを跨いでいる」ゲームを説明する言葉がない。
結果、雑にオープンワールドの元祖、言われているのではないか?
私はAAAタイトルの元祖と言っておけば良いと思いますが。
シェンムー以前のビデオゲームは、空間が歪んでいた。




シェンムーのフルスケールについては、なぜか話題に上がらない。

戦わずにステージを下りて、後ろで揺れる木のモデリングとテクスチャがどうなっているのかを、確認したかった。


F355チャレンジで、走らずに、車から降りて、ビルの中に入り、屋上に行く、ゲームが遊びたかった。
それだけでゲームに成ると考えていた。
シェンムーは、それが出来るゲームがついに出る!と喜んだ。

シェンムーの話題で、ほどんど語られない時間軸について。「待つ=古い」ではない。
鈴木裕監督のインタビューで、

プレヤーがゲームをコントロールするのではなく、プレヤーがゲームに合わせる。
任天堂が出すとメディアは必ず文脈を作る。任天堂がシェンムーを出していれば、今頃「時間軸の追加=ゲームデザインの革新」とされていたず。

セガが出すと、配信者に「待つ=退屈」「待つ=古い」「毎日寝る=面倒」と浅く解釈されるが、
もし、任天堂が同じ事をやっていれば、「新しい遊び」とされていたはず。
セガのゲームは尖っていない!
同じ物でも、
任天堂なら、「革新的」
セガは、「尖っている」
セガが尖っているなどと言う話は、ステレオタイプでしかない。
どうぶつの森でも時間を進めないポリシーで遊んでいる人がいるではないか?
ゼルダの伝説 風のタクト

話がそれましたが、
なぜかシェンムーだけ、不当に、古い、古いと言われているが、シェンムーは今でも異常なほど先進的なタイトル。
本来、時間軸があるから、天候も変わるし、日も沈み、人も移動する。


町の息吹、生活感を出すには時間軸が必要不可欠な要素。(本当は時間は存在しないと言う話は置いておいて)
シェンムー横須賀は、時間軸とNPCの生活が「世界の自律性」として機能している。(シェンムー2ではそこまでやっていない)
単なる演出ではなく、時間が世界を動かす。
現代のビデオゲームでもここまで徹底している物はほぼ無い。
時間依存型のイベント構造 を導入した。


実際に待つ時間が、「攻略」から「ゲームプレイ」に変えた。
シェンムーの、ゲーム優位の世界は、今でもほとんど採用されていないし、語られる事も無い。


任天堂なら、配信者の「人は寝る事から逃れられない」「朝起こしてもらえる意味」を語る動画で溢れてるいるはずだ。
セガとYSNETは、トレーラー動画などで、シェンムーは「3Dに時間軸を導入し、ゲームを独立した世界にした」と言う文脈を、自らアピールするべき。
ゲーム的な評価としては、待つ事よりも、「待つ間に楽しいゲームプレイが無い所」の方が問題だった。
スペースハリアーか、一人で打ち込みするしかなく、日を跨いで待つ場合、わざわざ家まで帰って寝る必要があるなど、ゲーム的に上手く処理できていない所は当然ある。
シェンムー2桂林は、RPG、アクション、アドベンチャー、オープンワールドなどに属さない、ゲームプレイだった。

一般的なゲームは、「移動」=「目的地へ行くための手段」だが、シェンムー2の桂林は、「歩く事自体がゲーム性」 になっている。
イベントではなく、歩行と景観が、物語を作る設計。
歩くだけを、ゲームとして成立させた最初の例。(多分)
香港の喧騒、九龍の混沌からの、桂林の極端な静的な演出。
シェンムー2の桂林(ディスク4)こそ、映画、漫画などではありえないビデオゲーム史に残る素晴らしいゲームプレイと演出。





出力だとそれは美しい場面。物凄い処理落ちするが。


テクスチャの異常さ。モーションの丁寧さ。ビデオゲーム史的な意義。志。
桂林は狂気。こんなビデオゲームは見た事が無い!
YouTubeのコメント欄で、「桂林は手抜き」と言うのを見て、驚いた。私は、「監督はスタッフを本気で過労死させる気か」と思ったのに、それが、ライト層には手抜きに見えるにかと。
私などは、全域ズームしてテクスチャをまじまじ何度も見ましたよ。
残念ながら、ビデオケーブルでは画像がボケボケになり、凄さが半分ぐらいしか理解できない。ドリームキャストは、現在のHDMI出力同様、VGAボックスが必須。それを体験していない人が多いのが残念。

なぜデスストは許され、シェンムーは許されなかったのか?
デスストにマニアックと言わず、シェンムー2マニアックと言うのは、配信者の忖度と、小島秀夫バイアスでしかない。
バイアスがあると、メディア文脈を作る。

デスストランディングは歩くだけで何が面白いの?と思った人が大勢るはずだが、配信者達は前向きな話しかせず、「歩く意味」をこぞって説明した。当時シェンムーには、歩く意味を説明するメディアがまだ無かった。
同じ「歩くゲーム」でも
デスストなら、「深い」「芸術」「革新的」
シェンムー は、「歩くだけ」「地味」「何が面白い?」
これだけ解釈が違った。
私などは、予算が無いので、イベント、バトルなどは作れない。それなら、よく「お使いゲーム」だと揶揄されので、逆に「本当にお使いゲームを制作してやろう」と考えたのではないか?と解釈したが。
90年代から既に一本道RPGなどと否定的に言われていたが、シェンムー2ディスク4は、本当の意味で「一本道」のゲームプレイ。

25年前に、すでに一本道のゲームプレイを確立していた。
つまり、シェンムー2は、ゲームに新しい認識を持ち込んでいたという事。
たしかにシェンムーは「歩くきづらい」が、歩く事に意味が有る。
メディアには、シェンムーの、前例がなかった素晴らし歩きモーション、地面を捉える、カッチとした接地感、階段を一段づつ降りるなどの、革新を説明をして欲しい。


ブレワイの馬もリアルにしたせいでかなり歩きにくい。シェンムーと何が違うのか?メディア何も説明しない。


あと、シェンムーは、確かにリアルしたせいで歩きにくいが、皆さん「操作が下手すぎる」
ブレスオブザワイルドの馬に疑問を呈したら、任天堂ファンから、「下手なだけ」「リアルさを理解していない」と、苦情が飛んでくるだろう。

配信者の皆さんもう少し、操作を上手く成って頂きたい。
ブレスオブザワイルドより、本質的に歩く操作のスピードを要求されない分、慣れれば、シェンムーの方が簡単。
付いていくゲームプレイの走り。

シェンムーは、足音が良いから歩いていて面白い。

どうぶつの森が面白い理由も同じ。

時間連動、ストーリー無し、目的無し、行動に意味が一切無し。本来スーパーマニアックゲーム。
私も、走ってはいけないゲームだと、シェンムー横須賀を最初に遊んだ時に気がついた訳ではない。
何度か遊んで、シェンムーは早く父の仇を打ちたいのに、先を急いではいけないゲームだと事に気がつき、シェンムー2の時は事前に「一切走らずに遊ぶ」と決めていた。
旅する事は、歩く事。
移動のしにくさはシェンムーを構成する要素の一部に過ぎない。
メディアが語らない、シェンムー、ビデオゲームの「余白」について。
なぜ、広大なフィールドが必要かというと、そこに世界が有るという感覚には、「余白」が大事だからです。
本来、広大なフィールドの意味は、「どこまでの世界が続いている気がする」という感覚であり、余白が無いと世界が存在している感が生まれない。
しかし、マップの四隅に、アイテム、祠などを置いてしまうと、ゲーム的な意味が出来、そこまで行ってしまい、広い意味が無くなる。(これは中々分かってもらえない)
シェンムーは何をやったか?と言うと「余白」を作った所にある。


九龍城の部屋全て入れる事に意味が有るのではなく、世界が存在している感覚を演出する為、余白として機能している。
メディアが最も理解していない部分。
それを理解の浅い、ライター、配信者は、「行き止まりにはアイテムが無いとダメ」「効率動画が作れない」など浅い話をしている。


当時、シェンムー2ですら、不満ばかり言っていたのに、その後、コードベロニカを遊んだら、余白が無さ過ぎて、非常につまらない。シェンムー2は贅沢言っていたのだなと思った。
なぜあらゆる部分でこれだけぶっちぎっていたシェンムー2より、メタルギアソリッド2、ファイナルファンタジー10、バイオハザードの方が評価が高いのか理解できなかった。

任天堂のブレスオブザワイルドなら、

ブレワイ、カカリコ村の二階にインパの寝床があるが、本来ゲーム的には必要ない。が、世界を感じさせる為には必要。
ブレワイは、広大フィールドを、結局、ハート増やし、ポーチ拡張、素材集めにしか使っていない。

シェンムーは、ゲームプレイの、絵柄を統一した。
ファイナルファンタジー7を見て欲しい。


現在でも平気で、これだけ絵の違う演出をしているゲームが多い。
なぜか多くの人が、違和感、疑問に思わず受け入れている。

イベント、ムービー場面でも、持たせられる品質のキャラモデルを用意した。
シェンムーは、映画的なカメラ演出と、ゲームの融合を実現している。
例えば、

1、選ぶだけのフィールドマップ
2、エリア制、カメラ固定の、街中
3、コマンドバトルのシステム以外は変わらない、打撃音がカスカスで、全然面高揚感が進歩しないバトル
4、いちいち差し込まれる、ムービーアニメ
5、アニメ、イラスト、3Dモデルで、絵柄が変わりすぎる
6、ローポリ
など、高解像度化とUIのデザインがスタイリッシュなだけで、未だにシェンムー横須賀より古い様式で制作されているのに、なぜかメタファーは古いと言われない。



シェンムーは、ゲームプレイと映画的な演出が完全に連続している。
シェンムー横須賀の、ロールプレイが素晴らしい。
不住をゲームプレイに落とし込む。







ホークリフトばかりネタにされるが、この、流れが素晴らしい。見事なロールプレイ。こんなビデオゲームは存在しなかった。(現在でもない)

レッドデットリデンプション2は、「もっさりしている」と批判されたが、「手間」が、キャラクターの体験を、プレイヤー体験にする為の演出に成っている。
効率や、操作性を犠牲にしても、リアルティを重視し、不住、不便を体験させる、ロックスターの判断は、シェンムーに近い。
IGNJapanの動画、以下のテーマで、
ライターの話を聞けば聞くほど、それは、シェンムーの事でしょう?と思う。
シェンムーは25年前にやりきってしまっている。
シェンムーは、ロケーションによりゲームジャンルその物が変わる。
ドラクエなど一般的なタイトルは、最初から最後までゲームジャンルが同じ。(多少間に馬レースがあっても)
これはミニゲームをたくさん入れている、龍が如くでも同じ構造で、「ジャンルの枠の中」のゲームプレイになっているが、
シェンムーは、訪れる場所が変わると「ゲームジャンルまで変わって」しまう。
自宅「アドベンチャー」
倉庫街「アルバイト体験ゲーム」
香港「ギャルゲー」
九龍「アクションアドベンチャー」
桂林「ウォーキングシム」
など、
シェンムーの場合、基本となるゲームシステムを持ち合わせていない。これが本当に特殊な部分。
こんな異常な事は、一般的なゲームでは絶対にやらない。
コストが跳ね上がる。
開発期間が伸びる。
プレイヤーが混乱する。
営業がなんのジャンルとして売れば良いの分からない。
一般的なゲームは「核に成るシステムを中心に」制作するが、シェンムーは「ゲームジャンル」ではなく「体験」を作ろうとした。
意外と、この点に多くのファンが気がついてない。
気がついていないから、シェンムー3で、二人別れて別の道に旅立った所に意味が有るのに、「原崎を出して欲しい」、「またフォークリフトを入れて欲しい」などと言っているのでしょう
話がそれたが、
シェンムーの本質は、「ジャンルが流動する事」と「世界が自律している」所だが、これを説明するジャンル名がない。
YouTubeなどで、初見の人が、「シェンムーはどんなジャンルのゲームですか?」と質問する事がある。
ファミコン世代は、毎年のように新ジャンル、革新が生まれていたので、ジャンルという枠でビデオゲームを考えていないが、
現代人はゲームを、ジャンルという枠が存在する、常識で考えている。
シェンムーは「ジャンルを作った側」であって、「ジャンルに属する側ではない」
それに、シェンムーを「生活シム」と誤解している人が多い。そうではなく「ジャンルが流動する」ゲーム。
質問自体が、シェンムーを理解されていない証拠。
シェンムーらしさとは、「シェンムーらしいゲーム性が存在していない」所だと思います。
シェンムーはバトルで稼ぐというシステムではないので、旅費を稼ぐ方法でも、ゲームジャンルが変わってしまう。そこがシェンムーの珍しい所で、お金が欲しい時に「バトルで稼げない」。
ロケーションに合わせたゲーム性を、「後から作る」のがシェンムーが特殊な所。
それでゲームジャンルがコロコロ変わる。
シリーズファンは、同じ事がやり続けたいので、シェンムーは元々ファンが付きようがないゲームデザインを持ったタイトル。
最近、ファイナルファンタジー7リバースが同じ構造で、ミニゲームが多いと批判を浴びていますが、未だにシェンムー型のゲームプレイが理解されていないという事。

これは、「ミニゲーム=メインシステム以外の遊び」という前提の話で、「メインシステムは固定されているべき」という、ゲーム観。
シェンムー横須賀の、「ホークリフトはミニゲームではない」。
シェンムーの場合は、ホークリフトのパートを作る必然性がある。(5日はやりすぎだったが)
あれは、ストーリー進行上旅費を稼ぐためにやっていて、つまりロープレのバトルと同じであり、昨今のミニゲーム問題とは違う話であり、
毎日やらされる、フォークリフトレース、ダーツ、お年玉などとは、ちゃんと分けて考える必要がある。

新しすぎた不住なゲーム性への、理解不足。
シェンムー2の、本の虫干しも、ミニゲームではなく、





ただゲーム的にもっと面白く作る必要がある。が、種類が多いと全部面白く作る事は難しい。
違うゲームプレイ続ける必要があると、制作時間が掛かり、
悪く言えば、「シェンムーには核に成るゲームプレイがない」。中途半端なゲームプレイが続くタイトルだとも言える。
シェンムーは、「固定カメラ」から、「フリーカメラ」になった。
シェンムー横須賀は、アローインザダーク、夢見館の物語、ゼルダの伝説など、カメラが固定されていた物を、
どうモデリングされているのか?、テクスチャがどう描かれているのか?、全てズームして観察できる。

背景はただの移動経路ではなく、「観察対象」に。



龍が如くが、空を見上げて歩けるようになったのは、龍が如く6から。

初代龍が如くはシェンムーとは全く似ていないゲームだったのに、シェンムーみたいと言われていたのは、いかに大衆の理解が足りていないかの良い例だった。
アジア的建築、歪んでいる面白さ、シェンムー自体が九龍城。
シェンムー以前のゲームは、シナリオ、企画に合わせてマップを制作していたが、
シェンムーは町を先につくり、後からロケーションに合わせた、イベント、ゲームプレイを考えるという制作手法が、斬新だった。
シェンムー以前は、「引き算で制作するゲーム」だったが、シェンムーは「増築のゲーム」。
シェンムーは、足しても、足しても、「まだ足りない」と思う、これが独特な所で、ドラクエ11なら何も思わないのに、
シェンムー2のイベント満載の物量ですら、想像力が掻き立てられ、あれが足りない、これがやりたいと不満が残る。
「不満が残るからゲームの評価が低くなる」
増築型のゲームは「完成しない構造」。 足すほど、さらに足す必要が出る。
最初から、完成しない宿命を持っていたのがシェンムー。

横須賀の不満は、イベントが少ない所。



99年頃は、ガチャガチャに勤しむ涼さんに、「この人年いくつ?」と言われていたのに、その後、リアル街中がガチャガチャだらけになった。

倉庫街に行く前、






この部分には、フリー感があり、良いゲームプレイ。
シェンムーは、最初から「八方塞がりな」、制作が異常に難しかった理由。
自宅では、


他人の家では出来ない。
フィールドに敵を配置する事も出来ない。
バトルで稼げない。
宝箱も置けない。
お金が有れば直ぐ香港に行けてしまうので、金欠状態を作る必要がある。つまり稼ぐイベントも導入出来ない。
八方塞がり、一般的なゲームシステムは一切使えない。
それでも、ロケーションを中心に据えて、気合と根性で成立させた、異常なゲーム。
バトルが無いから古いのではない。バトル無しでここまで成り立たせている所が先進的。
シェンムーには、遠くまで来たな、みたいな「旅している感」がある。
シェンムー横須賀の日常があったから、


遠くまでやって来たなという感覚に成る。
旅立って分かる、横須賀の意味。
横須賀しかプレイしていない人は、横須賀の意味を理解せずに終わってしまっているのが残念でならない。
龍が如くは同じ場所だし、レッドデットリデンプション2みたいなオープンワールドだと、直ぐに走って帰ってきて、旅している感が無い。
映画、ゲームに限らず、面白さは、ストーリーだけではない。

シェンムーは、新たなロケーションに訪れた時に、高揚感がある。




やっと来たぜ!、九龍城みたいな、この感覚は最新のAAAタイトルでも存在しない。
湾仔
九龍
桂林
これから尋ねる予定の、
福建泥牢
懸空寺
など、ロケーション、それだけでインパクトが有る訳です。
シェンムーというゲームは、ストーリーだけを目的にして楽しむゲームだと思っていません。
「現実の旅にストーリーなど無いでしょう?」。本来ストーリーなど必要ない。無しで済むならそれが理想。
シェンムーには、人を尋ねる感覚がある。
シェンムーは、人を尋ねるという行為そのものがゲームプレイになっている。



シェンムー3で、「人に聞いて、また人の所に行くだけのゲーム」だと批判されたが、
それなら、現代の目的地が示されたAAAタイトルは、「目的地マーカーを見て進むだけのゲームではないのか?」
誰かが誰かを知っていて、その関係性の中で物語が進む。(クエストはお使いだが)
現代AAAのNPCは、迷わせない、詰まらせない、すぐ目的に到達させるという、ストーリー進行の為の、記号化でしかないが、
人を尋ねるという行為は、お使いではなく、シェンムーの、訪れる、尋ねるなどの感覚は、他のゲームには存在しない。
シェンムーは、ライティングが良い。独特な光り方。




横須賀のしっとりして地味な色合いから、シェンムー2で派手な色合いが変わっている。シェンムー2の方が好み。
ビデオゲーム史上一番、独特な、濃い色合いで良い光り方をしていたのが、業務用のバーチャファイター4。

シェンムーのモーションは、古いのではなく「異常に素晴らしい」
現代のモーションキャプチャーはデータ量が増えすぎたのか、「キャラクター」ではなく、「人でしょ?」みたいな動き。
シェンムーは、現代の「モーションキャプチャー感丸出し」の動きとは全く違う。


PS2世代の、メタルギアソリッド2、ファイナルファンタジー10と比べて欲しい。別次元のモーション品質。
シェンムーだけ、現代基準で評価される。シェンムー2より後から発売されたメタルギアソリッド2の動きが悪いと言えば、「PS2ですよ?」と言われるのはず。
メタルギアソリッド2は、「当時は良い方」だが、現在は「PS2時代の動き」
シェンムーは、「当時、圧倒的に別次元の動き」 だったので、
そのせいで、現代基準で比較されてしまうのではないか?
シェンムーは、キャラクターの動きを表現しているので、古く成らない。
それが理解されず、現代の基準で評価され古いと言われるのは残念でならない。
シェンムーは、QTEのゲームプレイを確立した。
「QTEは良くないゲームプレイ」という論調が多いが、それは間違い。
例えば、スト5がつまらないだけなのに、「格ゲーとジャンルで一括りにして語る事」が間違っているように、
QTEにも、出来が良い物と、悪い物が存在する。
QTE必要ないのでは?と思うゲームは、単に出来が悪いだけ。
QTEは見ているだけだった、ムービーへの介入という意味なので、
それを、アクションゲームに、QTEを入れ込むのが悪いのであり、シェンムー型のタイトルならQTEは悪くない。





モーション、テンポ、効果音、勢いなど、圧倒的に良く出来ている、シェンムー横須賀、シェンムー2の、QTEは楽しい。
尋常ではない、メインキャラのモデリング。シェンムーは、現代において美化されていない!
当時、並みのゲームはこのぐらいのグラフィックだった。

シェンムーの、メインキャラのキャラモデルは、グラフィックではなく、造形、作りこみ、が凄い。
当時、目はテクスチャを貼ってあるだけで、立体だったのは、バーチャファイター3だけだった。
モーションの話と同じで、現在の、ぱっと見のグラフィックが凄いではない。シェンムーは執念を感じる。
シェンムーのメインキャラは、見飽きない凄さ。





これ、ドリームキャストやで?
凄いのは、PS4版のアップスケーリングではなく「ドリームキャスト実機で」ほぼこの画質と変わらない物が出力されている所。
アナログ入力の付いた液晶モニターに、ドリームキャスト実機、VGA出力、640×480解像度、ドットバイドットで表示すれば、面積は小さいが、PS4版と画質は同じ。
最悪なのは、ドリームキャスト実機でも、現在の液晶テレビにビデオケーブルで出力する事。これでシェンムーは古い。昔のゲーム、ドリームキャストは画質が悪いと勘違いされるのが、残念でならない。

ドリームキャストは、ハードが優秀だった。圧倒的な音の良さ、映像出力の優秀さ、発色の奇麗さ、VGA出力。それがシェンムーの醍醐味を生んだ。
アメリカ人が、ウインドウズが一番出来の悪い輸出品などと言っていたのと同じで、PS2は、発色が悪い、テクスチャがボケボケ、AV出力が全然ダメ、音がショボイ、ゲーム機史上一番出来が悪いのに、なぜか一番売れたゲーム機、それが大衆心理。(PS4以降は良いゲーム機)
以下の、メタルギアソリッド2、ファイナルファンタジー10の画像は、アップスケーリング、デジタル出力されたものであり、
PS2版実機、AVマルチ、コンポーネント出力、ブラウン管モニターだと、こんな奇麗には出力されていなかった。


これらは、美化されているが、
シェンムーのグラフィックは、現代でも、美化されていない!
シェンムーは、全ての扉を開ける。
全てのドアを開けて移動する。




ドアを開けるモーションと、ピシッと閉まる扉が良い。
当時の基準だと、バイオハザードコードベロニカは、



シェンムーは、エリアが、繋がっている感を演出している。
シェンムーは、リアルタイム気候変化をいち早く取り入れている。




シェンムーのバトルシステムについて。
シェンムー2のバトルは、
「リモンチョウチュ」ガードされたら、
「ガイモンチョウチュウ」を置いて、
壁に当てて距離を離れないようにして、「喧嘩アッパー」
寝ている相手に「ダウン攻撃」
など、バーチャファイターと同じ、非常に凝った事が出来るのだが、

現在のはバーチャファイターをプレイしていない人が多く、世代の断絶がおきていて、
新規勢が、PS4版をプレイしている動画を見ると、バーチャファイターの素養が無いので、攻防の有利不利の概念を持っておらず、「→→P」コマンドすら出そうとしない、バトルの基本が全く理解できていない事を残念に思う。
IGNJapanのクラベさんも、非常に凝ったバトルをする事が出来る所を全く紹介できていない。
ただ勿論、バトルだけ切り取れば、シェンムーは操作性も悪く、バーチャファイター4の方が遥かに快適で優秀ですが。
問題点は、技が多いのに、バトルが少ないので、使い道が無い。
ストーリー進行上バトルが多すぎない事自体は良いが、操作の練習しないと技をカッコよく使う事が出来ないのに、バトルが少ないので、ゲーム中に上手く成る事が出来ない問題が有る。
戦闘が多すぎるゲームもダルイが、両立が難しい部分。
シェンムーは、音楽に関しても別次元。だが・・・、
ビデオゲームの常識を超えた、豪華で、物凄い物量が、丁寧に作られてい
る。
現在のビデオゲームみたいな、メロディアスではない、ミニマルミュージック、環境音楽のような要素も取り入れられている。
が、曲その物自体は、並みです。なぜか?
ビデオゲームミュージックの枠を超えた結果、ビデオゲームミュージックという特殊な音楽だったものが、普通の音楽化した。
そうなると、光吉猛修さんには申し訳ないが、比較対象が、坂本龍一になってしまう。
シェンムーは、なぜ受け入れられなかったのか?
シェンムー横須賀発売当時は、ドラゴンクエスト7、ファイナルファンタジー8だったので、本当に別次元だった。

99年頃の日本人は、80~90年台の「記号的」なビデオゲームの遊び方に成れ過ぎていて、
誰よりも早くクリアして、自慢して、売るみたいな、ドラクエ7と同じように遊ぼうとしてシェンムーを理解できない人が多かったと思う。
シェンムー横須賀は、スナッチャー、夢見館の物語などのアドベンチャーゲームを、完全にリアルタイム3D化したゲームプレイで、
自宅と、地下だけでも、







巻物一つ手に入れるだけで、




シェンムーは、記号的ではなく、全てが省かれずに演出されている。
巻物を手に入れる事が、ゲームプレイ本来の目的ではない。行為そのものが目的。(どうぶつの森も同じなのだがなぜか売れる)
それを、テンポが悪い、面倒なゲームだと解釈された。

これは、ゲームプレイではなく、目的の処理でしかない。
シェンムー2とセットで出してれば、評価は変わった可能性もあるが、
シェンムー横須賀の批判は、「大衆にシェンムーを受け入れ土壌がなかった」事が大きな要因ではないか?
シェンムーは、「プレイヤーの素養が無いうち」に、宣伝で煽りまくり、売れすぎて(50万本ぐらい)、インパクトを出し過ぎて、売れないIPだというイメージがついた。そうなるとゲーム内容など関係無くなる。
ソウル系など「じんわり」だった。
ブランドが無いと、「地味、難しすぎる」と言われる物が、
一度、カテゴライズされると、「これはソウル系なので」とゲーム内容が批判から外れる。

もしデモンズソウル発売前に煽りに煽り、プレイヤーの素養が無いうちに、50万本売れば、反感を持たれていたのではないか?。

シェンムーは宣伝しすぎて、「大衆が、受け取る素養が無いうち」に、全力で投げ込んでしまった。
結果、「売れないゲームとして超有名に」成った。
ブレスオブザワイルドは、任天堂のブランド力
エルデンリングは、フロムの積み上げた実績
デスストランディングは、小島秀夫の知名度。
など、ライト層が受け取る準備が出来ていたから、受け入れやすかったのではないか?。
ブレワイは、「世界を作った」「何もしない時間に価値がある」「移動が心地よい」「景色を眺めるだけで楽しい」などと評価されるが、それシェンムーと同じでは?
プレワイのタイトルが、シャイニングフォースなら、尖っている、セガがまた勘違いゲームを作ったと、同じゲーム内容でも絶対人を選ぶと言われていたはず。
ゲーム内容なのか?それともブランドなのか?を、分けて認識している人は少ないと思います。
シェンムーは内容ではなく、時代と文脈に消されたタイトルであり シェンムー2の完成度で、もし任天堂が出していたら、ビデオゲーム史的に間違いなく、伝説の名作として扱われていただろう。(勿論、別に現状でもマスターピースなのだが)
同時期に映画ファイナルファンタジーが興行的に失敗しているのが面白い。私は、凄いCGでよくこんな物を完成させたなと、ファイナルファンタジー7より高く評価している。この見ている所の違いが、セガ好きとライト層に違いなのかと思った記憶がある。結局ライト層は、キャラクター性にしか興味が無いのだろう。

シェンムー横須賀は、最初から、ここまで、生活シム、スローテンポ、歩きにくさ、モッサリした操作、地味なゲームプレイなど、本当にそこを目指して制作したのか?疑問がある。
この点を、シェンムーのアイデンティティのように語られるが、
横須賀が地味に成ったのは、制作のノウハウが無かった、時間が足りなかったなど、結果的に後からそうなっただけではないか?
実際シェンムー2でかなり派手になりテンポアップもしている。
それなら、その部分をシェンムーのアイデンティティだと評価せずに、進歩の過程、技術が未熟だっただけ、と「差し引いて考えるべきではないか?」。

私は昔から、シェンムーはオーソドックスな「元気な冒険活劇を制作するつもりだったのではないか?」と思っている。
道徳的、文学的な物を作ろうとした訳でも無いと思う。後のタイトルが、ヤクザ、マフィア、アサシン、GTA3などで、結果的に、涼さんは道徳的に見えるように成ったのだけで、殴って先に進む所は桐生ちゃんと変わらない。

IGNJapanのクラベさんはよく「シェンムーは万人向けでは無い」「ニッチな物を豪華に制作した」と仰るが、
ニッチ物を制作する気はなく、大ヒットさせるために、たぶん正統派を作ったつもり。
「売れれば何でも万人向け」に成る。モンスターハンター、エヴァンゲリオンが万人向けですか?...
例えば、発売前に、シェンムー2とエルデンリグどちらが大衆性が高いか?と社内で会議したら、絶対シェンムー2。
よく分からないファイナルファンタジー7と違い、シェンムーは、「スターウォーズ、ラピュタ、拳児」を合わせた、王道であり、どう考えてもファイナルファンタジー7より大衆性が高いはず。
結局、本質的なゲーム性ではなく、ポケモンに古いと言えない連中が、売り上げだけで判断している、内容の無い話ばかり。
シェンムーの不人気は「歩きにくい所」と「キャラクター人気が無い」のが理由ではないか?。
あと、日本人はシェンムー横須賀に「ファンタジーを感じられなかった」所も理由の一つではないか?
海外の人は、日本人が制作した「完璧な日本」にファンタジーを感じる事が出来たが、日本人には新鮮味がなかった。
中国に渡ってからはかなり脚色されていた。それなら中国人が制作すれば完璧な中国に成ったのではないか?という思いがある。
現在のメタスコアは減点法で、「革新性」や「文化的価値」を無視している。
現在のメタスコア基準だと、
「ぽこあポケモン 95点」
「シェンムー横須賀 65点」
しかし、ゲーム文化の価値としては反対で、
ぽこあポケモンは、「何も変えていない」
シェンムー横須賀は、「ゲーム史を変えた」
1980~2000年代育ちは、毎年のように革新が起きていたので、テンプレゲームの、90点では興奮しない。
シェンムー横須賀には未完成な所も多いが、現状はこの程度だが「将来はこのぐらい行くだろう」という、ビデオゲームの未来が想像できた。
ライト兄弟みたいな、理想を追う姿勢そのものが面白さ。
ファイナルファンタジー8、メタルギアソリッドなどのシステムには、伸びしろ、将来性を感じなかった。
多くの要素を先駆けてやり切ってしまったので、シェンムーの話になるのはしょうがない。
マリオカートと同じ。シェンムーにだけ「シェンムーの話はもういい」と言うのはおかしい。

チョコボGPが出れば、マリオカートの話になるし、ソニックレーシングクロスワールドの時も、マリオカートの話で終わる。
ベルトスクロールなら、ダブルドラゴンとファイナルファイトの話で終わるし、格ゲーなら、スト2の話になるのしょうがない。
そいう物で、
シェンムー2で、多くの要素を先駆けて、やり切ってしまったので、ビデオゲーム史的にシェンムーを通らずに、話をする事はできず、シェンムーの話なるのは当然。
IGNJapanの、以下の動画では、
フリーライターがマリオカートの話しかしていないが、
しかし、誰も、「マリオ、任天堂の話はもういい」「マリオカートとの比較は辞めろ」とは言わない。
それで当然。
ポケモンの新作に「マイクラ+ぶつ森」で語っているのだから、「シェンムー+何か?」という文脈で語るべき。
それが、なぜシェンムーの話だけ、「もう良い」と言われるのか?
シェンムーの話は、システムの話で、思いで話ではないのに、それすら理解されず、
自分たちは新規IPではない、カービィ、ポケモン、マリオ、ドラクエ、ストリートファイターなど、ノスタルジー全開で遊んでおきながら、ゲーム史の話は、懐古趣味だと罵っている。
プロゲーマー、配信者だって40歳過ぎている。年は変わらない。人の批評に、良い年して力を入れるなと言っておきながら、オジサンが必死にスト6を遊んでいる。
昭和の懐古趣味だと言う若者は、マリオなど遊ぶな。
マリオ、ゼルダは、昭和キャラ。
話がそれたが、
IGNJapanのクラベさんには、まだ遠慮がある。
この要素はシェンムー、この場面はシェンムーみたいに、もっとシェンムーみたいと言って良い。
ソニックレーシングに、「マリオカートですね」。と言うのは悪い事ではない。なら、
ジャッジアイズにも、シェンムーですね。
龍が如く7外伝にも、シェンムーですね。
ファイナルファンタジー7リメイクのウォールマートにも、シェンムーですね。
と、話をするべき。
BAFTA(英国アカデミー賞)のゲーム部門で『シェンムー 一章 横須賀』(以下、シェンムー)が史上最も影響力のある作品に選ばれた。
以下、IGNJapanの動画内で、出演者は、
ドラクエやスーマリなどは、影響力の大きなタイトルだが、
シェンムーは、
「影響力ではなくオンリーワン」
「ジャンルに成っていない」
「フォロワーがいない」
つまり、影響力でランキング一位に成ったのはおかしいという趣旨。
これについては同意しかねる。
出演者が言いたことは、「組織表が入った」「大衆はシェンムーの理解が足りない」という事なのだろうが、
クラベさんが好む、横須賀様式のゲームプレイだけがシェンムーではない。
私は、
「横須賀様式のシェンムーライクなゲームプレイ」
「フルスケール3D空間、気候変化、映画業界との協業」
などを、分けて考えておらず、等しく考えている。
フルスケールの3D空間の新作が出れば、それはシェンムーの影響を受けたタイトルだという事。
シェンムー最大の影響は、「横須賀様式のゲームプレイ」ではなく「3D空間の構築方法」であり、3Dゲームの基礎を作った作品として、1位は妥当。
後続作品が切り捨てた部分は、「古いから切り捨てられた」訳ではなく、「コストに見合わないと判断してマネしないと決めただけ」であり、最先端のまま。
それを、削られた部分だけを見て、「今のゲームに無い部分は古い」と言うのは間違っている。
先進性が「同時に複数」存在する異常さ。
シェンムーは多くの様式を一度に確立してしまった。
フルスケールの3D空間
とんでもない物量でフルボイス(2DのタイトルならPCエンジンの時代からあった)
時間軸の導入(結局これがあるから町の生活感が生まれている)
気候変化
ムービーに介入する為の、QTEの確立
自動生成技術
余白の意味を持たせたマップ
NPC全てに話しかけられる
毎日帰って寝る
移動時、全てのドアを開ける
全てのドアノブに触れれる
リップシンク
ムービー、カットシーン、ゲームプレイなどの、キャラモデル、絵柄を統一する
本質的なモーションキャプチャーの導入
映画業界との協業
全場面モーションの品質が同じ
オマケではない、ゲーム内ゲーセンを制作した
地面を捉えるカッチとした歩き方、階段を一段づつ上り下りする
3Dアクションアドベンチャーの確立
横須賀の生活感、NPCの生活ルーティーン
NPCが傘をさす
猫を探す
見上げて歩けるカメラ操作
歩くだけのゲームプレイ
元祖AAAタイトルの誕生
ロケーションにより、ジャンルその物が変わるゲームプレイ
実在の町をモデルにした
不住をゲームプレに盛り込む
それを理解したうえで、龍が如く6は、シェンムーの何処を「削除して」「改良して」「残して」「割り切ったか」?
1、時間軸を、削除。
2、歩きにくい所を、改良。
3、フルスケール、フルボイス、ゲーム内ゲームなどの様式は残す。
4、割り切った要素は、バトルを増やす。宝箱を置く。
などを、メディアは説明するべき。(私は龍が如くの割り切りを否定していない)
シェンムーみたないタイトルが無いのは、後発のタイトルはやりすぎたシェンムーを反面教師にしたからであり、
うけなかった部分、「取捨選択した、引き継がなかった要素だけ」を見て「シェンムーは古い」と言うのは間違であり、影響力が無い訳けではない。
シェンムーの文法を継承できるゲームが、20年以上存在しなかった。
似たゲームがないので、「古い」「時代遅れ」と言われているが、実際は、シェンムーは「誰も追いつけなかった」ので、孤立し、結果として古いと誤解されている。
実際にやってみないと分からない。
シェンムーがやってみたから、「ウケる要素と、ウケない要素」が分かったのだ。
やる前から分かるだろうという言う人は、自分で何かを制作した事の無い人だ。
シェンムーは他のビデオゲームがやっていない事を、先取所にアイデンティティあった。(休んでいる間に先にやられて、ネタ切れで、シェンムーの続編は後発の立場に成ってしまった)


それに、ドラクエは、影響力ではなく、普及力ではないか?(無論ドラクエが先駆けた事もあるが)
例えば、


例えば、アローインザダークから、バイオハザード、ぼくのなつやすみ、ファイナルファンタジー7などに派生していったのだから、影響力というからには、元祖の方ではないのか?
初出しか?完成度か?売り上げか?などの議論がまずあるが、影響力なら、クローンゲームの元に成ったタイトルを優先するべき。
シェンムーはテーマが複数あり、クラベさんがよく語り、好んでいる横須賀様式のゲームプレイ部分は、シェンムーの要素の「一部」に過ぎない。
龍が如く6や、ファイナルファンタジー7リメイクのウォールマーケットなど、「シェンムーみたい」と思う事が多い所が、シェンムーの影響力の大きさではないか?。
「オープンワールドの元祖」と、一つのテーマで語るの事は、シェンムーの革新を矮小化している。
もっと複合的な呼び方をするべきで、シェンムーは、間違いなくビデオゲーム史上一番影響力が大きいタイトル。
シェンムーを、語る、遊ぶ時は、時代背景を理解して欲しい。
ゼルダの伝説時のオカリナ、ファイナルファンタジー7などを遊んで、古いと言えば、必ず、「当時としてはすごかった」「時代背景を考えよ」と、反論されるが、
シェンムーは、当時のライト層には、理解されない範疇にまで行ったゲームだったので文脈がなく、「当時としてはすごかった」という説明ができない。
シェンムーは、時代ズレし過ぎているせいか、現在のゲームと比較される。
以下の、IGNJapanの動画で、
クラベさんは、今井さんを放置しているが、
現在のプレイヤーは、走る、クエストマーカー、ファストトラベル、車を奪うなど、現代のゲームと同じ遊び方をしようとするので、
シェンムーの両横に、


絵画などで、学芸員に説明を受けながら鑑賞するみたいに、
まず、時代背景を説明し、
クラベ: 今井さん、カメラをゆっくり動かして。走らないで。真下を押すと向きを変えられる。引き出しを開けられるのは余白の意味が有る。時間軸が導入されている意味を説明する。
みたいな、ゲームプレイを推奨し、
ネットに蔓延る、消費するコンテンツとして、「ネタバレ、指図禁止、初見プレイが正義」という考え方には苦言を呈したい。
アーケードゲームは、他の客がクリアしているのを見てから遊ぶ事を前提に設計されていて、初見プレイと言う概念自体が存在しない。それを自力で攻略しようとするから、難易度が高いと勘違いする。
特に横須賀は、探索するゲームプレイが、涼さんの設定と合っていない。
初プレイだと、涼さんは、自宅でも記憶喪失。あれだけ顔が広いのに、町で迷子。一度、マップ、キャラクターを把握しからのプレイの方が、設定にあった自然なプレイになるのだから、
学芸員プレイは、シェンムーにちょうど良いのではないか?
F355チャレンジとシェンムーで、ビデオゲームの素養、「ライト層」と「理解者」がハッキリと別れた。
F355チャレンジとシェンムーを理解できなかった、多くの、アウトラン世代、ドラクエ世代、ポケモン世代の方が、吸収力が無い、保守層。

ライト層は、
F355チャレンジに、「リアル挙動?」「難しすぎる」、アウトランの方が楽しい。
シェンムーに、「歩くだけ?」「何をすればいいの?」「待つの嫌」、ドラクエの方が楽しい。
あれほど、ハイエンド、革新を楽しみ、優先していたはずの、アーケードゲーマーが、圧倒的ぶっちぎり世界一のビデオゲームだったF355チャレンジに対して、そこまでの、音、ゲーム体験は求めないと、完全に保守的な反応を示し、
熱狂的なはずのセガファンすらも、シェンムーとF355チャレンジには冷たい態度を取った。
それでF355チャレンジ以降、音、迫力、勢い、興奮、高揚感など、グラフィック以外の、ビデオゲームの進歩が止まった。
ファミコン世代は、「家庭用ゲーム機は妥協の産物」であり、「本当に遊びたいのはメガドライブではない」という思いがあったので、ハイスペックを求め続けたが、
ポケモン世代は、ゲームボーイのチープさを「本物のゲーム体験」として受け入れた最初の世代。

それがビデオゲームプレヤーの急激な保守化を生んだと思う。

80年代は、子どもが純粋に、「こんなショボイ、ゲームボーイのテトリスが遊びたい訳ではない」「本当に遊びたいのはシステム16版テトリスだ」と思っていた。
それを、後から、説明しているだけなのに、マニアックだと解釈されている。
私はただ、ビデオゲームは、どうやって、新たな表現、限界を突破してきたのか?、という体験を語っているだけだが、彼らには「謎のこだわり」にしか感じないようだ。
F355チャレンジは、オンボード映像の再現ではなく、本物の体験を目指して制作された。
本来シミュレーターとは、「計算」だけではなく、勢い、興奮、迫力、高揚感など、「体験」も合わせて作る必要があるのに、
現在のシムレースは、「計算する事だけをシミュレーションだと勘違いして」、計算精度、物理モデル、タイヤ温度など、だけを追求し、
体験としては、「オンボード映像を見ているのと変わらない物」を制作している。それでは何年経っても高解像度化するだけで、勢い、迫力、興奮、高揚感などは全く進歩が無く、つまらないままだ。
アフターバーナー2、パワードリフトなどでも同じ事だが、鈴木裕は「ビデオゲーム」ではなく、「体験」を制作していた。



そのぐらい、ビデオゲームは体験が大事。
本当に進歩が止まっている理由を、より詳しく説明している、こちら記事も合わせてご覧いただけると嬉しいです。
ノスタルジーの話をしているのではなく、F355チャレンジを27年分進歩せせた音が聞きたい、ビデオゲームが遊びたい、と言っている。
私は、シェンムーより、F355チャレンジに熱狂していたので、
将来、F355チャレンジとシェンムーが合体したビデオゲームが生まれるのだろうと想像した。が、結果27年経っても生まれていない。
理想のアウトラン2は、フェラーリに、涼さんとシェンファを乗せて、桂林のテクスチャで走るようなゲームのはず。

これでは、満足できない。良く出来てはいるが、500回で飽きる。
シェンムーは、鈴木裕監督の振れ幅が極端。
業務用の、3分100円のビジネスモデル、


「超高速スクロール」「瞬間快感」のビデオゲームを制作してきた人であり、
シェンムーのスローテンポな演出は、それまでの反動があったのではないか?と思うが、振れ幅が大きすぎる。
ビデオゲーム業界でここまで極端に振った人はいない。
私は、超気が短い。三分しか戦えない。業務用ゲーム向きの体質で、本来ゆったりしたゲームプレイは向いていないので、シェンムーが好きと言うより、純粋さ、志、革新性、ビデオゲーム史的な意味で、興奮した。
シェンムー最大の問題は、「プロデューサーと監督を兼任した」所にある。
これは、野球なら、GMと監督を兼任するのと同じ。
監督が予算を握れば、必ずお金は際限なく使うし、仕事の負担も大きすぎる。
ジブリも、鈴木プロデューサーが、監督が暴走しないようにある程度管理してバランスを取っているから上手くいったのであり、宮崎監督が好きに作れば人気は出なかったはず(特に女性票)
中々手綱を引けないのが、黒澤明、高畑勲のように、大物監督の宿命ともいえるが、鈴木裕はビデオゲーム業界で唯一このクラスに到達した。
シェンムー3でも同じ間違いを繰り返し、
鈴木裕監督:世界観を際立させる事に全力を注ぐ事にしました。
と言っていたが、「終わらせる事に全力を注ぐべきだ」と言う、プロデューサー、手綱を引く人が必要だった。
しかし、シェンムーは異常だったから、普遍的な作品に成ったと言う側面がある。
それも、シェンムー横須賀とF355チャレンジ。F355チャレンジ2とシェンムー2とバーチャファイター4。2作同時に部長と監督をしていた。
スタッフの疲労だけでなく、どう考えても、人の限界を超えていて、ハードワークすぎる。その後遺症が、鈴木裕監督がその後テンポよくゲームを作れなくなった要因でしょう。
現在の任天堂ファンは、カルト化しているように見える。
ネットのコメント欄を見ていると、任天堂、ドラクエ、FFファンなどは、批判に晒されなかった結果、批評文化が育っていない。
雑談番組で、ライターが「ドラクエ1&2がつまらないからMODを使ってメタル狩りをした」と言っただけで、全肯定しか認めないカルト的なファンが、MOD使用を武器にライターの人格否定攻撃をする状況は異常。
全肯定しか認めないファンボーイが些細な事で、「嫌ならやるな」「文句が有るなら自分で作れ」など、50歳にも成って、子供のような思考停止した書き込みをしている。
これだけメディアが聖人のような報道しかしないと、大谷翔平のファンなどは将来相当危ないと思う。(落合博満のファンは批判報道だけを見て育っているので大人)
シェンムーファンは、任天堂やドラクエファンと違い、長年「批判され続けてきた」事で、ファンは批判を消化する事ができる。
シェンムーファンが批判する所と、シェンムー嫌いが批判する所は、実は多くの部分で同じ。
歩きにくい。
展開が遅い。
出来る事が少ない。
イベントが少ない。
バトルが少なすぎる。(桐生ちゃんほど増やせと言っている訳ではない)
バイトのゲーム性つまらん。
毎日帰って寝るのが面倒。
などだが、シェンムーの魅力は他のゲームには無い、「欠点の外側」にある。
シェンムーファンは「欠点を理解している」ので、批判されても、自己否定にも成らず、作品の評価は変わらない。
IGNJapanのクラベさんのような人が象徴的ですが、シェンムーファンはこの傾向があると思う。
批評は、売り上げを増やすため、下げる為にする訳ではない。「批評その物」が目的。
良い所、悪い所、両方書いてあるから公平でしょ?みたいなレビューが一番くだらない。
スト6、ゼルダ、ワイルズなどもそうですが、現在の、批評、批判などがほとんどない、絶賛ムードは、配信者の普及が大きな理由の一つだと思います。
1、配信者が覇権タイトルを批判することはほとんどない。
2、飯のタネなので、忖度動画ばかりになる。
3、配信者のファンも、批判的なコメントを封じ込める事に一役買う。
4、自分で考える事をせず、配信者が面白いと言っているからと、集団心理、同調圧力。
5、結果、内容に関わらず絶賛ムードができあがる。
「構造の理解、事実分析」と「批判」の区別もつかない、全肯定以外は認めないみたいな、カルト的なファンが幅を利かせ、
メーカーに忖度する、配信者、メディアは委縮して、
批評は、「アンチ」
売れているタイトルの批判は、「逆張り」「売れているのだから間違い」
など、おかしな論理が幅を利かせるようになった。
カルト化しているのは自分達なのに、「シェンムーの事をカルト的なゲーム」と紹介しているのは、納得できない。
映画、音楽などは、内容が語られるが、大人はゲームの、売り上げ、株の話しかしない。
ストリートファイター6を見れば分かるが、ゲームは「娯楽」から「金融商品」へ変わり、ゲーム内容が関係なくなった。
ドラゴンクエスト、モンスターハンターなど、アマゾン、スチームの、超長文レビューを見ていると、
ストーリーがどうだの、ゲーム内経済がどうだの、バトルバランスがどうだの、ドロップ率がどうだの、枝葉の「調整案に終始」しているだけの、細かい欠点の羅列が多い。
その部分を変更した所で、ゲームの本質的で、根本的な面白さは変わらない。
私は、バランス調整、監督が凄いなど、細かい話を一切書いていない。
この記事は、レビューではない。
ファミ通などメディアがレビューだと掲載しているものは、ただの「レポート」。
良くある調整案だけの長文もレビューとは言えない。
キャラ愛、思い出補正、感情論ゼロ、それで2万8千字書けるビデオゲームはシェンムーしかないでしょう。
シェンムーに入ってくるには、「ルート」があった。
1、鈴木裕作品のファン
2、セガのファン
3、セガハードのファン
4、ハイエンドゲームのファン
5、新しいビデオゲームのファン(名前だけではない本当の新機軸)
6、プロモーションなどで、迷い込んだ任天堂ボーイ
私は、6番以外は全てのルートで入ってきたので、スパゲッティのように絡んでいて、一言では語れない。
ビデオゲームに限らず、未完成品は、作品として評価されない。
シェンムーはゲームをプレイする「動機」無い。
ドラクエなら魔王倒してクリアするという動機で遊ぶが、もしレベル上げても魔王を倒せないと分かっていたら、最初からレベル上げなどしない。
シェンムーの問題は、ゲーム性その物よりも、この2点なのでは?。
私は子供の時から、ストーリーに「全く興味がない」。映画、漫画などほとんど見ないし、小説など一度も読んだことが無く、だからストーリーが重要ではない、ビデオゲームを遊んできた。
つまり、シェンムーのストーリーの完結ではなく、ゲームとしての完結を望んでいる。
シェンムーの今後については記載しないと言ったが、どうしても、最終的には続きの話になる。
だから、ローポリ、低予算でも良いので終わらせましょう。
話がまとまらず、とりとめがなく申し訳ありませんが、これの辺で終わりにしたいと思います。
以上、よろしければ、スキと、SNSで広めてもらえたら嬉しいです。
簡素な説明で失礼いたしました。お付き合いありがとうございました。
シェンムー3もありますのよろしければ、合わせてご覧いただけると嬉しいです。
英字版も制作したの、ここまでたどり着いて、英語の出来る方がいれば、海外のコミュニティに紹介してもらえると嬉しいです。
注意!
IGN、YouTube、MK2などネットに、芭月涼、ナイツ、クレーター、せがせがお、など同じ内容の投稿があるかもしれないが、私が書いたものなので断じてコピペではない。一切苦情は受け付けません。
