京都歴史ミステリー「出町ふたばが人気になったワケ」
京都歴史ミステリーシリーズ
謎の白い小石が置いてある家
出町ふたばが人気になったワケ
武田五一のモダン建築
後院通が斜めになっている理由
フランス語と漢文で刻まれた顕彰碑の謎
関西ローカルのABCテレビで毎週火曜日に放映されている『なんでやねん!?』。
京都・出町柳の代表的な和菓子屋「出町ふたば」さんが取り上げられていましたので、昨年12月の京都検定試験の際に撮った写真とともに人気の謎を探求していきたいと思います。
大原口道標

まずは秘密の手がかりとなるこちら、大原口道標になります。
1868年に地元の有志16人によって建てられました。材質は良質の花崗岩で上京区の史蹟百選に選ばれています。寺町今出川は江戸時代に「大原口」と呼ばれる重要な交差点でした。
出町枡形商店街

せっかくなので街ブラした出町枡形商店街の紹介もしたいと思います。

京都アニメーションが制作した『たまこまーけっと』の聖地で『響け!ユーフォニアム3』第10話にも登場しました。

最初この場所が全然わからなくて、大原口道標の交差点を北へ行くべきところを西の京都御苑方面へ通り過ぎてしまいました。
出町枡形商店街は一本筋のアーケード街で河原町通から寺町通までの長さとなっています。

「なんでやねん!?」Tver限定の未公開映像では満寿形屋さんが紹介されていました。ここらへんでは珍しい日曜日も営業している定食屋さんで開店前から行列が出来ていました。

なんで枡形と呼ばれているのか?
一説には商店街の真向かいに鴨川氾濫の勢いを弱める枡の形をした広場があったようです。そのすぐ傍には鯖街道口の石碑があり日本海の魚介類を京都へ運ぶ玄関口として行商人や大原女が行き交っていました。1901年には京都市電出町線の終着駅(出町・青龍町)が広場に建設され休止となる1924年まで多くの乗客を乗せました。
出町ふたばが有名になったワケ

和菓子屋「出町ふたば」はなぜあの場所に出店したのか。
あの辺りは鉄道や車が発達する以前の「交通の要所」で1899年(明治32年)当時も大原女が京都市街で薪や柴を売っていました。京都盆地の冬はスゴく寒いですからね。もちろん電気や石油ストーブがない時代でしたから行商が重宝されていました。
そんな大原女がお得意さんのためにいつも買っていたお土産が出町ふたばの豆大福だったんです。今も友人や知人に持っていく手土産といえば和菓子or洋菓子ですよね。そうしてお得意さんたちの間で評判となり京都を代表する人気和菓子店となりました。
時代祭で中世婦人列に加わる大原女は時代を象徴する職業集団で、京都市営地下鉄烏丸線「国際会館駅」に立派なブロンズ像が飾られています。彼女たちは京都人にとって欠かすことのできない偉大な存在だったんです。
結び
「なんでやねん!?」の京都担当といえばまいまい京都代表の以倉敬之さん。
今回もNDYのお二人に絶妙な間で0点を言い渡していました。新年一発目の放送で出町ふたばの謎を知ることができてとても面白かったです。実はこれまで一度もお店を拝見したことがなくて試験会場へ向かうついでに出町ふたばさんの店頭を見に行きました。噂通りの大行列でビックリしましたよ。2級試験が控えていたのでそのまま通り過ぎることにしました。
次に出町柳周辺の旅をする時はたとえ一時間待ちでも名物を購入したいですね。実は小豆餡はあまり好きではなくてどちらかといえば洋菓子ダイスキ人間です。でも白あんの入った京風メロンパンは美味しかったのでもしかしたらハマってしまうかもしれません。購入したらnoteで食レポしますね。
以上です。ご精読ありがとうございました。
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あとがき
今回紹介した名所
大原口道標の解説

上段
上御霊(上御霊神社):七丁
くらま(鞍馬):二里半
今宮(今宮神社):二十六丁
下段
上が茂(上賀茂神社):三十丁
大徳寺:二十三丁
慶応四辰年四月
(※1丁は約109m、1里は約3.9kmです。)
当時は元号と十二支があわせて表記されていたのですね。ちなみに慶應四年は戊辰戦争が勃発した年(1868年)になります。

上段
下かも(下鴨神社):五丁
吉田(吉田神社):十二丁
真如堂(真正極楽寺):十四丁
下段
比叡山:三里
黒谷(金戒光明寺):十五丁
坂本城:三里
京都の名所が並ぶ中、坂本城の表記があったのが実に意外でした。
伏見桃山時代の1586年に廃城となって以降これといった歴史は残っておりません。しかしこの歴史的な道標には、江戸時代以降も白鳥道と山中道を結ぶ交通の要所として旅人たちが坂本城址を目印にしていたことを示していました。

上段
かう堂(革堂行願寺):九丁
六条:三十五丁
清水(清水寺):二十二丁
下段
六角堂:十九丁
祇園:二十二丁
三条大橋:十七丁
この中で違和感を覚えるのはやはり六条でしょうか。
六条通から鴨川を渡ってさらに東へ進むと古の東国路である渋谷街道となります。大津へ抜ける最短の脇道として平安時代から中世にかけて軍事的に重要な道でした。現在も抜け道として多くの人が利用しています。

上段
内裏:三丁
金閣寺:三十丁
あたご(愛宕神社):三里
下段
北野(北野天満宮):二十五丁
御室(仁和寺):一里十丁
内裏が道しるべの行き先になっているのがなかなか面白いですよね。
江戸時代の洛中人は天皇を恐れ多い存在と思っていなかったのでしょう。慶應四年は東京奠都の年でもあります。翌年の1869年には明治天皇の東京行幸に反対する約千人のデモ隊が石薬師御門に集まりました。彼らはもしかしたらこの道標を目印にして門に向かったのかもしれません。
皆さまは「不」に似た記号が最下端に記されていることに気づきましたでしょうか?
こちらは明治時代に内務省が高低測量をおこなう際に使用する水準点になります。不の字に似た記号はイギリスで採用されたモノを参考にしていて「几号水準点」と呼びます。一の文字に物差し(標尺)を合わせて測量を行ないました。この記号は鳥居などの石造物にも彫刻されています。別の場所でも几号水準点の跡を発見しましたのでまた紹介しますね。
追記

先週もっとも多く読まれた記事の一つとなりました。皆様ありがとうございます。感謝!!


『ご当地グルメ』『日本史がすき』の二部門でスキの週間一位を獲得しました。皆様ありがとうございます。感謝!!
《了》
