★京都纏め★平安京の歴史と神社仏閣をめぐる:京都千年の歩み完全ガイド【平安京シリーズ】
平安京の歴史や成り立ちを纏めながら神社仏閣をリンクさせて纏めたみた。
千年の都・平安京の成り立ちから幕末に至るまでの壮大な歴史を、現存する神社仏閣と結びつけて解説する圧巻のまとめ記事が登場しました。本稿では、七九四年の遷都や東寺・清水寺の創建といった平安初期の出来事から、中世の金閣・銀閣建立、近世の文化隆盛までを年表形式で網羅しています。最大の特徴は、各時代の歴史的イベントに対し、著者が実際に現地を訪れて執筆した詳細な参拝記事が紐づけられている点です。教科書で見た出来事が、現在の京都のどの場所に息づいているのかを体系的に知ることができ、知的な観光ガイドとしても活用できます。京都市平安京創生館の展示情報をベースにした確かな知識と、熱量ある現地レポートが融合しており、京都の歴史を深く味わいたい読者にとって格好の水先案内となるでしょう。
▼平安京の構成







あっ法勝寺かな?
▼平安京の歴史年表と私のNOTE
793年:新京内の宅地が人々にわけ与えられ、都市の建設が始まった
794年
07月:東西の市が長岡京から平安京に移された。
10月:桓武天皇が新京に移り(22日)、遷都の詔が下された(28日)。翌月8日、新京を「平安京」と名付け、「山背国」を「山城国」に改めた。
平安遷都にともない東寺(私のNOTE)と西寺が創建された。
798年:坂上田村麻呂が「清水山寺」こと、のちの「清水寺(私のNOTE)」を創建した。
800年:桓武天皇が神泉苑へ行幸した(神泉苑(私のNOTE)の初見)。
804年:最澄・空海・橘逸勢らが遣唐使に随行する。
805年
8月:最澄帰朝、天台宗を伝える。
12月:造宮職が廃止され、造都事業が終了した。
810年
9月:平城上皇が平城今日遷都を試みるが失敗(薬子の変)。
賀茂斎院が初めて置かれた。
818年
4月:内裏の建物・諸門・条坊などの呼び名が中国風に改められ、銅舵坊・陶化坊などの呼称が用いられた。
書の名人とされた嵯峨天皇・空海・橘逸勢の3人が大内裏(平安官)の諸門の額を書いた。
810~ 24年:防鳴河使・防葛野河使が設置された。
てんちょう
天長元(824)年3月空海が神泉苑(私のNOTE)で祈雨法要を行った。
842年7月:伴健琴・橘逸勢らが叛乱を起こした(承和の変)
856年:法輪寺、のちの泉涌寺(私のNOTE)が創建された。
863年5月:朝廷が神泉苑で御霊会を催し早良親王(崇道天皇)らの霊を祀った。疫病をもたらす怨霊を鎮める都市の祭礼としての御霊会の初見。
869年:神泉苑に66本の鉾を立て、祗園社から神輿を送り疫病退散を祈願した(祗園御霊会の始まり)。
874年6月:聖宝が笠取山に准テイ観音と如意輪観音を安置し草庵を造った(醍醐寺の始まり)
876年2月:淳和太皇太后(正子内親王)が嵯峨院を寺に改め、大覚寺号した
888年8月:光孝天皇の遺志をついで宇多天皇が仁和寺を創建した
894年9月:遣唐使が廃止された。
901年:菅原道真が大宰府に左遷された。延喜3年大宰府で没。
905年4月:最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が完成。これ以降鎌倉時代初めの『新古今和歌集』まで人編の歌集が勅撰和歌集として編集され、人代集と呼ばれた。
924年2月:これ以前に藤原忠平が法性寺を創建した。
935年2月: 平将門・藤原純友の反乱が始まる (承平天慶の乱)
938年:市聖空也が市町で庶民に布教した。
947年6月:天神より託宣を受けた多治比文子が北野天満宮を創建した。
960年9月:初めて内裏が焼失した。里内裏が使われるようになった。
970年6月:はじめて祗園御霊会(祗園祭)が官祭として行われた。
980年7月:大風により羅城門が倒壊し、以後、再建されなかった。
982年10月:慶滋保胤が「池亭記」を著し、右京の衰退と左京北部。鴨川附近・北野の繁栄を記録した。
988年このころから「京都」が地名として用いられた。
1001年5月:疫神を祀るため紫野に今宮神社が創建された。
1001年:このころ、清少納言が『枕草子』を著した。
1008年:紫式部日記にこのころ『源氏物語』が評判になっていたことが記される。
1019年7月:藤原道長が無量寿院(のちの法成寺)の造営を始めた。
1052年3月:藤原頼通が宇治の別荘を寺院とし平等院を創建した。翌年、鳳凰堂が造営された。
1077年12月:白河に法勝寺が創建され高さ81mの八角九重塔が建立された(「六勝寺」の初め)。以後、多くの寺院・院御所が建てられた。
1086年7月:白河上皇が鳥羽殿(鳥羽離宮)を造営、周辺には寺院・院御所が建てられ「あたかも都遷りのごとし」といわれた。
1095年このころ、鴨川を「朱雀川」、東京極大路(現寺町通附近)の二条以北を「東朱雀大路」とする呼称がみえる。
1127年6月:祇園御霊会の行列が美麗を尽くした見物人を驚かせた。また祭礼に猿楽や風流などを伴う盛大な祭礼になった。
1154年4月:紫野今宮社で「夜須礼」と号した疫病除けの舞踊が行われた。
1156年7月:平清盛・源義朝らが崇徳上皇の自河御所を攻撃した(保元の乱)。
1159年12月:源義朝らが後白河上皇の三条烏丸御所を攻撃した(平治の乱)。
1161年:後白河法皇が法住寺殿を作り、その中に蓮華王院三十三間堂が建立された。
1175年:この春、源空(法然)が初めて専修念仏(浄土宗)を唱えた。
1177年4月:樋口富小路(現万寿寺通富小路附近)からの出火が大火災となる(太郎焼亡)。また翌年4月には七条東洞院から出火し、大規模な火災となった。
1177年6月:藤原成親。僧俊寛ら後白河法皇近臣が鹿ヶ谷で平氏討伐の謀議を行い発覚した。
1179年:このころ後白河法皇が『梁塵秘抄』を編んだ。
1180年4月:以仁王らが平氏討伐の兵を起こした。5月には源頼政、8月には源頼朝、9月には源義仲(木曽義仲)があいついで挙兵。
1180年6月:平家一門が福原京(現神戸市)へ遷都をするが、11月に平安京に戻った。
1181年間2月:平清盛が死去した。
1183年7月:平家一門の都落ちにあたり、六波羅と西人条にあった平家の邸宅を焼いた。
1185年3月:壇ノ浦で平氏が滅亡した。
1192年7月:源頼朝が征夷大将軍に任じられ鎌倉に幕府を開いた。
1202年:栄西が建仁寺を創建した。
1206年:明恵が荒廃していた度賀尾寺を華厳宗道場として再興し高山寺と号した。
1212年3月:鴨長明が『方丈記』を完成させた。
1219年:藤原信実が『北野天神縁起絵巻』(国宝)を描いた。
1242年:泉涌寺境内に四条天皇陵が造営された。これ以降泉涌寺は皇室の香華所(菩提寺)として「御寺」とよばれた。
1255年:九条道家の祈願により東福寺が創建された。
1272年:親鸞の娘覚信尼が、10年前に没した親鸞の遺骨を移して,吉水の北辺に仏閣を建てた(本願寺の創始)。
1274年:一遍が入京し、人々に念仏を勧めた(時宗の創始)。
1279年3月:嵯峨清涼寺で融通大念仏が行われた(嵯峨大念仏狂言の始まり)。
1291年:亀山法皇が南禅寺を創建した。
1294年:日蓮の高弟日像が入京。以後,法華宗(日蓮宗)が京都に広まった。
1330年:吉田兼好が『徒然草』を完成させた
1334年8月:二条河原に落書が掲げられ、世相を風刺した。
1337年:関山慧玄が妙心寺を創建した。
1339年10月:足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るため,洛西嵯峨の亀山殿を改めて禅寺とし天龍寺を創建した。
1342年4月:京都・鎌倉を合わせた八か寺を五山、十か寺を十刹とした(五山十刹の制)。以後京都・鎌倉五山は区別される。
1357年 春 このころまでに『菟玖波集』(准勅撰連歌撰集)が編纂された。連歌の社会的地位を確立した撰集で、和歌における『古今和歌集』にも比すべき撰集ともいわれた。
1375年 このころ、観阿弥清次・世阿弥元清父子が今熊野で猿楽を演じ、これを機に将軍足利義満の後援を受けるようになった。
1385年11月 足利義満が相国寺を創建した。
1386年7月:南禅寺を天下第一、五山の上とし、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山と定めた。
応永4(1397)年4月 足利義満の山荘が上棟。この北山殿は義満夫人日野康子の没後、足利義持によって寺院に改められ鹿苑寺(金閣寺)が創建された。
1403年:東寺南大門の前に屋台の茶店が現れ、一服一銭と称し参詣人に茶を飲ませた。
1462年2月:池坊専慶が京極持清に招かれ立て花を行い評判になった。このころから池坊専慶の活躍が始まった。
1478年:山科本願寺跡蓮如が信証院を堺から山科に移した(山科本願寺の創建)。
1480年:このころ一条兼良が『尺素往来』を著わした。栂尾茶・宇治茶・祇園御霊会の山鉾等の事が記され,室町時代の京都を知る貴重な資料。
1482年2月:足利義政が東山に山荘造営を開始。義政の死後寺院に改められ慈照寺(銀閣寺)が創建された。
1484年11月:吉田兼倶が神楽岡に全国の神々を合祀して大元宮を建て、唯一神道(吉田神道)を唱えた。
1500年6月:応仁の乱によって三十余年途絶えていた祇園会が復興した。
1526年8月:この月頃に村田宗珠を初めとする下京茶湯が盛んになった。
1551年12月:フランシスコ・ザビエルが宣教師として初めて入京したが、11日間滞在しただけで山口へ戻った。
1559年8月:ガスパル・ビレラが京都布教を志し入京。翌年初めに幕府から京都布教の許可を受けた。その後、戦乱による中絶はあったが、ルイス・フロイス、オルガンティーノ・ニエッキなどが精力的に布教を進めた。
1571年7月:盂蘭盆会の風流踊が華麗を極め、このころ、毎夜のように京都のあちらこちらの町組で踊りの競演が見られた。
1575年10月:織田信長が京都妙光寺で大茶会を催し、千宗易(利休)が茶頭をつとめ、信長の茶頭としての地位を確立した。
1576 年7月:南蛮寺(蛸薬師室町西入姥柳町)が竣工し、献堂式が行われ、多くの信者が参集した。
1587年6月:南蛮寺跡豊臣秀吉がバテレン(宣教師)追放令を出す。これにより京都の南蛮寺をはじめとする教会は破壊され、宣教師は九州へ逃れた。
1587年10月:豊臣秀吉が北野神社境内の松原で大茶会を催した(北野大茶湯)。
1596年11月:京都でフランシスコ会の宣教師・信者26名が捕らえられ、長崎に護送され処刑された(二十六聖人殉教)。
1597年:後陽成天皇の命で木活字版『日本書紀神代巻』などを刊行。慶長勅版と呼ばれた。このほか角倉素庵による嵯峨本の出版、三要元佶による円光寺版の出版など、江戸時代初めには木活字による古典の出版が流行した。
1599年4月:前年没した豊臣秀吉の墓が阿弥陀峰に作られた。山麓には秀吉を祀る豊国社が創建され毎年祭礼が行われた。とくに1604年には町衆が大規模な踊りを奉納した。
1603年:出雲の阿国が北野で、男装をして茶屋女と戯れる「かぶき踊」を始めた(阿国歌舞伎の初見)。
1606年1月:清洲松平家中の浅岡重政が三十三間堂において51筋を射通して天下一と称された。
1607年4月:豊臣秀吉の朝鮮出兵後はじめて朝鮮通信使節が入洛し、大徳寺に宿泊した(同年6月復路通過)。以後江戸時代を通じて12回の通信使が来日し京都を経由して江戸へ向かった。
1613年:翌年にかけて幕府のキリスト教徒弾圧が京都に波及。棄教に従わない宣教師や信者が追放された。
1619年:本阿弥光悦が徳川家康から鷹ヶ峰の地を与えられ、法華信徒の町を開いた。
1620年6月:徳川秀忠の娘徳川和子(東福門院)が後水尾天皇中宮として入内した。入内に伴う幕府からの援助が禁裏財政を大いに潤し、宮廷文化の開花、修学院・桂両離宮の造営などが可能となった。
1621年4月:南禅寺門前・三条油小路などで火事が頻発したため,煙草を厳禁とした。このころ新奇な風俗として煙草が流行した。
1615~1624年、瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が粟田口で製陶を始めた(粟田口焼)。京焼最古の窯とされる。
1624年:八条宮智仁親王(後陽成天皇皇子)が桂に別荘(桂離宮)を造営した。
1626年:二条城襖絵狩野探幽が、二条城二の丸御殿の襖絵(重文)を描いた。
1633年、1629年に焼失した清水寺が徳川家光の援助によって再興された。
1638年:松江重頼の俳諧作法集『毛吹草』が成り、京都の名産が多く列記された。
1640年:武士・詩人である石川丈山が一乗寺に隠棲し詩仙堂を営んだ。
1644年7月:京都のシンボル的存在である東寺五重塔(国宝)が桂昌院(徳川綱吉の生母)の発願で再建された。
1658年7月:狂歌師中川喜雲の著作で最初の京名所記『京童』が刊行された。
1659年:後水尾天皇が修学院に別荘(修学院離宮)を造営した。
1661年5月:明から渡来した隠元隆琦が、幕府より宇治の地を与えられ、黄檗山万福寺を創建した。
1662年:伊藤仁斎像(天理大学附属天理図書館)儒学者伊藤仁斎が堀川下立売上るに私塾を開いた(古義堂)。1842年には、松永家の講習堂と共に京都町奉行所から表彰されるなど、京都の私塾代表する地位にあった。
1662年:大文字五山送り火のうち「妙法」「船形」「鳥居」の名が名所案内記『案内者』に記され、このころには年中行事になっていた。
1691年3月:オランダ商館長の江戸参府に随行した医師ケンペルが京都に滞在した。京都のオランダ商館長旅宿は「阿蘭陀宿」と呼ばれ、海外の知識を得ようとする人でにぎわった。
1692年:宮崎友禅が扇絵のデザインカタログ『余勢ひいなかた』を刊行。このあと友禅は文様染めを手がけ友禅染を考案した。
1694年4月:幕府の援助により、応仁元年(1467)以来中絶していた賀茂祭(葵祭)が再興された。
1702年頃、京都の書店(出版業者)が七十余軒に及んだという。
1688~1704年、このころ西陣織が最盛期をむかえ、西陣は数万人が機業に従事する一大産業地域になった。
1729年:石田梅岩が車屋町御池上るの自宅で心学の講釈を始めた。梅岩の学問は石門心学とよばれ,京都の商人に歓迎された。
1754年:山脇東洋が六条牢屋敷(六角大宮西入)で我国で最初に男性刑死体の解剖を行い、それに基づいて宝暦9年(1759)に『臓志』を刊行した。
1766年6月:祇園会山鉾の飾りに提灯が使われ、駒形提灯を立てた宵山が定着する。またこのころから宵山に屏風飾りが行われるようになった。
1768年3月:学者知識人の人名録『平安人物志』の初版が刊行された。慶応3年(1867)まで9版が出版された。
1776年4月:南画家池大雅が没した(54歳)。祇園真葛ヶ原に妻玉瀾と暮し,その跡は大雅堂として保存された。
1780年:写実的な鳥瞰図を中心にした名所図会の最初として秋里籬島編『都名所図会』が刊行されベストセラーになった。
1781年8月:二鐘亭半山の京都見聞録『見た京物語』刊行。本書の「花の都は二百年前にて今は花の田舎たり,田舎にしては花残れり」という一節は外から見た当時の京都観を表している。
1783年12月:南画家与謝蕪村が没した(68歳)。
1789年:このころには金閣寺がすでに拝観料を微収しており,有名寺院の一般拝観のシステムが作られていた。
1793年:上田秋成(1734~1809)が大坂から京都へ移住し創作の拠点とした。
1795年7月:絵師円山応挙が没した(63歳)。遠近法を使った写実的な画風で京都画壇を大きく変えた。
1800年9月:絵師伊藤若冲が没した(85歳)
1811年7月:絵師呉春(松村月渓)が没した(60歳)。円山応挙に学び,その一門は四条通近辺に住んだので「四条派」と呼ばれ京都画壇の中心になった。四条派の作品は京都の町人に非常に好まれた。
1832年9月:頼山陽が没した(53歳)。山陽は文政5年(1822)に鴨川畔の三本木に書斎を建設、山紫水明処と命名(国指定史跡)。ここで『日本外史』(文政12年刊)や『日本政記』(弘化2年刊)の執筆・推敲を行った。
1842年:このころ蘭学医新宮涼庭が、南禅寺門前に順正書院を開校。日本で始めて系統的な蘭法医学教育を行った。
1847年3月:公家子弟の教育機関である学習所が京都御所建春門外で開講した。のち学習院と改称し幕末には尊皇攘夷運動の根拠地になった。
1860年:淀藩の藩校明親館(現明親小学校の前身)が設立された。京都市域唯一の藩校。
1868年3月:政府から神仏分離令が出されると、北野天満宮・八坂感神院などは神社へ改称し、豊国社など多くの神社が再興された。
▼本NOTEのきっかけ:京都市平安京創生館
無料
住所:〒604-8401 京都府京都市中京区聚楽廻松下町9−2 丸太町通七本松西入聚楽廻松下町9-2
→平安京略年表








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→常時展模様















→平安京模型





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