鴨川をどり鑑賞記|鴨川の源流と信仰、そして芸能へ――先斗町に息づく京都文化は出雲族と賀茂氏の暗号である
鴨川の流れのそばで磨かれてきた芸と美。その結晶ともいえる「鴨川をどり」を鑑賞し、京都という街が持つ“祈りと芸能の重なり”を改めて強く感じました。舞台に広がっていたのは、単なる華やかな踊りではなく、出雲の阿国以来続く芸能の系譜、賀茂信仰、そして日本神話にも通じる深い精神文化です。本レポートでは、2026年公演の感想を軸に、鴨川をどりを通して見えてきた京都文化の奥行きを、自身の考察も交えながら記していきます。
1. はじめに
本年より、劇中の特定の時間において写真撮影が可能となっています。私のメインNOTEのテーマは、神社仏閣なので、神社仏閣と紐つけた記事となっています。最後に関連するNOTEを紹介します。
なぜ?「鴨川」なのか?そんな疑問も解説していきます。
本年(2026年)の「鴨川をどり」からは、映画『国宝』とのタイアップによる華やかな舞に加え、新たに「写真撮影タイム」が設けられるなど、伝統のなかにも現代の観客を楽しませる新しい試みが導入されていました。本レポートでも、その雰囲気を写真と共にお伝えします。
2. 「鴨川」がつなぐ歴史と信仰
「鴨川をどり」を主催する先斗町は、地理的にも歴史的にも「鴨川」と切り離せない関係にあります。そして鴨川の流域を遡れば、京都の守護神として古くから崇敬を集めてきた 上賀茂神社(賀茂別雷神社)と 下鴨神社(賀茂御祖神社)の存在に行き着きます。
先斗町は古くから鴨川沿いの町として、賀茂信仰や京都の祭礼文化とも深く関わってきました。江戸時代、鴨川の改修によって生まれた中洲や河原地を利用して茶屋が並び始めたことが、先斗町発展の契機とされています。
賀茂の神々を祀る社のそばを流れる水は、やがて京都の中心を貫く鴨川となり、その水辺で人々は芸を磨き、花街文化を育ててきました。「鴨川をどり」の鑑賞を通して、京都という都市を支えてきた「水」と「信仰」、そして「芸能」のつながりを改めて感じることができました。
さらに頭に浮かんだのが、「河合神社」の存在です。下鴨神社の摂社として知られ、「美麗祈願」の神社としても信仰を集めるこの社には、自らの化粧品で彩る『鏡絵馬』があります。その姿は、鴨川をどりの舞台に立つ芸舞妓さんたちの美意識とも、どこか重なって見えました。伝統の化粧や所作を磨き、美を芸へと昇華していく姿には、単なる装いを超えた「祈り」や「誇り」が宿っているように感じます。
賀茂の神々を祀る神域で美を願い、その流れの先にある花街で芸として花開く――。そんな「美の循環」が、今も京都には静かに息づいているのかもしれません。
少々歴史を追います。
1603年(慶長8年): 出雲大社の巫女を自称する「阿国」が、京都の四条河原で「かぶき踊り」を披露。これが空前の大流行となる。
「かぶき」の語源: 当時の流行最先端であった「傾(かぶ)く(常軌を逸した、派手な振る舞い)」を芸に取り入れたことから。
鴨川との縁: 当時の鴨川の河原は、身分の隔てなく人々が集うエネルギーに満ちた「芸能の聖地」であり、阿国はそこを本拠地とした。
伝統の継承: 阿国の踊りは、後に「女歌舞伎」として広まるが、風紀の乱れを理由に幕府から禁止される。しかし、その華やかな衣裳や舞踊の精神は、花街の芸舞妓さんたちの踊りの中に生き続け、現代の「をどり」へと形を変えて継承された。
1670年(寛文10年): 鴨川に「寛文の新堤」が築造される。この際、堤防の上に新たに土地(新地)が生まれ、茶屋の建設が許可されたのが先斗町の始まり。
この「ぽんとちょう」という珍しい読み名の由来は、鼓をポンと打つときの音、ポルトガル語で先端を意味する「ポンタ」に由来するなど、諸説が語り継がれています。
1712年(正徳2年): 鴨川沿いの茶屋に「旅籠(はたご)」としての営業が許可される。
1813年(文化10年): 歌舞伎の源流ともいわれる「出雲の阿国」以来の伝統を汲み、先斗町が独自の「芸」の研鑽を積む場所として定着。
江戸後期: 祇園甲部が八坂神社に奉納するのと同じように、先斗町の芸舞妓さんが、氏神である賀茂社(上賀茂・下鴨神社)の祭礼や奉納行事において舞を披露する文化が確立される
※賀茂社との関係は伝承・地域史ベースで語られることが多く、一次資料上は慎重な検討が必要である。1859年(安政6年): 先斗町が正式に「花街」として公認される。
1872年(明治5年): 第1回「鴨川をどり」が開催。京都博覧会の附博覧会として、祇園甲部の「都をどり」と共に創設。
1895年(明治28年): 平安遷都1100年を記念し、再び開催される。
1927年(昭和2年): 現在の拠点である「先斗町歌舞練場」が竣工
1937年(昭和12年): 劇作家・谷崎潤一郎が台本を手がけた演目『お国と五郎太』が上演され、話題を呼ぶ。
1944年(昭和19年): 第二次世界大戦の激化により、歌舞練場が閉鎖され開催中止。
1951年(昭和26年): 戦後の混乱を経て、第1回「復活鴨川をどり」が開催される。
2020年(令和2年): 新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、春の公演が中止(その後、秋の開催やオンライン配信模索へ)。
2022年(令和4年): 創設150周年の節目を迎え、伝統と革新を融合させた記念公演が開催。
2026年:一部写真OKになる。
日本の芸能を遡れば、その根源は日本神話のアメノウズメ(天宇受賣命)に辿り着きます。天照大神が隠れた岩戸の前で、アメノウズメが八百万の神々を沸かせたあの舞こそが、日本における「芸能」の始まりでした。
出雲大社の記録によれば、阿国が踊った目的もまた、『神社の修繕資金を集めるための勧進』にありました。つまり、アメノウズメから阿国、そして現代に至るまで、日本の伝統芸能のルーツは常に、神への奉納や社殿を守るという「信仰の心」と共にあったのです。
かつてアメノウズメが天の岩戸の前で光を取り戻したように、阿国が産声を上げた四条河原のすぐそばで、今も氏神である賀茂社(上賀茂・下鴨神社)を大切にしながら舞い続ける先斗町の芸舞妓さんたち。その一挙手一投足に、四百年以上、いえ、神話の時代から変わらぬ『神事と芸能の深い結びつき』を感じずにはいられませんでした。


3. 【感想】舞台に息づく「雅」と「技」
お茶席の体験: 芸舞妓さんの所作に宿る、伝統への誇りと気品
開演に先立ち、まずは4階の「お茶席」へ。そこで目にしたのは、無駄を削ぎ落とした芸舞妓さんの完璧な所作でした。 一つひとつの動きに一切の淀みがなく、凛とした空気感が漂います。それは単なる「サービス」ではなく、先述した神職にも通じるような、伝統を背負う者としての誇りと気品が指先まで宿っているかのよう。手に取ったお皿に描かれた「千鳥」の紋章を眺めながら、この一瞬のためにどれほどの研鑽が積まれてきたのかに思いを馳せました。
残念ながら写真はNGですが、和菓子とお茶が出ます。お皿は持ち帰り可能です。

「鴨川をどり」は第一部が舞踊劇、第二部が“踊絵巻”と称される純舞踊となっているのが特徴です。第一部はセリフのあるお芝居で物語を進め、登場人物の心情などを踊りで表現します。第二部は舞妓も加わって華やかな踊りが繰り広げられます。2026年は次の通り。(https://www.kamogawa-odori.com/wp-content/themes/wodori/library/pdf/debanhyo_187.pdf)
第一部 八重衣恋の湖
第二部 春霞 洛外めぐり
第一部と第二部の感想に続きます。歴史の重みを感じながら〜美の空間が広がっていました。


開演5分前に館員2名が大きなプラカードで写真NGなど注意事項を読み上げながら館内を回ります。場内放送は使わないんだ、いや設備としてないのかと思っていたら、開演1分前に場内アナウンスがされた。あるんかい!!開演です。
第一部『八重衣恋の湖』五感で楽しむ舞台演出: 豪華絢爛な衣装と、地方(演奏)の生音の迫力
いざ幕が上がると、そこはまさに「現代のアメノウズメ」たちの独壇場です。録音ではない舞台脇の「地方(じかた)」による生演奏と唄にも強く惹き込まれました。お三味線の鋭い響きと力強い唄声が、歌舞練場の空間全体を震わせ、観る者の鼓動と自然にシンクロしていきます。
鴨川をどり 第一部『八重衣恋の湖』は、本朝廿四孝を題材にした舞踊劇で、戦国時代の武田家と上杉家の争いを背景に、忠義と恋が交錯する世界を描いています。亡き殿への想いを抱える人々の前に、その面影を宿したかのような男が現れる。本当に生まれ変わりなのか、それとも残された者たちが記憶を重ねているだけなのか。
その瞬間、ふと「鴨族」の神話世界が重なります。親友の葬儀に訪れたアジスキタカヒコネ(賀茂大神) が、故人と瓜二つであったため「生き返った」と人々に取りすがられる。しかし、死=ケガレ(気枯れ・穢れ・汚れ)の世界観なので、激昂して荒ぶりながらその場を去る。『古事記』に伝わる有名な場面です。死者と生者、面影と実体が曖昧に重なる感覚。そして水辺や境界を通じて魂が往還するような世界観は、琵琶湖を舞台にした『八重衣恋の湖』ともどこか響き合っているように思えました。
さらに印象的だったのが狐の登場です。諏訪明神の使いである白狐が道を導くように描かれていましたが、単なる幻想演出ではなく、「人の想いを異界へつなぐ媒介」のようです。狐、水辺、面影、そして魂の往還。そうした要素を見ていると、陰陽道の世界も思い浮かびます。京都では古くから、境界や異界との繋がりを扱う精神文化が発達してきました。そうした感覚は、後世の陰陽道文化ともどこか響き合っているように思えます。ふと、賀茂忠行や賀茂保憲といった賀茂氏の陰陽師たち、さらにその弟子である 安倍晴明 へと連なる、「境界」を扱う京都の精神文化にもつながっているのではないか。そんなことまで考えさせられる舞台でした。その祖に母が鴨族の役行者がいることも面白い繋がりだなと。
最後は、姫の世話役が切腹という衝撃の結末。。。命をかけて兜を奪おうとし、悲劇的な最期を遂げたその女性のなまえは、長尾(上杉)家に仕える腰元の「濡衣(ぬれぎぬ)」で、「身代わり」となって死んだ男の妻です。愛する夫を政治の争い(そしてこの「諏訪法性の兜」を巡る因縁)で失った濡衣は、本物の勝頼(蓑作)の正体を知り、八重垣姫との恋の手助けをする交換条件として、すべての悲劇の元凶である「兜」を奪おうとしていたのです。
突然の悲劇的結末には驚かされましたが、背景となる物語を事前に知っていれば、さらに深く理解できたのではないかと感じました。ここが古典芸能の難しいところです。
さて、私が印象的だった1つに舞台転換の見事さがあります。
物語の区切りで客席が暗くなると、舞台裏ではバタバタと人が動く音や気配や、暗闇の中を素早く歩く人影が見えます。しかし、その時間が妙に心地よい。観客を待たせず、集中力を切らせない絶妙なタイミングで再び照明が灯ると、そこにはまったく別世界の舞台が完成しているのです。
八重衣恋の湖(やえごろもこいのみずうみ)まとめ
歌舞伎・人形浄瑠璃の名作『本朝廿四孝』を、先斗町(鴨川おどり)流に華やかに翻案した舞踊劇。
登場人物
• 武田勝頼:武田信玄の息子。切腹を装い、庭師「蓑作」として長尾家に潜入している。
• 八重垣姫:長尾(上杉)家の姫。勝頼の許婚。「日本三姫」に数えられる情熱的なヒロイン。
• 濡衣:長尾家に仕える腰元。勝頼の「身代わり」となって死んだ男の妻。悲劇の影の主役で斎藤道三の娘設定?
• 諏訪明神:武田家が信仰する神。家宝の「諏訪法性の兜」にその霊力を宿す。
物語の流れ
1. 涙の供養と、劇的な再会
婚約者である武田勝頼が亡くなったと信じ込んでいる八重垣姫は、お位牌の前で深く嘆き悲しみ、お香を焚いて彼を弔っていました。
そこへ、庭師の「蓑作」として働く若者が現れます。じっと顔を見た八重垣姫は、彼が死んだはずの最愛の恋人・勝頼その人であることに気づき、二人は人目を忍んで喜びの再会を果たします。
2. 迫り来る危機
しかし、八重垣姫の父である長尾謙信は、すでに彼の正体が勝頼であることを見破っていました。謙信は勝頼に非情な追手を放ち、密かにその命を奪おうと画策します。
3. 諏訪明神の奇跡と、恋の湖(クライマックス)
恋人の危機を知った八重垣姫は、彼を救いたい一心で、長尾家に保管されていた武田の家宝「諏訪法性の兜」を抱きかかえます。
すると、兜に宿る諏訪明神の使いである「白狐」の霊力が姫に乗り移ります。燃え上がるような恋心と神の加護を得た八重垣姫は、不思議な力を得て、妖しくきらめく狐火(きつねび)に守られながら、凍りついた諏訪湖を渡って勝頼のもとへと命がけで急ぐのです。
実は、物語が始まる前に「切腹して亡くなった」とされていた武田勝頼は、本物の勝頼を逃がすための身代わり(偽物)でした。濡衣は、その身代わりとなって命を落とした男性の妻だったのです。
愛する夫を政治の争い(そしてこの「諏訪法性の兜」を巡る因縁)で失った濡衣は、深い悲しみと怨みを抱いて長尾家に潜入していました。本物の勝頼(蓑作)の正体を知った彼女は、八重垣姫との恋の手助けをする交換条件として、すべての悲劇の元凶である「兜」を奪おうとしていたのです。
諏訪法性(すわほっしょう)の兜の4つの力
• 戦場での無敵化:諏訪明神の霊力でどんな敵にも負けない強さを発揮する。両家が戦争を起こすほどの国宝。
• 白狐と狐火の使役:神の使いである「白狐」のスピリチュアルな軍勢を呼び出し、狐火を灯す。
• 身体能力のブースト:霊力が乗り移ることで、凍った湖の上を空を飛ぶようなスピードで駆け抜ける移動能力を得る。
• 幻惑の力:水面に映る顔が「狐の姿」に変わるなど、心が愛と神の力で人間離れしていく幻想的な演出。

第二部『春霞 洛外めぐり』 総をどりの一体感: 洗練されたプロの美意識が凝縮された、圧巻のフィナーレ
公演のクライマックス、出演者全員が舞台に揃う「総をどり」は正に圧巻の一言でした。 一糸乱れぬ群舞の美しさは、個々の技量はもちろん、先斗町という一つの共同体が守り続けてきた「型」の結晶です。プロフェッショナルとしての徹底した美意識が会場全体を包み込み、観客席からは溜息と割れんばかりの拍手が沸き起こりました。神話の時代から続く「舞い」のエネルギーが、今この瞬間に昇華されたことを肌で感じる、至福のフィナーレでした。



詳細です。
単なる純舞踊の連続ではなく、舞台背景や演出を注意深く見ていくと、日本神話や丹後・山城文化圏を想起させる構成になっているように感じました。
ある場面では、舞台左手に「岩戸」を思わせる舞台絵が現れ、巫女鈴を手にした巫女のような姿の舞妓さんが登場します。その姿は、まさに天岩戸神話で舞ったアメノウズメそのものでした。
神話では、太陽神・アマテラスが天岩戸に隠れてしまったことで、世界は闇に包まれます。困り果てた八百万の神々は、知恵の神・オモイカネを中心に相談し、一つの秘策を実行しました。
それが、アメノウズメによる「舞」です。
アメノウズメは岩戸の前で踊り狂い、神々は大笑い。その異様な盛り上がりに「なぜ私が隠れているのに皆が楽しそうなのか」と不思議に思ったアマテラスが、岩戸を少し開けて外を覗き込みます。
その瞬間、力自慢のタヂカラオが岩戸を一気に押し開き、世界に再び光が戻りました。
つまり、日本神話において「舞」とは、単なる娯楽ではなく、世界に光を取り戻すための神事だったのです。だからこそ、鴨川をどりの舞台でアメノウズメを想起した瞬間、私は「日本の芸能の原点」を見た気がしました。
出雲の阿国から続く歌舞伎の源流もまた、もともとは神へ奉納する“祈りの舞”でした。先斗町の芸舞妓さんたちが今も舞い続ける姿は、神話の時代から連なる「芸能と祈り」の系譜を、現代に伝えているのかもしれません。
そして気づきました。“これは単なる踊りではなく、日本芸能の起源を描いているのではないか”と感じ、鳥肌が立ちました。あっ・・言い過ぎました。鳥肌は立っていません。




岩戸神話を想起させるアメノウズメの舞から、天橋立・丹後王国・天女伝承へ――。
さらに場面が変わると、背景には「天橋立」を思わせる景観が広がります。舞台上では音が鳴り響いた瞬間、天井から絹のような布がふわりと舞い降りて優雅な舞が始まりました。その姿は、単なる舞踊ではなく、日本神話と京都北部の古層文化を巡る「神話絵巻」のようにも感じられました。
丹後には、「かぐや姫」伝承、天から舞い降りる「羽衣伝承」など、“天上世界から来訪する女性”の物語が数多く残されています。
さらに丹後は、単なる伝説の地ではなく、古代王権や信仰、そして芸能文化の重要拠点でもありました。
聖徳太子の母・間人皇后(はしうどこうごう)ゆかりの地として知られ、地名「間人(たいざ)」にもその伝承が残されています。 また、『古事記』『日本書紀』の世界では、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)とも丹後勢力の繋がりが指摘されるなど、古代王権と深い関係を持つ土地でした。
また、アマテラスが4年間滞在したとも伝わり、伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神(トヨウケノオオカミ)の故郷である「元伊勢籠神社」が鎮座しています。「元伊勢」の名が示す通り天照大神(アマテラス)信仰とも深く結びついており、伊勢神宮内宮以外で本殿に「五色座玉」を掲げることを許された唯一の神社として知られています。
そして、淳和天皇の第四妃「真名井御前」は、この地の神官を務めた海部氏の娘です。海部氏は、日本最古の系図『海部氏系図@国宝』を現代に伝える古代氏族であり、海人文化と王権を結ぶ重要な一族でした。確かに、丹後にも「葵祭」が残されており、賀茂信仰との共通性を感じさせます。
そう考えると、『鴨川をどり』第二部で描かれていた世界もまた、単なる幻想的演出ではなく、京都の深層文化を暗示していたようにも思えてきました。








4. 伝統の継承と現代の視点
今回の鑑賞を通じて最も強く感じたのは、伝統とは決して「静止したもの」ではなく、絶え間ない「更新の連続」であるということです。
神社と花街の結びつき: 幾世代にもわたって守られてきた信仰と芸術の共存。それは、地域に根ざし、目に見えない繋がりを大切にしてきた京都という街の「持続可能性(サステナビリティ)」の原点を見せられた思いでした。
身近な場所の再発見: 鑑賞後、改めて鴨川のほとりを歩くと、その水の流れや対岸の風景が、今まで以上に重層的な歴史的背景を持って迫ってきました。普段何気なく通り過ぎている場所にも、神話から続く「祈り」と、阿国の時代から続く「情熱」が伏流水のように流れている。
5. おわりに
→体験がもたらした学び
神話の時代にアメノウズメが天の岩戸を開いたように、本物の芸には人の心を動かし、世界を明るく照らす力があります。
一糸乱れぬプロフェッショナルの矜持、そして伝統を重んじながらも新しい表現に挑む姿勢。
自分自身も何かを「繋いでいく」一人でありたいと強く決意しました。
→動画
6. 番外編:鑑賞の余韻に浸る「寄り道」
鑑賞後は、興奮冷めやらぬまま先斗町の路地を散策しました。初夏の風が吹き抜ける鴨川沿いを歩き、季節の味覚に舌鼓を打つ時間は、まさに京都ならではの贅沢です。葵祭を控えたこの時期の京都は、街全体が特別な活気に満ちており、改めてこの街で生きる喜びを実感しました。

祇園の南側「新門前 米村」さんが手がけるお菓子屋「白 HAKU」さんのおはぎですね「小豆をたっぷりの和三盆糖とともに、ゆっくりことこと炊きました。」が、まさに「白」さんのものです。パッケージに使われている経木の箱、それを包む薄紙、そして細い紐の結び方に至るまで、モダンでありながら洗練された京都の美意識が詰まった、まさに「白」さんを代表するお菓子です。

あと、行きにばったりホットな寺を発見した。今まで気づかなかった・・・。




7. 【オマケ】京都五花街「をどり」
京都には五つの花街があり、それぞれが独自の「をどり」を継承しています。
都をどり(祇園甲部): 「ヨーイヤサー」の掛け声で知られる、春の京都の代名詞。
京をどり(宮川町)・祇園をどり(祇園東): 各街が競う、独自の華やぎと個性。
鴨川をどりの際立ち: 演出の巧みさと、物語性の高い劇形式(舞踊劇)の面白さが光る、先斗町ならではの魅力。
北野をどり(上七軒): 北野天満宮のお膝元、最古の花街が紡ぐ落ち着きと格式。こちらも阿国が勧進興行を行った場所として知られ、歌舞伎発祥の歴史を語る上で欠かせない場所です。
いつかこれらを巡り、各花街の違いを楽しんでみるのも一興かもしれません。ちなみに、鴨をどりも「手ぬぐい」が観客に投げ込まれますが、飛んでこなかったです。。これね~狙って投げ込む人もいますので、投げ込んだ後の表情を楽しんでください。笑顔=成功、それ以外=ミス。

8.【考察】出雲の阿国はなぜ?鴨川と北野天満宮中心に活動したのか?
端的に両方の祖が出雲出身であることだろう。謎解きします。で、この記事で気づいたことがあります。「八重垣姫」って出雲のスサノオの妻・八重垣姫とオーバーラップすると。岐阜にも八重垣神社がありますが偶然か??いや、諏訪はオオクニヌシの次男・タケミナカタですね。2026年の「鴨をどり」は出雲っていたと思います。
→鴨族は出雲出身である
※以下は『風土記』『神賀詞』『神社伝承』などをもとにした個人的考察です。
出雲
現在の出雲大社の境外摂社「阿須伎神社」にも祀られているアジスキタカヒコネが鴨族の祖である
アジスキタカヒコネはオオクニヌシの長男坊で、『出雲国風土記』によると奈良に移っている

奈良(葛城)
『出雲国造神賀詞』にも、「オオクニヌシの別名である大穴持命の子・阿遅須伎高孫根命を葛城に・・」というくだりがある
鴨族の総社「高鴨神社」の祭神はアジスキタカヒコネで、括弧書きで「迦毛之大御神(カモノオオミカミ)」と記している
奈良の鴨社は3社制で出来ており。葛城王朝で栄えさせた豪族で、役行者は鴨氏である。
『山城国風土記』によると、鴨族は現木津川市の岡田鴨神社あたりを経由して、今の場所に移ったとする

京都
下鴨神社、上賀茂神社と2社制だが中世は3社制であったので奈良の名残があったのかも
主祭神はそれぞれ、賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)と娘・玉依姫命、孫・賀茂別雷大神(カモワケイカヅチノオオカミ)であり、アジスキタカヒコネという表記はないが、賀茂建角身命=賀茂大神=迦毛之大御神という仮説が立つ(後ほど回収)
『山城国風土記』逸文では、玉依姫が流れてきた「丹塗矢」によって懐妊したとあり、この矢の正体は大物主神(あるいは火雷神)とされる。大物主神はオオクニヌシの幸魂・奇魂で同神と記紀に記されている
下鴨神社の拝殿・本殿前は干支ごとの社があるが、神様はすべてオオクニヌシである
葛城にある「鴨神」という地名や、付近を流れる「葛城川(古称:鴨川)」などは、そのまま京都の「賀茂」「鴨川」へと持ち込まれたと考えられている。信仰を保持した一族が葛城から北上し、山城盆地を開拓した物理的な痕跡だろうか
貴船神社は一時期上賀茂神社配下に属した。奥宮末社「吸葛社(すいかずらしゃ)」の祭神はアジスキタカヒコネと表記しており、奈良の鴨社と風土記と一致させ「鴨族=賀茂氏=鴨氏」を成立させている。


番外編としては、アジスキタカヒコネの直系・相見家は鳥取の大山の神社の宮司である。一部は高知に移ったようで、それが土佐神社である。
→北野天満宮の祭神・菅原道真も出雲の血が流れている
結論から申し上げますと、菅原道真の祖先を遡ると、天孫降臨において出雲に深く関わった天穂日命(アメノホヒ)に辿り着きます。出雲大社の宮司を代々継承している御家柄である。
出雲に天孫降臨!出雲に寝返るアマテラスの次男坊
天穂日命(アメノホヒ)は、もともと高天原(天皇家側)から出雲(国津神側)へ交渉に行った結果、出雲の神・オオクニヌシに心酔して、そのまま出雲に住み着いてしまった神様です。
私のNOTE:出雲王朝!スサノオから大国主?「出雲大社」ガチで御縁を頂くための作法?神議の地「杵築大社」も記す|やんまあ
出雲大社の摂社・末社にアメノホヒの末裔が宮司になったとある


ヤマトの強者に相撲で勝ったノミノスクネは中央・ヤマトへ
出雲から来た野見宿禰が、大和の強者・当麻蹴速(タイマノケハヤ)と御前試合をして勝ったのが相撲の起源とされています。これが「出雲と道真」を繋ぐ大きなミッシングリンクです。
私のNOTE:【奈良】相撲発祥!穴師兵主神社・大兵主神社・相撲神社



野見氏から土師氏:出雲から奈良へ!天皇がお隠れになったら埴輪をいれましょ♪で野見氏から土師氏。
『日本書紀』にて、垂仁天皇の代、殉死(お供を埋める)の悪習を止めるために、野見宿禰が粘土で人馬の形を作って埋める(埴輪)を提案し、その功績で「土師(はじ)」の姓を授かりました。
菅原道真誕生
土師氏から菅原氏:奈良から京都へ遷都直前!奈良で土師氏から菅原氏に名称変更!!
781年、道真の曾祖父にあたる土師古人(はじのふるひと)が、住んでいた「大和国添下郡菅原の里(現在の奈良市菅原町付近)」にちなんで、菅原姓を賜りました。
私のNOTE:日本最古の天満宮対決「奈良・菅原天満宮」

平安京で藤原氏の罠で太宰府天満宮へ左遷。そしてお亡くなりに・・
死後に平安京で天災・飢饉が起こり人々は道真の祟りだ~と北野天満宮で祀る
京の人は知っていたのかも?道真は出雲の人だと!!アマテラスの次男坊の家柄だと
日本人は知っている、崇神天皇時代の疫病、垂仁天皇が全く喋れないなども出雲・オオクニヌシの仕業で、祟る神であると
北野天満宮は神様に一番近い場所である裏遥拝所には「アメノホヒ」と父、祖父を祀る






→出雲の阿国の記録
2026年の特別展「北野天神」でも出雲の阿国の展示がありました。
💃大人気!かぶき踊り💃
— 京都国立博物館 (@KyotoNatMuseum) May 9, 2026
出雲大社の巫女とも言われる阿国は、北野社の社頭で「かぶき踊り」の興行を頻繁に行っていたことが知られています。#北野天神展
第3章「北野天満宮と芸能・文化」
1節「学問・芸能の神」より
重要文化財
阿国歌舞伎図屏風
桃山時代17世紀
京都国立博物館蔵
(展示は~5/17) pic.twitter.com/dQcySoCCSD

9.本記事の関連記事
→賀茂と鴨
プチ系図
オオクニヌシ@出雲大社💛タギリヒメ@宗像大社
↓
アジスキタカヒコネ@出雲大社摂社
@高鴨神社(賀茂大明神)
@土佐神社
@貴船神社
(阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神)
-----------------------------
賀茂建角身命@下鴨神社(八咫烏)💛伊賀古夜姫命@丹波王国
↓
玉依日売@下鴨神社💛不詳(松尾大社?向日神社(角宮神社)?乙訓神社)
※不詳だが『新撰姓氏録』では火雷別
↓
賀茂別雷大神@上賀茂神社
-------------------------------
「アジスキタカヒコネ=賀茂別雷大神」説、『三輪高宮家系』では「アジスキタカヒコネ=オオヤマグイ」となっており、諸説あるようだ・・・。
→出雲
→北野天神
→諏訪
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