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#115💭心の温度と対話のコスト|”わかってもらう”はどこでやめる?

その言葉を被せられた瞬間、私の心は熱を失った。
対話にはコストがかかることを実感した。


ある人が、
「あの映画、観ましたよ。
すごくショックだった。こんな映画がフランスで評価されてるの?!って思った。」
と私に話した。

それは、
「”健常者の映画”に、障がいのある人がちらっと映ってその”存在を思い出させる”ような作品にはしたくなかった」と監督が語る、
『サムシング・エクストラ!』
障がいのある若者たちのサマーキャンプに、泥棒が逃げ込み、紛れるという物語。


私は以前その人に、
「敬意があることが前提で、成り立つ映画だった。
そこには上下関係ではなく、対等な友人としてのリスペクトが感じられた。」
という話をしたので、その困惑を共有してくれたのだと思う。

感じ方は人それぞれで、賛否両論も理解できる。
”こんな映画”と語るその言葉に、一瞬何と返せばいいのかわからなくなってしまった。
そのショックの理由を、聞けなかった自分がもどかしい。

「いろいろな考え方や、伝え方がある」ということを、
”わかろうとしない”と”わからない”は違う。

でも、
”わかろうとしない”のと、
”わかろうとした”けど、とっさに聞けず放置したのは、
結局同じかもしれない。


監督の意図や背景や、『一緒に作る』という姿勢を知っていても、知らなくても、違和感を持つ人がいるのは分かる。

でも何となく、「こんな映画」という言葉に引っかかり、
私が感じたことを、もう一度話そうとした。
けれど、私の言葉に被せるように、
「あれはひどすぎる」と短い言葉が返ってきた。

説明しだしてすぐに、否定の言葉を被せられた私は、冷えてしまった。

意見が違うことよりも、私の言葉を最後まで聴く価値もないと思ったのか、
その作品に対する不快感が大きかったのか、
どちらにしても、ひと言目に遮られたことに、
私は傷ついたのだと思う。

その映画を評価していた私に対する非難だったのか、
あるいは他の理由があるのか。

ポリコレ的な正しさと、人間の生々しさが混在する映画の話だったこともあるが、
──言っても届かないかも。そんなに深い関係でもないし、もういいや。
と話すのを諦めてしまった。
対話のコストを惜しむように。
ただ、あの勢いの中で、聞ける余白を見つけられなかった。
というよりも、この人との会話は、だいたいいつもうまく噛み合わない。

でも、それぞれの現実があって、それぞれの感じ方がある。
諦める前に、ショックの正体を改めて聞けばよかったのか。


”わかろうとする”って、すごく難しい。
”わかってもらおう”も、距離次第ですごく難しい。


⬇️言葉は解像度を落とす

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⬇️この映画に見た「リスペクト」の話はこちら


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