【短編小説】勘弁してくれよ、神様
鷹野誠二はくじを開いた。
「町内会長」の二文字が目に飛び込む。四十二歳、営業部課長代理。会長になりたかったわけではない。誰がそんな面倒な仕事に手を挙げる?
放置されてあったメモを代用したのだろう。くじには、神様のキャラクターがプリントされている。
勘弁してくれよ、神様。
「もう限界なのよ」隣の奥さんが訴える。ゴミ袋が破られ、生ゴミが歩道に散乱している。
「ネットでも張りますか」
何気なく口にした提案だった。予算を調べ、業者に連絡し、設置日を調整する。面倒くさいと思いながらも、淡々とこなしていた。
三週間後、青いネットが風に揺れている。カラスたちは諦めたように別の場所へ飛び去った。
「鷹野さん、やるじゃない」
近所の人たちの視線が温かい。悪い気分ではなかった。
ところが、カラス問題の解決で評判になってしまった。街灯の相談、公園の遊具の件、道路の穴の苦情。何でも鷹野のところに持ち込まれる。調べてみると、どれも区の管轄だった。担当課に電話をかけても、「予算の都合で」という返事ばかり。
地元の区議に相談に行った。五十代の男性議員は、話を半分聞き流しながら答えた。
「住民の要望は多いんですよ。でも予算には限りがあって」
その時、小さな苛立ちが芽生えた。この人は、本当に住民のことを考えているのだろうか。
翌年春、その区議が汚職で辞職した。まさかのタイミングだった。
「補欠選挙があるそうよ。鷹野さん、出てみたら?」
冗談だと思った。しかし、妻に相談すると意外な反応が返ってきた。
「あなた、最近生き生きしてるものね」
確かに、町内会の仕事は充実していた。人の役に立っている実感がある。営業の数字を追いかけるより、よっぽど面白い。
立候補を決意した時、思いがけない来訪者があった。
「松本と申します」
近所の寺の住職だった。三十代半ばの落ち着いた男性。
「鷹野さんの町内会でのお働き、拝見しております。もしよろしければ、応援させていただきたく」
意外だった。住職が選挙応援?
「なぜ、私を?」
「カラスのネットの件です」松本龍道は穏やかに微笑んだ。「争いをなくす、良い解決でした。町のためになる方だと思います」
選挙戦で、龍道は地道に支援してくれた。檀家の人たちに鷹野の人柄を紹介し、街頭演説では静かに後ろに立っていた。なんだか心強かった。
当選の夜、小さな祝勝会で龍道と話した。
「おめでとうございます。でも、気をつけてください」
「何をですか?」
「権力は怖いものです。最初は人のためと思っていても、やがて権力そのものが目的になることがある」
少し大げさじゃないか、と思った。自分は純粋に住民のために働こうとしているのに。
ところが、区議会は思った以上に複雑だった。どの案件も、都の壁にぶつかる。住民の期待に応えたいのに、手も足も出ない。これじゃあ、町内会長の時とあまり変わらない。
そんな時、一人の弁護士と出会った。
「佐藤雅人です」
市民活動の勉強会で隣に座った三十代半ばの男性。鋭い眼光を持っていた。
「公共空間の問題について研究しています。市民が本当に政治に参加できる場を作りたいんです」
鷹野は自分の悩みを打ち明けた。区議の権限の限界、住民の期待と現実のギャップ。
「政治って、もっと身近なものだと思うんです」佐藤が言った。「みんなで話し合って決める。それが基本じゃないでしょうか」
「でも、権限がなければ何もできないじゃないですか」
「カラスのネットの件、あれは区議の権限で解決したんですか?住民同士の話し合いで解決したんじゃありませんか?」
確かに、あの時は区議の権限など必要なかった。
「でも、道路や保育園の問題は?」
「もちろん、大きな問題もあります。でも、なぜ住民に直接関わることを、遠いところで決めるんでしょうね」
佐藤の話は刺激的だった。しかし同時に、現実的な疑問も湧いた。理想はそうでも、現実には予算や法律の制約がある。それを変えるには、やはり県議になって。
「でも結局、上に行っても同じ壁にぶつかるんじゃないですか?」
佐藤の言葉が胸に刺さった。しかし、目の前で困っている住民を見捨てるわけにはいかない。もっと大きな権限があれば、きっと解決できる。
二年後、都議選に出馬した。龍道は今回も支援してくれたが、どこか表情が曇っていた。佐藤とは、いつの間にか疎遠になっていた。
都議になっても、やっぱり思うようにいかない。今度は国の政策に左右される。住民の願いを叶えるには、国政に出るしかない。そんな結論に、自然と辿り着いていた。
衆議院選挙。政権交代の風が吹いていた。
「今度こそ、政治を変える」
演説台の上で、鷹野は拳を握った。カラス避けのネットから始まった道のりが、ついにここまで来た。まさか自分が国会議員を目指すなんて。
当選確実の報が入った時、万歳三唱が夜空に響いた。
しかし、国会議員になってみると、またしても予想外だった。政治資金パーティー、業界団体との懇親会、党の方針に従った採決。毎日がスケジュール調整と根回しの連続。気がつくと、住民の顔が遠くなっていた。
あれ?こんなはずじゃなかったのに。
ふと、頭をよぎった。次は総理大臣か?いや、アメリカの大統領?それとも国連事務総長?…まさか神様?
我ながらバカバカしいと思った。でも、今までの流れを考えると、あながち不可能でも…いや、さすがにそれは。
ある夜、地元に帰った鷹野は、ゴミ捨て場を通りかかった。あのネットが破れ、再びカラスが群がっている。生ゴミが散乱し、あの頃と同じ惨状が広がっていた。
立ち止まって、苦笑いを浮かべた。
権力の頂点を極めても、目の前のカラス一羽をきちんと追い払うことはできていない。一番確実だったのは、あの時の青いネット一枚だった。
龍道の言葉が蘇った。「権力そのものが目的になることがある」。
佐藤の言葉も響いた。「上に行っても同じ壁にぶつかる」。
翌朝、鷹野は新しいネットを買いに行った。自腹で、誰にも相談せず。慣れた手つきで設置する。カラスが不満そうに鳴いて飛び去っていく。
「これが一番簡単だったんだな」
しかし、もう後戻りはできない。明日からまた、政治資金パーティーで頭を下げ、業界団体と握手を交わす。
鷹野誠二は、権力の階段を上り切った場所で、小さな敗北を抱えていた。青いネットを眺めながら、鷹野は立ちすくんでいた。
政治は、思っていたより遥かに面倒だ。
勘弁してくれよ、神様。
