PROFILE: 濱口竜介/映画監督
「ドライブ・マイ・カー」(21)でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞し、以降も「悪は存在しない」(24)などで国際的な評価を高めてきた濱口竜介。その最新作「急に具合が悪くなる」が、6月19日に公開される。
原作は、哲学者・宮野真生子と医療人類学者・磯野真穂による同名の往復書簡。映画では、パリ郊外の介護施設で働くマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と、がんを患う日本人演出家・真理(岡本多緒)の出会いを通じて、言葉や文化の違いを越えて深まっていく人間同士の結びつきが、196分という時間をかけて描かれる。
本作は第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で高く評価され、ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が最優秀女優賞を受賞した。原作に刻まれた“魂の交流”は、どのように映画的な対話として立ち上げられていったのか。濱口監督に、本作の脚色、演出、俳優、そして映画制作におけるケアの倫理について聞いた。
「時間というものはかなり伸び縮みするもの」
——まずはカンヌ国際映画祭での最優秀女優賞獲得、おめでとうございます。特に濱口監督の映画においては、俳優の存在は作品そのものを立ち上げる非常に大きな要素ですが、改めて今回、ヴィルジニー・エフィラさんと岡本多緒さんが揃って評価されたことをどのように受け止めたのか教えていただけますか。
濱口竜介(以下、濱口):本当にありがたいことだと思います。自分の現場の中心は俳優であり、俳優の感情だと思っていますし、実際スタッフたちにもそう伝えて仕事をしているので。だからこそ今回の受賞に際して、スタッフたちには「賞を獲ったのはお二人ですが、現場にいる全員の仕事が彼女たちの輝きに繋がっていると思うので、これは皆さんの賞でもあると思いましょう」と、勝手ながらお話させてもらいました。
——宮野真生子さんと磯野真穂さんの往復書簡である原作を、どのように物語として脚色されたかは既にさまざまな場所でお話しされていますが、原作と映画の時間の違いをどう捉えたのかは非常に気になります。というのも、原作では約2カ月にわたる往復書簡で生まれる2人の“魂の交流”を、映画では数日間、とりわけ一晩の対話へと凝縮されていますよね。
濱口:そうですね。原作では一便から六便くらいのことを、映画では一晩の出来事として収めています。
——ただ時間が短くなればなるほど、登場人物の変化は急激なものに感じられる危険があります。一方で、短い時間だからこそ生まれるダイナミズムもあるとも思っていて。この原作の時間を映画的な時間へと変換する上で、何を大切にされたのでしょうか。
濱口:まず念頭にあったのは、原作の中で、お二人自身が書簡を交わしながら自分たちが関係を深めるに至った「時間」の性質について考えていたことでした。約2カ月にわたるやりとりの中で起きた関係性の変化とは一体何だったのか。磯野さんは「それは直線的な時間ではなく、『踏み跡』のような、深さを持った時間」というようなことを仰っていて。その考え方は、映画を作る上で参考にしようと思っていました。
その磯野さんの考えを推し進めていけば、関係の深まりは現実における時間の長さを超越したものです。たとえどれだけ短い時間であっても、それが十分に深いものであれば、2人の関係性の変化は成立しうるのではないか。だからこそ映画ではそれを一晩の出来事として描いています。もちろん観客にそれを信じてもらうことができなければ成立しないので、そのためにできる限りのことはしています。ただ信じてもらうことさえできれば、2人の関係がいかに特別なものであったかはむしろ最も強く伝わるのではないかと。ある種の綱渡りですが、それができれば映画としても最も面白くなるのではないかと考えました。
——なるほど。最初に作品の長さが196分と聞いたときには驚きましたが、作品を観た今では、それは観客が2人の関係を“信じられるようになる”ために必要な時間だったように感じます。ただ、濱口さんは常々「映画を観ながら寝るのは悪いことではない」とお話しされているように、上映時間が長いほど寝てしまう人も多い気がしていて。
濱口:本作でも全然寝ていただいて大丈夫ですよ。寝た部分が気になれば、もう一度観に来ていただければありがたいです(笑)。
——とはいえやはり長いことはある意味でリスクとなり得ると思うのですが、濱口監督にとって映画の長さとは、観客にどのような時間を経験してもらうためのものと考えているのでしょうか?
濱口:基本的には共通尺度としての「時計の時間」があるので、尺数をまったく考慮に入れないということはできません。ただ実際のところ、時間というものはかなり伸び縮みするものだという感覚は日常的にあると思うんです。友人と話していて「もう2、3時間経っていたんだね」と感じることがたくさんあるように。そういうことが引き起こされるようなやりとりであれば、おそらく観客は、実際の尺数ほどには長さを感じないのではないかと思っています。むしろ、本当に時間が分からなくなるというか、ものすごく短くも感じるし、一方で「たった3時間のあいだに、こんなことが起きたのか」と思えるような深みも生まれる。そういう時間の経験が、映画の中でも起こし得るのではないかと考えています。
脚本が演出
——原作にある往復書簡の距離感を、映画ではフランスと日本の言語の異なる会話を通じて立ち上げているように思いました。ただ、その会話は言葉の意味だけでなく、相手の声や表情を受け取ったときに生じる身体の反応によって進んでいくようにも見えます。2人の距離が少しずつ変化していく過程を描く上で、言葉が俳優の身体に与える影響をどのように意識されましたか。
濱口:僕は現場で「ああして、こうして」という演出は基本的にしません。そういう意味では、俳優に渡しているテキストそのものが、演出といえば演出なのだと思います。相手役から、ある言葉を、ある表情や声色でかけられる。そうすると俳優の中にはやはり何かが起きるわけですよね。その「何か感じたこと」が積み重なっていくといいなと思っています。テキストを口にしたり、聞いたりするだけで何かが起きるはずだと思っています。それは本当に、体の微細な震えのようなもので構わないんです。それを捉えるには、基本的にはフレームはあまり動かないほうがいいとも思っています。フレームが動きすぎると、そこで起きている微細な動きが干渉を受けて、感じ取れなくなってしまう。例えばホワイトボードに何かを書くような何ということのないアクションも、適切なフレームで捉えれば十分にアクションとして見ることができる。そういうものだと思ってやってはいます。
——フレームの話でいえば、濱口監督は著書の「他なる映画と」で、映画監督の仕事はショット——「カメラをどこに置くか」と「カメラをいつ回し始め、いつ終えるか」——を決めることだと黒沢清監督の言葉を引用して語られていましたね。本作に関していえば、歩きながら会話する場面など、ショットがじっくりと持続しているような印象を受けましたが、この映画におけるショットはどのように決めていったのでしょうか。
濱口:シーンによってケースバイケース、というのが実際ですが、例えばセーヌ川の近くを歩く場面であれば、「ここからここまでセリフを言いながら歩いてください」ということを、自分でもセリフを読みながら歩いて、かなり細かく決めてはいます。エキストラの配置や人止めなど、そうでないと対応しきれないことが多いからです。これは日本でもフランスでも一緒でした。一方で、現場全体の運動量がそれほど大きくない場面もあります。よく「カロリーが低い」と現場では言われたりしますが、そういう場合は、最初から最後までやらせてもらうことが多いです。脚本に書かれている場面の最初から、なんならそのほんの少し前の状況から始めてもらって、本当に一部始終をやってもらう。それをポジションごとに撮っていく、という感じです。
そして、それをつないでシーンを構築していく。最終的に何をどこまで使うかは編集で決定していくわけですが、その方法でしか現れない類の演技がある気がしています。先ほどのテキストの話もそうですが、「言葉や反応が積み重なって俳優の中で何かが起きる」という状況を引き起こすには、最初から最後までやったほうが俳優にとってもいい。その俳優に起きたことを撮った記録映像を、編集で再断片化して並べ直す、というようなことを自分はやっています。
——濱口監督はこれまでも共同脚本で作品を作られてきましたが、共同脚本家との関係性は作品ごとに異なっていたと思います。今回はルディムナ玲亜(レア)さんとの共同脚本ですが、日本語の原作を、フランスを舞台にした多言語の物語として立ち上げる上で、ルディムナさんとの共同作業にはどのような意味がありましたか。
濱口:ルディムナ玲亜さんは、普段は通訳・翻訳家として仕事をされています。是枝裕和監督の通訳を長年されていて、「真実」(19)でも脚本のフランス語翻訳を担当されていました。今回も基本的には、僕が日本語で書いたものをフランス語に翻訳してもらうという作業でした。ただ、玲亜さんには単に言葉を置き換えるだけではなく、フランスで暮らす人として、あるいはフランスの社会や文化に通じる立場から「これはおかしい」と感じる部分があれば、変えてもらって構わないし、必要があれば相談してほしいと伝えていました。僕自身は少なくとも日本語の側からしか十分には判断できませんが、日仏通訳の第一人者として、玲亜さんの通訳や翻訳の確かさには非常に信頼を置いているので。なので、単なる翻訳という以上の役割を受け持ってもらっていました。そうやって何度もやり取りを重ねながら、日本語で書いた脚本を、フランス語としてだけでなく、フランスの生活感や文化の中で成立するものへと変換していきました。
——実際に、玲亜さんとのやり取りで変更した部分もあったのでしょうか。
濱口:ありましたね。ぱっと思いつくところで言うと「フランスでは一般的にティッシュではなくハンカチを持つ」とか。ほかにも「こういう場面でこういうものは食べない」とか、「こういうときにこういう振る舞いはしない」といった細かい指摘がいろいろありました。
ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒
2人のキャスティング
——ヴィルジニー・エフィラさんと岡本多緒さんは、文化的背景だけでなく、佇まい、声の質、身体のあり方も大きく異なる俳優ですが、物語においてはその違いがむしろ親密になるための引力になっているようにも感じました。それぞれ見事な配役でしたが、お二人に役を委ねる上で、決め手になったものは何だったのでしょうか。
濱口:そこについてはたくさん聞かれるんですが、考えていくと、究極的には「この役は自分のところに来る」という俳優の確信のようなものにこちらが巻き込まれていったような気がしています。もちろん、お話をして魅力を感じたということもありますが、その一方で彼女たちが「この脚本にどれだけ心を動かされているか」ということが大きかった気がします。
今回の2人の役はただでさえ通常の主演の方の3倍くらいの量のセリフがあるし、フランス語/日本語を学んだ上で異なる言語を交えながらやらなければならない。つまり相当な準備が必要になる難しい役なんですが、それも理解した上で、それでも挑みたいという熱量がすごかった。駆け引きなしに「自分がこの役をやりたい」「これは自分の役だ」という非常に強い気持ちを感じました。だから最終的にはこちらが背中を押されたというより、むしろこちらを引きずり込んでいくような感覚がお二人ともにあった気がします。加えて言えば、今回の役はどちらも知性と人間性が必要で、お二人ともその両方を持っている、という印象をお話しながら受けたことも決め手になりました。
——先ほど俳優に対する演出はほとんどしないと語っていましたが、濱口監督は俳優に「余計なことはしないでいい」と伝えるそうですね。外部から何も加えないことによって、何が生まれると考えているのでしょうか?
濱口:確かに俳優には「余計なことはしなくていいですよ。したかったらしてもいいですが、きっとしない方がよく映りますから」というようなことを言っていますね。テキストの本読みは無感情にやってもらうので、その段階では2人は淡々と話すだけでなく、無感情な相手の声をずっと聞いているだけの状態なわけです。で、そこから現場で実際に出てくる感情を否定せずにやってみると、おそらく俳優たちは本読みとの差を感じるのではないかと思っています。「このセリフは、本読みでやっていたときとは何かが違う」と絶対に感じるはずなんです。というのは、本読みに立ち会った自分がそう感じるからなのですが。その違いを受け取って、自分のセリフや行動にも生じた感情を乗せて返していく。そうしたことが、俳優自身が役としての感情を感じるきっかけとして積み重なっていくのではないか、ときに役柄との区別がつかないように見えるのではないか、と思います。
ただ正直、本当のことは分かりません。でも「分からない」と思える状態にまで行くことが大事なのだと思っていて。こちらから俳優を見ていて、「何かやっているな」と思っていると、それはカメラにはっきり映るし、注意深い観客にとってはそれがノイズになり、映画に入っていけなくなる。だからこそ、こちらが見ていても「なぜそんなことになっているのかよく分からない」と感じる状態にまでなってもらうことが必要かなと。
——濱口監督の映画では、偶然の出会いが、その人の人生に最初から用意されていた運命のように見えてくる瞬間があります。本作でも、マリー=ルーと真理の出会いは偶然でありながら、出会うべくして出会ったようにも感じられました。濱口監督は、偶然というものをどのように捉えているのでしょうか。
濱口:偶然は一番大事なものです。本読みも、結局は偶然を待つための準備です。先ほど話したように、相手役から受け取るもの、相手から受け取る感情そのものが偶発的なものでもあるので。撮影現場では、物語に沿った偶然と、物語に沿わない偶然が起こります。その中で、物語に沿った偶然をうまく捉えることができれば、フィクションであるにも関わらず、「これは本当に起きたことなのではないか」という質感が、その場面に与えられることがあると思っています。もちろんすべての場面でそれが起こるわけではありませんが、映画の中の大事な場面では、そういうものが撮れるように、何とか試行錯誤しなければいけないと常々思っていますね。
劇中の演劇の役割
——濱口監督の作品では、「ハッピーアワー」や「ドライブ・マイ・カー」でも演劇が重要な役割を果たしてきました。本作の演劇は、登場人物が“誰かを演じる”ためのものというより、マリー=ルーが自分の人生を外側から見つめ直すためのものとして機能しているように感じました。本作では、この演劇をどのような役割として物語の中に置いたのでしょうか。
濱口:おっしゃった通りのことのような気がします。順序としては、まずマリー=ルーが、智樹(黒崎煌代)という自閉症のある少年と出会い、彼に付き添う。そこで、智樹を迎えにやってきた真理と出会うわけです。そこでは、袖すり合う程度の縁というか、ほんの少しのやりとりがあるだけです。ただ、帰ろうとしたときに真理がマリー=ルーを呼び止め、おそらく何かを感じて、演劇のチラシを渡す。
その後、マリー=ルーにはいろいろなことがあって、演劇を観に来る。最初はただの気晴らしのようなものだったのかもしれませんが、実際に観てみると、そこに自分自身が抱えている問題と深く通じ合うものを見出すことになる。演劇を観ることで、マリー=ルーは自分の置かれている状況をもう一度俯瞰することにもなります。同時に、一つの作品には作家の精神性が表れるものでもあるので、真理という人を、単に対話する以上に知ることにもなる。それがあった上で、Q&Aで自分が感じたことを伝えたいと思う……。そうやって一つひとつ、自分のほうから少しずつ踏み出していくことで、偶然だったものが運命的なものに変わっていく。その最初の大きなきっかけとして、あの演劇があります。
——演劇やその後のセリフの中でも、「不可能を可能にする」という言葉が何度か使われています。この言葉は、本作のテーマとして最初から意識されていたのですか。
濱口:よく漫画なんかで「ラスボスを強く設定しすぎてしまう」ことがあるって言うじゃないですか(笑)。それに近い感覚ですね。リサーチを重ねながら脚本を書いていく中で、解決しようのない問題を映画の中に持ち込んでしまった、という感覚はありました。とはいえ、映画はどこかで終わりを迎えなければならない。そして原作自体も、ある意味ではそういう「不可能を可能にする」チャレンジを扱っていると思います。原作に沿うような形で、なおかつ生命力のようなものを感じさせながら映画の終わりに向かうとしたら、それはどういうことなのか。その自分自身の問いが、あのセリフになっている気がします。
——また印象的だった会話の一つが、ホワイトボードで交わした資本主義構造の話です。そこについてはどのように思いつかれたのでしょうか?
濱口:複合的なものだと思います。単純に映画として面白く、ということ。彼女たちの生きている世界の問題と、私たちの生きている問題を串刺しにして、一気に示す場面にできたら、それは面白いであろうな、ということが一つ。プラスもう一つ。ナンシー・フレイザーの「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」(ちくま新書)という本があって、原題は「Cannibal Capitalism」で、「共食い資本主義」という意味です。その本に書かれているそのままではないし、彼女たちがフレイザーを読んでいると設定しているわけでもない。ただ、資本主義的な社会構造というのが、私たちの身体やプライベートな時間っていう「個人的だと思っている領域」まで食い込んでくるものなのだ、という気づきは、その本をかなり参照しています。
フランスと日本の制作現場の違い
——本作では、「人間を人間として扱う」理想的なケアのあり方が描かれている一方で、それを実践しようとする現場には、制度や人員、時間、予算といった現実的な制約があり、さまざまな摩擦が生まれる姿も描かれていました。海外のインタビューでは、その問題を映画業界の課題とも重ね合わせて語られていましたが、映画制作もまた、効率や成果を求められる中で、人を人として扱うことが難しくなる現場だと思います。本作を経て、映画の現場におけるケアや倫理について、改めて考えたこと、あるいは考え方が変わったことはありましたか。
濱口:基本的に日本の映画業界というのは、本来であれば成立しないような状況で映画を作り続けているわけです。簡単に言えば、一日あたりの長時間労働と、それを一カ月ほど集中的に続ける「長時間集中労働」のようなものがある。普通の職業の現場であれば、当然「そんなことはやっていられない」となるはず。その無理な合わせ技がなぜ成り立ってしまうのかというと、いくつか理由があると思います。一つは、映画や創造行為そのものが持っている、ある種の魔力です。創造行為には正解がないので、やろうと思えばどれだけでも試行錯誤が可能で、時間がその分かかる。それでも、それで何か成果を出せれば、やっている本人たちはかけがえのない喜びを得る。
ただ、かつての撮影所が機能していた時代には、その労働に見合う程度の対価も支払われていたのだと思います。ただ映画産業そのものが経済的にはどんどん縮小していく中で、「創造のためにできることをやる」という伝統だけが引き継がれてしまった。それで本来であれば無理筋であることが、いまだに残ってしまっている状況があるのだと思います。日本の映画現場の労働状況を話せば、ヨーロッパの人であれば誰でも驚きます。フランスのスタッフに話したときも、悪気はまったくないのだと思いますが、「自分たちはすごく恵まれているんだな」と、遠い目で神に感謝するような反応をされました(笑)。こちらとしては少し自虐交じりに話したつもりでも、相手の反応を見て、これはまったく笑えない話なのだと改めて感じました。そういう外側の視線が入ることで、自分たちがかなり異常な状況でやっているのだということが腑に落ちてきます。
記者会見でもお話しましたが、フランスではプロダクションに関わるスタッフから「日本の予算表を見たけれど、日本で1の費用でできると思っていることは、フランスでは3かかります」と言われました。なぜなら、フランスではまず、スタッフの人件費が高い。円安の影響もありますが、根本的に物価も違う。そして、法律や協定で定められているため一日の労働時間が短い。その分、撮影日数そのものが増えていきます。だから、日本と同じようにできるとは思わないでほしい、と言われました。
もちろん、この日本の状況は改善されなくてはならない。ただ一方で、すべてを急に変えられるとは思っていません。習慣を崩すことは非常に難しい。今から相場の3倍を払って、スタッフを雇用しようと自発的に考えるプロデューサーはいないわけです。そして、それは単にプロデューサーだけの責任ではない。撮影現場の習慣を、自分たちの身体や生活上の限界を基準にしたものに少しずつ変えていく必要があります。自分はこれからも、小さな制作と大きな制作を行き来していくのではないかと思っています。その中で、十分に小さい規模の作品であれば、それまで1000万円で作っていたものに3000万円かける、といったことのリスクは比較的小さいはずです。そういうところから始めることは可能なのではないかとも思っています。本作の経験を経て変わったことといえば、このままでは日本の映像産業は持続不可能なのだ、という認識をはっきり強く持ったことだと思います。
——フランスはスタッフやキャストが各職種ごとの労働協約で守られていたり、アンテルミタンという特別な失業保険があったりと関わる人たちの働き方がかなり守られているんですよね。エキストラも皆さん契約して、きちんと賃金が発生するし。
濱口:そうなんです。職業エキストラの方々が存在しています。その方たちにも残業代のような手当も出ます。
——そういった労働環境の違いは、作品の撮り方や現場での判断に影響を及ぼしましたか?
濱口:めちゃくちゃ影響しましたね。日本とフランスの映画撮影における顕著な違いは、日本はとにかく準備をする。一方で、フランスはかなり即興的にやる、ということだと思います。もちろん、日本のスタッフもフランスのスタッフも、どちらもものすごく優秀です。ただ、日本のスタッフの優秀さがどこで発揮されるかというと、二重、三重の準備をすることです。例えば「このロケーションはこの一日しか借りられない」となると、その一日でどう撮りきるかを考える。雨が降ったらどうするのか、あるいは別の想定外のことが起きたらどうするのか。そうやってプランA、B、Cくらいまで、かなりきちんと準備をしてくれる。それは監督としては非常にありがたく、安心することでもあるんですが、一方でスタッフにとっては二重、三重の労働を一つの場面に対してしなければならないということでもある。自分としてはシンプルに撮るつもりでも、スタッフはまだ準備のために帰れない、ということがよく起こる気がしています。
一方、フランスの場合は、例えばロケハンのときに誰も脚本を持っていなかったりする。「あれ、ここで何を撮るか知っています……?」と思いつつ、「でもここに電源があるから、ここから照明は出せるかな」とかの本当に一般的な確認ぐらいで進んでいく。でも、それには理由があって、フランスの撮影現場では脚本は当日に変わる可能性が高い。だから事前に読み込んだとしても、無駄になる可能性が高い、という考え方のようです。これはヌーヴェルヴァーグ以来の伝統らしいですが、「即興こそ至高である」と。つまり、当日に監督が霊感を受けて、「今ここで撮るべきものはこれだ」と思いついたときに、その監督が求めるものを差し出せるか否か。そこに対応することが、フランスのスタッフたちのある種の矜持としてあるようでした。もちろん、カット割りや照明配置など、ある程度の準備はしますが、日本の準備に慣れていると「これで大丈夫ですか?」と思うところもあるし、いざ撮影が始まってから「あれはないんですか?」となることもある。でも、そこで「大丈夫です。買ってきます」となって、午後には撮れる。それまではリハーサルをしている。こちらとしても、もともとリハーサルをするつもりだったから、まあいいか、となる。そして最終的には「ほら、撮れましたね」という感じになるんです(笑)。特に大事なシーンに関しては、2日ぐらいかけられるような、余裕のあるスケジューリングになっていました。だから1日目に「本当に大丈夫だろうか」と思っていても、2日目にはちゃんと撮れたりする。
どちらが正しいと言う気はまったくありません。僕個人としては、ある程度準備して、ある程度即興できる状態が一番ありがたい。ただ日本の現場では、事前にガチガチに準備を固めるがゆえに、その場で思いついたことをやることが、それまでのスタッフの努力を無にすることになる場合があるんです。何度もそういうことが起これば、スタッフも当然「えっ」となりますよね。自分も何かを変更することにプレッシャーを感じる。その点、フランスの現場では、「今この場で正しいと思ったことを言っていいんだ」という感覚がありました。実際にフレームを見て「これは少し違うな」と思ったら、その場で言うことができる。もちろん限度はありますけど、それは非常に心地よかった。自分はそれなりに準備をする習慣も持ち込めたので、最終的には結構バランスよく、大きな自主映画をやっているような感覚を持ちました。実際のところ、それは結構理想的な感覚で、今後もそんなふうに撮れたらよいな、と思いましたね。
——1日の労働時間は厳しく決まっているのに、その場での融通は利くというのが面白いですね。
濱口:1日の時間は厳しいけれど、その分、横に伸ばすというか。そもそも撮影全体のスケジュールが日本の2倍ぐらいの長さがありました。そのことで、その場での判断が可能になっているのだと思います。
——あと、フランスの映画制作現場はケータリングのご飯が美味しいと黒沢清監督がお話していました。
濱口:そうですね。ケータリング業者が来て、前菜、メイン、デザートとコースで出してくれるんです。業者によっては、フランスのスタッフが「ここはまずい」って言ってたりするけど、こちらとしては「いや、どれもまずくないけど……」と思ったりしていました(笑)。食に求めるレベルが根本的に違う。
——韓国の現場も温かいご飯が出ると言いますし、日本でもそれが普及してくれるといいんですが。ちなみにフランスで撮るにあたって、黒沢清監督とお話はされたんですか?
濱口:しました。アマンディーヌ・エスコフィエさんという方がフランス版「蛇の道」でも助監督をしていて、彼女に「急に具合が悪くなる」にも入ってもらったんですが、「アマンディーヌがいるならもう大丈夫だよ」と言ってましたね(笑)。実際、さっき言った準備の話なんかも、彼女の理解なしにはフランスでは決してやれなかったと思うので、とても感謝をしています。
最後に食事の話に戻って言うと、日本の弁当は世界でも類を見ないほど美味しいとは思っていますよ。もちろん、あったかいとより嬉しいのは確かですけど。何にでも言えますが、不足を感じていないことまで何でも最上位の基準に合わせる必要はない、とは思います。一方で不足を感じること、これはおかしいと思うことはいくらでも不満を表明していいとも思っています。ただ、これはそういうことを口にできる雰囲気がないと難しい。なので自分としては、まず違和感を口にできる雰囲気を作るところから始めたいと思っています。そういうことが、最終的に現場を大きく変えていくことになるとも思うので。
PHOTOS:MASASHI URA
映画「急に具合が悪くなる」
◾️映画「急に具合が悪くなる」
6月19日からTOHO シネマズ日比谷ほか全国ロードショー
出演:ヴィルジニー・エフィラ 岡本多緒 長塚京三 黒崎煌代
監督:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著「急に具合が悪くなる」(晶文社)
製作:Cinéfrance Studios、オフィス・シロウズ、ビターズ・エンド、Heimatfilm、Tarantula
配給:ビターズ・エンド
提供:Soudain JPN Partners フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作
https://www.bitters.co.jp/soudain/









