転シバ 第9話:パパはスパイだった!?
今朝もまた、お父さまとわたくしは“スパイごっこ”に勤しんでおりましたの。
けれど……どうしてかしら。
今日は風の匂いが、ほんの少しだけ違っていて。
冗談のつもりだったのですわ。
すべてが、冗談のままで終わると信じていたのですのに。
金剛山のふもとにある津村家の朝は、いつも通り騒がしい……はずだった。
「おはよ〜。……って、なにやってんの?」
朝食のテーブルに座ったあいこが見たのは、新聞を逆さに広げ、チラチラと窓の外を伺う父・忍の異様な姿だった。

「……あれが暗号だとしたら、次の行動は……」
「何が!? 何の暗号なの!?」
「ふむ。新聞の誤植、今日は多いな……これは通信の兆候……」
「パパ! それただの校正ミスや!」
忍は唇を引き結び、まるでスパイ映画の主人公のように椅子を引いて立ち上がる。
「ついに来たかもしれん……奴らが……」
「また始まった……」
「いや、今日の空気は違う。体が覚えている。これは“接触前夜”の匂いだ」
「どんな匂いやねん!」
そんなやり取りに、母・静花はキッチンでパンケーキをひっくり返しながらニコニコしている。
「うちの忍くん、また妄想スイッチ入っちゃったんやな〜。でもいいよね、妄想ごっこ、家庭円満の秘訣!」
「秘訣というか、爆弾ですけど!?」
そのとき。
「……何者かが……来る……わたくしのことを知っている者が……」
静かに目を細めたのは、ソファに座る柴犬・アンちゃんだった。
「今、なんか言った!? ていうか物騒!」
「気配を感じますわ。空気の流れが変わった……」
「そんな犬おるかい!」
インターホンが鳴ったのは、その直後だった。
「ピンポーン♪」
玄関のモニターに映ったのは、黒いスーツにサングラスの男。
「こんにちは。動物登録に関する確認で、お伺いしました」
「敵の工作員か!!」
「違うから!」
すでに忍は走り出していた。
なぜかタキシード、サングラス、蝶ネクタイ、そしてカツラという完全変装スタイルで。
「通信装備よし。ルートC確保。突入用トラップ展開……!」
「いや、家の中でなにしてんの!?」
「静花、変装メイクを! アンちゃん、コードレッド発動だ!」
「了解いたしましたわ!」

アンちゃんも便乗し、ルンバにスマホを取り付けた“自作監視装置”で廊下をパトロールし始めた。
「わたくしの任務はただ一つ──家族を守ることですわ!」
「ほんで何でノリノリやねんアンちゃん!!」
忍は玄関をそっと開け、カツラを直しながら言った。
「お名前は?」
「市役所の……」
「貴様の名前、所属、目的、そしてコードネームを言え!」
「ちょ、ちょっと何を──!」
「黙れ! 我々には貴様の背後に潜む影が見えている!」
「ちょ、パパ!! 通報されるって! 完全に事案やって!!」

男は冷や汗をかきながら、後ずさる。
だが、アンちゃんはその声を聞いた瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「……その声……」
一瞬のフラッシュバック。

血の匂い。燃える宮殿。仮面の兵士。
逃げ惑う民衆。崩れ落ちる石畳の上、背中に感じた視線。
──あのときの裏切り者。
「あなた……! あの時の……!」
リビングに戻ったアンちゃんは、忍に駆け寄った。
「……忍。わたくしと交信できますわよね?」
「もちろんだ」
忍はすぐにポケットから古びた小型トランシーバーを取り出すと、無言でアンちゃんを見つめる。
「──しっぽでモールス信号送るから、受信お願い」
「了解!」
しっぽでタッタッタ……
「“敵、確認、対応を”……!?」
「まさか、モールスが成立してる……!? アンちゃん、通信できたん!?」
「この状況で感心してる場合ではない! 作戦コード・オペレーション・しばけん、発動!」
「ネーミングセンス!」
忍は秘密の床板を開け、地底トンネル(という名の物置)に通じる通路を開放。
「陽動だ、あいこ! あの男を引きつけろ!」
「なんでうちが陽動役なん!? てか物置やろこれ!!」
「アンちゃん、追跡を! わたしはバックアップに回る!」
「お任せを。わたくし、諜報活動には定評がありますのよ」
「定評……誰の間でよ……」
訪問者はあいこの圧とツッコミに押されて退散したが、どこか釈然としない様子だった。
そして場面は切り替わる。

暗い部屋、壁には無数のモニター。
中央に立つ一人の男が、画面をじっと見つめていた。
「対象C-1“アン・フランソワ”、所在確認」
コードネーム“Ω”。
男の口元が、冷たく歪んだ。
「次のフェーズへ進行する」
画面には──柴犬・アンちゃんの姿が、鮮明に映っていた。
To Be Continued…
