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伸ばした手|ひとりじゃない⑦

彼女は今朝も息子を急かして家を出た。結局遅刻ギリギリだ。
子どもを遅刻させるわけにも、自分が遅刻するわけにもいかない、と彼女は思う。

「ママ、走らなくても大丈夫だよ」六歳の息子の声。人の気も知らないで、と腹立たしく思うと同時に小さな子どもに心配されている自分が情けなくてたまらなかった。

その頃駅前のコンビニではアルバイトの田中が、おにぎりの棚の整理をしていた。
(そろそろあの親子が来るころだ)
少しでも見やすく取りやすいように並べておこう。

彼女が朝食用のおにぎりを買う時、田中は「お疲れ様です」と声をかけた。
彼女は疲れた顔を見られたくなくて、うつむいたまま受け取った。レジを離れる彼女と子どもを見送るように、田中の声がした。「ありがとうございました」

通勤電車は今日もすし詰めだ。稲葉は、目の前の席が空いたことに気づき安堵する。残業続きで、正直身体が辛かった。身体を動かしかけたその時、彼は自分の隣に子どもを抱いた女性がいることに気づいた。満員電車で子連れはさすがにキツイ。稲葉は女性を促し、席を譲った。

彼女は「すみません」と小さく頭を下げ、おずおずと腰を下ろした。私は周りに迷惑をかけてばかりだ。少しばかり身体を休められることに感謝しつつも、彼女の心は落ち着かなかった。

稲葉は我が子が幼かった頃のことを思い出し、目を細めながら親子を見ていた。


職場に着くと、机の上では、昨日の残務の書類がいつのまにか整理されて彼女を待っていた。同僚の山田が、おはよう、と明るく彼女に声をかけた。

彼女は「あっ、どうも」というのが精一杯だった。自分の仕事なのに、また人に頼ってしまったことが悲しかった。

昼休み、同僚たちの楽しそうな会話が遠く聞こえる。彼女は一人で弁当を食べながら考えていた。

どこで人生を間違ったのだろう。夫がいれば、こんなに周りに迷惑をかけずに済んだのに。伸ばした手は空をつかむばかりだ。

午後、保育園から彼女に電話がかかってきた。息子の発熱だった。
またか、と思いながら上司に頭を下げて彼女は早退した。

事務所を出る彼女に課長の黒田は「お大事に」と声をかけた。そして彼女の机の上の書類を山田とともに選り分け、期限が間近なものを分担して対応することにした。
「ありがとう、山田さん」
「いえ、お互い様ですから」

保育園にお迎えに行く途中の彼女はいたたまれない思いでいた。
(黒田課長も山田さんも、内心では呆れられているに違いない)

保育園では、息子の具合を教えてもらい、ぐったりする息子を抱き上げた。

延長保育料が未払いとなっていることを彼女が詫びると柴崎園長は言った。

「今月は発熱での早退が多かったから、それで差し引きゼロにしましょう。心配しなくて大丈夫ですよ」

月末で金銭的に厳しい彼女にとってその申し出はありがたかった。でも彼女は、これはただの甘えだとも思った。きちんと払えない自分が惨めだった。

親子を返したあと、園長室に戻った柴崎は、途中になっていた「やることリスト」のチェックを再開した。対応済み項目には、二重線を引いていく。延長保育料請求、の行を前に柴崎は思った。
「公平性は必要だわ。ルールも守らなければいけない。けれど、人生にも人の気持ちにも杓子定規なルールは似合わない」

息子を病院に連れて行った帰り道、重い買い物袋を下げていると、とおりがかったマンションの管理人の加藤が「お手伝いしましょうか」と声をかけた。でも彼女は「大丈夫です」と断った。これ以上、人の世話になりたくなかった。

マンションに着くと、加藤はエレベーターのボタンを押し、同じエレベーターに乗り込んだ。「上の階に用事があるので」と言いつつ、彼女の部屋のある階と最上階のボタンを押した。
お疲れ様と言って彼女を送り出したエレベーターは、最上階に着くといったん開いたドアを閉めそのまま降りて行った。


彼女は夜、息子に解熱剤を飲ませ、寝顔を見つめていた。この子にも苦労をかけている。シングルマザーの子どもだからということで、普通のことをしてあげられていない。
「ママ、一緒にねんねしよう」寝ぼけた息子がそんなことを呟いた。
一緒に寝て、ではなくて、一緒に寝ようだった。
六歳の子どもに心配されるなんて。私は母親失格だ。

壁越しに隣の部屋の生活音がかすかに聞こえる。きっと普通の家族が、普通の夜を過ごしているのだろう。

窓の外では、マンションの明かりがぽつぽつと灯っていく。

彼女は思っていた。世の中には自分と同じように一人で頑張っている人もいるかもしれない。でも、それは慰めにはならない。私はやっぱり一人だ。いつも誰かに迷惑をかけて、いつも謝ってばかり。こんな人生、いつまで続くのだろう。

息子の熱い額に手を当てながら、彼女は小さくため息をついた。


誰もが自分の人生を必死に生きている。今日彼女たち親子と関わった人たちにもそれぞれの人生があり、それぞれの悩みがある。誰かの痛みを常に気遣うことができる者はいない。

そんな日々の中でも、ひとときの関わりに、多くの手が差し伸べられている。そのことに彼女が気づくことができる場面は少ない。

差し伸べられる手は見返りを期待しているわけではない。そして、彼女は、今日も孤独を抱えて眠りにつく。

その孤独は彼女独りのものではないのだけれど。






ひとりじゃない――――――――――
シングルマザーの日常
雨の日のお迎え 🪑待合室の30分 😌お帰りなさい 
🌊どこから来たの 📅特別な日 ☂ひとつの傘 👤憧れの後姿
⏱六時過ぎのお迎え


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