あいをしるひと①
あらすじ
マキの恋人のショウがある日突然、ごめんねと置き手紙を残して消えてしまった。
ただ静かに忘れようとしていたマキは、以前助けたことのある近所の女の子・みゆと久しぶりに再会する。
事情を聞いたみゆは、マキの消えた恋人を探そうとする。
だが、素人が人探しをすることの難しさを実感して行き詰まってしまい、みゆは友人である双子の姉弟のあさとよるに相談を持ちかける。
自分たちでは限界があるだろうと結論が出たとき、偶然探偵のゴトウに出会う。
これを逃すまいとみゆは、ゴトウに頼み込んでショウを探してもらう。
そして無事に見つかって、ショウの口からなぜ消えたのかが語られていく。
わたしは、愛を知っている。
愛という呪いを、知っている。
なにも、足りていないと思う。だけど、だからこそ求める。もっと、もっと『なにか』を。そのなにかが愛だったとき、人は壊れてしまうのかもしれない。
「なんと言うか、なにも救わない希望もあるよね」
「んー?」
「なんでもない。サンの散歩、行ってくるね」
「ありがとう、よろしく」
なんの話だったんだろうか。そのときマキは、ニュースを見ていた。同棲中の恋人のショウは、パソコンに向かっていて。お互いに目を向けることのない会話は、いつから当たり前になったのか。ただ、なんとなく、そう言えばこのころから少し様子がおかしかったなと、思う。当時は気づけなかったけれど。
どんどん過ぎ去っていく季節と、思い出と。愛は頭ではなく、心で覚えておくものだとどこかで誰かが言っていた。それを聞いてマキは、確かに、いい言葉だと思った。けれどいつしか、心で覚えた愛に、囚われてしまった。それがよくないことだと分かっているのに、どうにもしようがなく、待ってしまっている。
「置いてかれちゃったのにね」
サンは、彼の飼い犬だった。頭を撫でるといつも、誇らしげに鼻を鳴らすかわいい子。マキもサンも、ショウの影を追うことはしなかった。なぜ、いや、それはきっと考えたって仕方のないことで、どうせ、過ぎていってしまうことなのだ。
小さなころ、自分の目には映らない色があるのだと、母親から教えられた。マキはそれを、分からないと突っぱねた。だって、知らないから。どんな色も、自分には分からないのだから。
彩りの世界は、どんな風に輝いているのか、知らないまま大人になった。色のない世界を、それでもこれは自分だけの世界だと、自負してマキは生きてきた。
「ちゃんと、綺麗だよ」
嘘つき、綺麗だと思ったことなんてないくせに。ただ、静かだから。その静寂を綺麗だと言い張っているだけ。だけど、そんなマキの強がりをショウはそうかと一言肯定した。それが、なによりマキは嬉しかった。ただ、それだけでよかったのに。それだけが、嬉しかったのに。
「泣いちゃいそうよ、バカみたいね」
学生時代に酔った末の悪のりで作った曲を、マキはたまに、思い出したように口ずさむ。安っぽい、今の状況によく似合うその歌詞は、出てきた場所に沈んでいく。ふわふわとした心に、沈んでいく。
ただ、なにもできずじっと待っている。だけど、きっともう戻らないのだろう。その事実を、まだ受け入れられないでいる。愛してる、愛してた、その愛に、マキは傷つけられた。
「これだから、愛ってやつは」
笑ってみても泣いてみても、結局なにも変わらず、みんな目の前を過ぎていってしまう。静かに、そのひんやりとしたグレーだけを残して。まぁ、この件に関してはまだ泣けてはいないのだけれど。なぜか、涙は出なかった。悲しいのに、その悲しみは外に出たがらなかった。
「ワン!」
普段あまり吠えないサンの鳴き声にハッとして、マキは無意識にリードを強くに握った。だけど現れた人物に、すぐに警戒を解く。
「サンー久しぶりだー」
しゃがんで抱えこむようにサンを撫でているのは、みゆという女の子。近所に住むおばあちゃんのお孫さんで、家庭の事情で中学から高校を卒業するまで、おばあちゃんと一緒に住んでいた。
「マキちゃん、こんにちは!」
「こんにちは」
少し、痩せただろうか。心配になるほどではないが、それでも気になってしまう。小さなころから知っている、マキにとっては妹のような存在だから。
「学校、楽しい?」
「んーうん、まぁまぁ!」
マキはその正直さに、思わず笑ってしまう。まぁまぁかーなんて言いながら、差し出された手にリードを渡してやると、みゆはやったと呟いてサンと駆け出して行った。ゆったり後を追って、並んで座るその隣にマキは腰を下ろした。
「マキさん、結婚しないの?」
「…しないかもね」
「なんで?せんせーと付き合って、結構長いよね?」
「そっか、知らないのか」
「え、なに?」
「ショウね、出て行ったの。多分、もう帰ってこないと思う」
「うそ、え、だって先生…あれ?」
少し前だった。ジュエリーショップで見かけて、声をかけると内緒だよとショウは指輪を見せてくれた。みゆは、そのときのショウの幸せそうな顔を思い出しながらうそだと繰り返した。
「ごめんねって置き手紙があったの」
信じられない、そう零して、みゆは隣のサンごとマキを抱きしめた。だって、そんなのひどい。ごめんの一言で全部捨てて行っちゃうなんて。
みゆが卒業したあとすぐ、ショウが異動すると聞いた。あまり気にしてはいなかった。マキのところに行けばどうせ会えると思っていたから。
もしかしたら、誰も知らない何かが彼を蝕んでいたのかもしれない。でも、それでも、ひどいと思う。だって、今目の前で泣いてるのはマキちゃんだもんと小さく呟いて、みゆはぎゅうぎゅうとマキを抱きしめる。その両の手に、マキは彼女の成長を思った。
「いつの間にか大きくなったんだね」
諦めた顔をしているマキが、みゆはどうにも気に入らなかった。お似合いだった。みゆは、二人が並んで歩く背中が、大好きだった。マキとショウを繋いだのは、みゆだったのだ。
ショウは、みゆが通った中学校の先生だった。真面目、とは言いがたかったが、しっかりと生徒を見ている人だった。自分と関わりがなくても、俯いている子を見つけては、よく声をかけていた。
みゆも、その一人だった。幼い頃に両親が離婚して、そこからひっきりなしにいろんな男の人が家に来た。あまりいい環境とは言えなかったそこは、それでもみゆの居場所だった。
だけどある日、母親が言った言葉が、みゆの居場所を奪ってしまった。アタシの男に色目使ってんじゃないわよ、と。それはみゆの世界を、少しだけ傾けてしまった。祖母の家に預けられたみゆは、捨てられたんだと思った。そこで母親が恋しいと思えていたのならばまだ、可愛げのある子どもでいられたのかもしれない。
みゆの心は、荒れ果てていた。だけど、そんなみゆに祖母は優しかったし、近所の人もよくしてくれた。特にみゆはマキに懐いた。マキの纏う空気が好きだった。
母親が、一番身近な大人が、とてもわがままな人間で、周りを巻き込んでいく騒がしい人だったから、余計に。マキの自分と他を分ける落ち着きが、静けさが、好きだった。
卒業式を間近に控えた日曜日の昼下がり、みゆはマキとのんびり散歩をしていた。あの日は特にみゆの口は滑らかに回って、いろんな話をしていた。進路のこと、将来のこと、母親のこと、心配事、新しい友だちのこと。今生の別れが迫ってるのかというほど、余すことなく話した。マキは優しい相槌でそのとめどない話を聞いていた。
そうして、いつもの二人の定位置に腰を落ち着けたとき、サンがショウを引き連れてやってきた。まるで、ショウの方が散歩されているような勢いで。
学校の先生と、近所のお姉さん。二人の視線が重なるのを見たみゆは、ちょっといいことをした気分になった。余計なお節介かなとは思いつつも、ショウにサンを散歩させてほしいと頼み、戻るまで先生をよろしくねとマキに言った。
サンと走りながら遠目に見た二人を、みゆはすごくお似合いだと思った。 あの人たちの視線の先の自分は、歪んでない。母親から見る自分は、きっと歪んでいるんだと思う。ちゃんと、まっすぐ立ってるって、分かってほしくて、見てほしくて、だけどそれは叶わなくて。
祖母も、優しいけれど、やはり手に余るのだろう。みゆのいい部分だけを見ているように思う。だけどマキとショウは、みゆの良くも悪くもを見ていてくれるから。そういう二人だから、一緒にいてほしいと思った。
ずっと、頭から離れなかった光景がある。狭くて暗いアパート。母を待つ、あの時間。
帰ってきた母が一人じゃなかったときの絶望感。長い夜が始まって、ただひたすらに朝を願う。
なにも届かなかった、あの人には。受け取ってはくれなかった、あの人は。今はもう遠いあの場所は、だんだんとみゆから消えつつある。
「みゆ、そろそろ帰ろうか」
「…マキちゃん、みゆが先生見つけるから」
「もういいんだよ」
それは、マキの本心だった。でも、もういいと言いながら、待っている。ここから動けない。それは呪いのようで、あのごめんねは正しく謝罪の意味しかないだろうに、マキにはどうしても待っていてに見えるのだ。何度も何度も見返したあの紙切れは、もうすでにボロボロなのに、思い出は残酷にきれいに、マキの目に焼き付いている。
きっと、これからもマキは泣かないと思う。だけどいつか待たなくなったとき、そのときは泣いてしまうかもしれない。
「ウソだね、それはウソだ」
ウソにしたかったのはみゆだったけれど、そう言い切った。マキが動けないのなら、自分が動けばいいだけ。なんと言われようと、二人を戻したい。 それがみゆのワガママでも、本当に終わってしまったことだったとしても、まだ切れていない糸があるのだとしたら、それは自分だとみゆは信じている。
「マキちゃん、今度はみゆを待っててよ」
目を細めてマキは、浅く頷いた。誰にも分からないような、自分すらも分かっているのか怪しい心の奥底を、みゆに預ける。
本当は、何度か探してみようとしたことがあった。だけど、感情が邪魔をするのだ。別の人生を見つけたのだとしたら、拒絶をされたら、もういらないと言われたら。
安易に人を傷つけるような人じゃないからこその、あの置き手紙だったんじゃないか。めくってはいけない、書かれなかった二枚目があるような気がして、マキはずっと動けなかった。
ショウの幸せを、願っている。だけど、マキの幸せは彼のもとにあるのだ。
あなたが連れ去った
わたしの幸せを、
返しにきて
マキはみゆに、あの置き手紙の返事を託した。
