【連載小説】君の消えた日-二度の後悔と王朝の光-118話 魂の境界6-淵に臨みて網を結ぶ-
【前話】 【最初から】 【目次】 【第二章番外編】 【第三章番外編】【第四章番外編】
東雲医院の静まり返った一室。
柊は真っ白なベッドに腰掛け、右手を虚空へ伸ばし、祈るように目を閉じていた。
身体の奥底から絞り出すように生気を集中させる。額に滲む汗を拭う余裕すら惜しみ、自らの守護獣である澄義への問いかけを、血を吐くような思いで続けていた。
――『私も、あんな風に誰かに見つけてほしかった』
柊の脳裏に、文芸部の冊子に刻まれた言葉が蘇った。
(椛がいつ暴走するかも分からない……早く現状を打開しないと……!)
「――澄義、聞こえる? お願い、答えて……」
意識を針の穴に通すような極限の集中。その果て、意識の混濁した境界線で、懐かしい残響が耳朶を打った。
『――柊ちゃん……』
「澄義……!」
愛おしい声が鼓膜を震わせた気がして、弾かれたように目を開ける。
だが、そこには白々とした無機質な蛍光灯の光があるだけだった。
現実の病室は、相変わらず静まり返っている。それどころか、部屋の隅で丸くなっていたはずの守護獣、クロの姿も消えていた。
「クロ……?」
嫌な予感が胸を掠める。柊は重い身体を支えて病室を出た。廊下を見渡すが、小さな漆黒の影は見当たらない。
まだ診療時間内であるはずなのに、一階から聞こえてくるはずの患者の声も、スリッパが床を打つ音も、何一つ聞こえてこなかった。
静寂が、あまりに濃密すぎる。
縋るような思いで階段を駆け降りたが、受付にも待合室にも、人の形をしたものは存在しなかった。
「美鶴さん……?」
診察室や事務室の扉を次々と開ける。だが、そこにあるのは無機質な医療器具と、冷え切ったデスクだけ。
世界から自分以外がいなくなってしまったような錯覚。しかし、それ以上に不可解な感覚が柊を襲った。
(誰もいない……いったいどうして? でも、待って。――なんで私、普通に歩けるのかしら?)
ふと気づいた身体の違和感。柊が己の両足を確かめようと視線を落とした瞬間、足元に刺すような冷たさが走った。
音もなく、濁った水が床を浸食していた。水嵩は瞬く間に増し、足の付け根まで迫ってくる。
「――っ!?」
思わず後退りしようとしたが、その水は鉛のように重く、柊の自由を奪った。透き通っていたはずの水の色は、みるみるうちに粘り気を帯び、禍々しい血の赤へと変貌していく。
「――きゃぁぁぁぁぁ!」
「索冥!索冥、落ち着いて!」
絶叫と共に目を開くと、視界は真っ暗だった。
だが、すぐにそれが顔を覆っていたクロの柔らかな毛並みだと気づく。クロを抱きかかえるようにしてゆっくりと横に下ろすと、小さな獣は見たこともないほど心配そうな顔で、柊を見上げていた。
全身から嫌な汗が吹き出し、肩が激しく上下する。
「……クロ? 私、また……」
「良かった。澄義に呼びかけをしている途中で、突然倒れたんだよ。すごく苦しそうで……僕、どうしたらいいか分からなくて」
「……心配をかけてごめんね」
震える手でクロを抱き寄せると、彼は悲しげに藍色の瞳を伏せた。
「最初に会ったときより、君の魂が不安定になってる」
「……精神世界で、澄義に『水底に引きずり込まれた瞬間に自我を失う』って言われたんだけど。最近、よく夢を見るのよ。誰もいない世界で水が侵食してきて、回数を重ねるたびに水位が上がっていく。今度は、その水が血の色に……」
柊は両腕で自身の肩を抱き、微かに震える息を吐き出した。過酷な修練を積み、幾度も死線を潜り抜けてきたはずの鍛え抜かれた身体が、見えない恐怖に対して強張っている。
「もうやめなよ。ただでさえ不安定なのに、自我の消失を早めたいの?」
「このまま自我が消えるのを、ただ待っていることなんてできない。もう、これ以上後悔したくないから」
「後悔?」
「そう……私には後悔しかないの。前世でも現世でも、守りたい人を守れなかった。私が弱いばかりに、大切な人たちをたくさん傷つけてしまった」
そういって柊は俯いた。窓から差し込む秋の柔らかな日差しが、真っ白なシーツの上に落ちている。本来であれば誰よりも疾く駆け、前衛として戦い抜くための強靭な足が、今は重い石のように動かない。
彼女はその膝の上に、自嘲するように両手を重ねた。
「……ねえ、クロ。自我を失う前に、私の昔話を聞いてくれない? 情で良いから」
「……仕方ないから、付き合ってあげるよ」
「ありがとう」
少し開いた窓の隙間から、秋風が乾いた落ち葉の匂いを運んでくる。
柊はベッドの背もたれにゆっくりと身体を預け、遠い空を仰ぐように目を細めた。彼女の瞳に映っているのは、見慣れた駒葉市の静かな空ではない。
千年前の、血と泥に塗れた都。あの子と出会った日の、あの光景だった。
「前世での任務終わりのある日、私は口減らしされそうになっていた十の男の子を見つけたの。五麟は五麟同士が近づくと痣が呼応する……彼が五麟であることはすぐに分かったわ。持っていた砂金を手渡して彼を保護したの。都に戻って主に報告すると、彼を弟子として育てるようにと命を受けたわ」
そこまで語ると、柊はふと口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「私は師としてあらゆることを教えた。剣術はもちろん武術、学問……とにかく生きるために必要なことを全てね。元々は命令でやっていたことだけど、私についてこようと必死に稽古に励むあの子の姿を見ているうちに、自分でも驚くほど、あの子が愛おしくなっていた」
「あの子って……もしかして――」
「ええ。でも、その穏やかな時間は長くは続かなかったわ」
柊の微笑みがスッと消え、声が一段低くなる。クロは小さな耳をピクリと動かし、黙って続きを待った。
「主が亡くなったのは、私が十九で彼が十一の時よ。主は死期を悟っているかのように、『怨霊から人々を救ってほしい。そして師として、角端の成長を見守り育ててほしい』と私に託したわ」
柊の目が、過酷な当時を思い出すように微かに伏せられる。
「後ろ盾を失った私たちを擁護してくださる人は、片手ほどしかいなかった。本当に無我夢中だったわ」
「……大変だったんだね」
クロの痛ましそうな呟きに、柊は少しだけ表情を和らげた。
「ええ。でも、完全に独りだったわけじゃないの。朱雀が支援してくれたおかげで怨霊浄化を続けられたし……何より、斎王様がいらしたから」
「さいおうさま?」
「ええ。いつも私を手紙の届け役に指名して、それを口実に外の世界の話を熱心に聞いてくださってね……。最後に会った時の、あの温かな言葉は、千年経った今でもずっと私の胸に残っているわ」
柊は遠くを見つめ、ひどく穏やかで、けれどどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
やがて彼女は自分の細い指先へと視線を落とす。そこにはもう、剣を握りしめてできた分厚いマメはない。
「けれど……彼が十六の時。私は大切な弟子を守るために自ら盾になり、左目に深い傷を負ってしまった。治療が難しいあの時代、あの傷が元で死ぬのは時間の問題だった」
「だから……『死因』を左目の傷にしないために、私は彼を遠ざけて自ら死を選んだの。伊勢の地に近い河川敷だった……その日は美しい満月で、川は美しく綺羅綺羅と光っていたわ。自分で胸に短刀を突いて生涯を終わらせたことに、後悔なんて微塵もなかった」
迷いのない、凛とした響き。千年前の覚悟が、今の彼女の瞳にも宿っていた。
「従者として、そして師として、誇りを持って死ねたんだもの」
「索冥……それって……」
「前世の記憶を思い出して、現世に転生したと分かった時、真っ先に思い浮かんだのは彼のことだった。けれど……新潟で有坂家にお世話になった時、彼の手記を読んで絶望したわ。――私は、何一つ守れていなかったのね」
柊の頬を一筋の涙が伝い、クロの額にそっと落ちた。
「索冥は、ただ守りたかったの?守るために死を選んだの?」
クロの問いかけは、秋の柔らかな日差しが差し込む病室に、静かな波紋のように広がった。柊は遠い記憶の断片をなぞるように、窓の外で揺れる街路樹の葉を見つめたまま唇を噛みしめる。
「有坂家に残る口伝を聞いたわ……」
柊の指先が、胸元の真っ白なシーツをきつく握りしめる。絞り出すような声には、千年前から凍りついたままの悲痛が混じっていた。
「『彼は死ぬその瞬間まで、索冥の短刀と遺髪を肌身離さず持っていた』と……。彼はどんな思いで、それらを抱き続けていたのか。……私のことなんて忘れて、ただ幸せになって欲しかったのに」
堰を切ったように熱い涙が頬を伝い、クロの黒い毛並みに吸い込まれていく。
「索冥……」
「クロが私に怒るのは当然なのよ。私があの時、彼と出会わなければ、彼は五麟になることも、過酷な戦いに巻き込まれることもなかった。私の死を見届ける必要さえなかった……。私が、彼の人生を狂わせてしまったのよ」
「そんなことない!」
クロの叫びが、午後の静謐が満ちる病室に鋭く響いた。彼は柊の膝の上で立ち上がり、真剣な眼差しで彼女の瞳を射抜く。
「角端は索冥と一緒にいられて、とても幸せそうだった! だから僕は、”あの人と同じ高みに達したい”という角端の願いに応えたんだ!」
「クロ……」
「角端は自分で死に方を選んだんだ。それは索冥が背負うことじゃないよ。君の言う通り、もし死因が目の怪我だったら、彼は心が壊れて五麟の力が暴走してしまったかもしれない。索冥との『約束』があったからこそ、角端はあの後の数年間を、懸命に生きられたんだと思う」
必死に言葉を紡ぐクロの姿に、柊は言葉を失う。その小さな体から伝わる熱量は、彼女が抱え続けてきた冷たい罪悪感を、少しずつ溶かしていくようだった。
「でも、僕は……自分でその生を終わらせた、その選択が許せなかったんだ……」
クロの大きな瞳が潤み、声が微かに震える。柊はそっと手を伸ばし、項垂れる柔らかな背中を慈しむように撫でた。
「クロは、角端のことがとても大切だったのね」
「……それは、索冥もだったんでしょう?」
その問いに、柊は言葉の代わりに、胸が締め付けられるような微笑を返した。クロは小さな身体をさらに縮こまらせ、ぽつりと声を漏らす。
「ごめん……僕、索冥のこと誤解してた。僕たち、角端の心を守れない者同士だったんだね。……じゃあ、きっと仲間になれる。千年越しに仲直りしようよ」
クロの大きな藍色の瞳から、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。彼は柊の膝にすり寄ると、その温かな額を彼女の手のひらに押し付ける。
「千年前は、そんなに喧嘩してたかしら? 直接顔を合わせた記憶もあまりないけれど」
柊はふっと強張っていた肩の力を抜き、涙に濡れた黒い毛並みを愛おしむように撫でた。千年前から絡みついていた重い鎖が、少しだけ解けたような気がした。
「細かいことはいいんだよ! 仲直りの印に、僕が知っていることを話すから」
クロは照れ隠しのように顔を上げると、前足で涙を拭った。そして先ほどまでの子供のような声色を一変させ、守護獣としての真剣な眼差しで柊を見据えた。
【次話】119話 因果の濁流1 -死中に活を求める-
2026年6月6日(土) 21:00頃更新
いいなと思ったら応援しよう!
ご覧頂きありがとうございます!頂いたサポートは文献の購入費用と物語後半に登場する場所の取材旅費に充てさせていただきます・・・!