【連載小説】君の消えた日-二度の後悔と王朝の光-113話 魂の境界1-淵に臨みて網を結ぶ-
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永遠は帰りの電車に揺られながら、スマートフォンに収めた華奈の小説の画像を幾度となく反芻していた。
(柊に連絡するか……?でも、写真で文面だけ送っても困惑させるだけだし、反応が読めねぇ。やっぱり、直接会えた時に手渡すか……)
入院中の柊に余計な心配をかけたくないという思いもあり、永遠が澪に打ち明けた「あの事実」――眞白への疑念や、青龍に関する気がかりな情報――は、いまだ柊の耳には届いていなかった。
星川駅の改札を抜け、見慣れた通学路を歩く。空はすでに赤銅色から沈みゆくような濃い藍色へと変わり始めていた。
冷たい風が頬を撫でる中、前方の住宅街の一角で、ふと異様な気配が漂っていることに気づく。
「なんだ……?」
電線やブロック塀の上に、不自然なほど多くの鴉が集まり、耳障りな鳴き声を上げていた。何気なく視線を向けた先――アスファルトの路上で、小さな生き物が鴉の鋭い嘴に集団で襲われている光景が飛び込んできた。
「おい! やめろよ!」
永遠が声を張り上げて駆け寄ると、驚いた鴉たちがバサバサと黒い羽音を立てて夕闇の空へ散っていく。
後に残されたのは、うずくまる黒い小さな生き物だった。
短い足を持つ子鹿のようなフォルムだが、全身は泥と埃にまみれ、痛ましく小刻みに震えている。黒い毛並みの隙間からは小さな角が覗き、こちらを見上げる双眸は、薄暗がりの中でもハッとするほど鮮やかな藍色に輝いていた。
「大丈夫か?! って、なんだこの毛玉……」
犬とも猫ともつかないその奇妙な生き物をじっと見下ろすと、相手もまた警戒心を剥き出しにして、永遠をキッと睨み返してくる。
「あれ?君はもしかして、炎駒……?」
「え?今、喋っ……?!てか、何で俺のこと知って……!?」
永遠が驚愕して目を丸くした瞬間、しまったという顔をした生き物が脱兎のごとく逃げ出そうとした。
しかし、反射神経で勝る永遠の手の方が早い。がっしりと首根っこを掴まれ、空中に宙吊りにされる。
「離してよ!」
黒い小さな生き物は、永遠の腕の中でジタバタと必死に身を捩った。
「いや、俺が炎駒って知ってて『はいそうですか』とはいかねぇだろ。……お前、名前は?」
「……言いたくない」
生き物は、あからさまにぷいっと顔を背けた。
「ないんじゃなくて、『言いたくない』ね……。じゃあしばらくはクロって呼ぶか。クロ、とりあえずお前泥だらけだし、怪我してるから俺の家に来いよ」
「えっ!」
「すぐそこだから」
一切の反論を許さない、有無を言わせぬストイックな口調。永遠は抵抗するクロを小脇に抱え込んだまま、足早に家路を急いだ。腕の中のクロは、極度の緊張からか身体をカチカチに強張らせている。
自宅の玄関を開けると、しんと静まり返った空気が二人を出迎えた。
「両親は店に出てるし、妹はまだ部活から帰ってきてない。今は俺とお前だけだから。とりあえず、風呂に入れるか……」
「え!お風呂?!」
クロは毛玉のような体をビクッと震わせ、悲鳴のような声を上げた。
「お前、泥だらけじゃんか。我慢しろって」
「ふぇ……」
永遠はクロの怯えを無視し、強引に脱衣所へと連行した。
終始怯えっぱなしだったクロも、湯を張った桶に入れられると観念したのか、大人しく身を委ねた。
「しみる……」
「怪我がしみてるところ悪いけど、我慢してくれ」
「ううん、目に入った」
「いや、それは目を閉じておけよ」
永遠は軽口を叩きながらも、その手つきは慎重で優しかった。シャワーの温かい湯が、クロの黒い毛並みからこびりついた泥を丁寧に洗い流していく。手早く洗い終えると、タオルで水気を拭き取り、ドライヤーの温風で毛の根元まで乾かしてやった。
自室に戻り、永遠がベッドに腰を下ろすと、クロも少しは警戒心を解いたのか、その隣にちょこんと座り込んだ。
「……ありがとう」
「傷口は包帯でも巻いておくか?」
「人間みたいに血が出る訳じゃないし、そんなに深くないから大丈夫」
ふんわりとした毛並みを取り戻したクロを見下ろし、永遠はふと、前衛としての合理的な疑問を口にした。
「お前って、飯食べるのか?それとも生気を吸収?」
「僕を何だと思ってるの」
「少なくとも、ただの動物とは思ってねぇよ」
冗談めかした口調とは裏腹に、永遠の表情は真剣そのものだった。
「本当の姿になるなら生気がいるけど、今の姿のままなら要らない」
「……本当の姿には、ならなくて良いのか?」
「ならなくて良いよ。なりたくない」
「……そうか」
それ以上深くは踏み込まず、永遠は視線をスマートフォンに落とし、素早い指使いでメッセージを打ち始めた。
「……?何してるの?」
クロが不思議そうに小首を傾げる。
「お前を預かってくれる奴に連絡してる」
「え、良いよ、そんなの」
「お前をここに残していくのは危険すぎる。でも、鴉にも姿が視えるってことは、他の奴にも視認できるだろうし、それで高校に連れて行くのも難しい。だから、強いやつに頼むんだよ」
「大丈夫だって」
「鴉にも勝てないのに、自分の身を守れるのかよ?」
スマートフォンの画面から目を離し、永遠はじっとクロの藍色の瞳を覗き込んだ。図星を突かれたクロは、気まずそうに視線を泳がせる。
「……無理」
悔しそうにぽつりと呟いた言葉に、永遠は小さく息を吐いた。
「じゃあ連絡つくまで休んでろって。食ったりしないから」
「え……食べ……」
「だから……お前は俺を何だと思ってるんだよ」
「五麟の炎駒でしょ」
永遠の大きなため息が、静かな部屋に吸い込まれた。
「ねぇ、炎駒」
「なに?」
「角端には、言わないで」
「角端にだけで良いのか?」
永遠の問いに、クロは無言で小さく頷いた。その小さな背中には、言葉にできない複雑な感情が張り付いているように見えた。
「……わかったよ。けど、急に出ていくなよ。心配になるから」
「約束する」
そう言って、クロはぴょんとベッドの奥へ飛び乗り、安心したように体を丸くした。
(さて、どうするかな……)
部屋に静寂が戻り、しばらくの時が流れた頃。
――ブブッ。
永遠のスマートフォンが短く振動した。画面に表示された文字を確認するなり、永遠はスッと立ち上がる。その反動でマットレスが跳ね返り、うとうとしていたクロが飛び起きた。
「びっくりした!どうしたの?」
「……連絡がついた。行くぞ」
永遠はクローゼットから黒いトートバッグを引っ張り出すと、ひょいっとクロを抱き上げてその中に放り込んだ。
「え?!待って!どこに行くの?!」
「バレるから、俺が良いって言うまで顔出すなよ」
窓の外は、すでに完全な夜の闇に包まれていた。二人は静かに家を抜け出し、冷たい夜気の中へと足を踏み出した。
*
「ここだ」
閑静な住宅街の一角。暗がりの中にぼんやりと浮かび上がる『東雲医院』の看板を見上げながら、永遠はトートバッグの中のクロに短く声をかけた。
午後診療はすでに終了し、建物はひっそりと静まり返っている。永遠は貸与されている合鍵で裏口のドアを解錠した。そのまま勝手知ったる様子で受付の脇を抜け、奥にある階段を足音を殺して登っていく。無機質な静けさが漂う廊下を進み、一番奥にある病室の扉の前で足を止めた。
軽くノックをし、中から微かな返事が聞こえたのを確認して、静かにドアノブに手をかける。
――カチャ……。
「柊、急に悪いな」
柔らかい間接照明に照らされた病室。ベッドのリクライニングを起こし、静かに文庫本に目を落としていた柊が、ゆっくりと顔を上げて微笑んだ。
「いえ、私は入院しているだけだもの。璃玖さんは下のフロアで試験勉強中よ。美鶴さんの執務室の机を借りているの」
「柊……ずっと連絡できなくて悪かった」
「話しづらいことがあるから、メッセージでの連絡を控えたんでしょう?……お互いにね」
「お互いに?」
永遠は怪訝そうに眉間に皺を寄せたが、柊は穏やかに、しかし確かな鋭さを持った視線を、彼が提げているトートバッグへと移した。
「……ところで、今日突然来たのは、そのカバンにいる子の話かしら?」
【次話】114話 魂の境界2-淵に臨みて網を結ぶ-
2026年5月2日(土) 21:00頃更新
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