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【連載小説】君の消えた日-二度の後悔と王朝の光-120話 沈黙の天秤2-任重くして道遠し-

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鼻をくすぐる出汁の香りと、パチパチと油が跳ねる微かな音。本部を兼ねているシェアハウスのリビングは、外の冷たい秋気とは無縁の暖かな空気に包まれていた。
みおは大学帰りの足で夕食の席についていた。

「澪くん、大学お疲れ様」
冴木さえきさん、お疲れ様です」
「今日はこの後任務だったよね?夕飯の準備をしておいたから先に食べてくれないか? 今日のは自信作でね」

クマのあしらわれたピンクのエプロンを身につけた冴木が、湯気を立てる大皿を次々とダイニングテーブルに並べていく。

テーブルの端には、分厚い赤本や付箋がびっしりと貼られた参考書が山積みにされており、つい先ほどまで彼がここで受験勉強に打ち込んでいたことを物語っていた。
彩り豊かな手料理と、端に追いやられた受験道具。その対比を目の当たりにして、澪は恐縮したように眉を下げた。

「すみません……受験生なのに作らせちゃって……」
「みんなに任務に出てもらっているのだから、このくらいはさせてくれ!」

冴木の屈託のない笑顔に促され、澪はありがたく箸を進めた。温かい食事を囲み、和やかな空気が流れる中、話題は自然と仲間たちのことへと移っていく。

茅野かやのくんのところは、今は誰が担当だったかな?」
璃玖りくさんが学校終わりから夜までサポートしてくださっていて、夜の十時に入江いりえさんと交代になると思います」
「……そうか」

ぽつりと呟いた冴木の言葉を最後に、二人の間にふっと短い沈黙が降りた。
冴木は静かに箸を置いた。
カチ、カチと壁掛け時計が刻む規則的な音だけが、静まり返ったリビングに響く。

「少しプライベートなことを聞いても良いかな……澪くんはどうやって進路を決めたんだい?」
「俺ですか? すごく単純ですよ」

澪も箸を置き、出汁が染み込んだ大根を見つめながら柔らかく微笑んだ。

「ある人から医師になれば良いのではないかって言われたんです。俺にできることなんてないと絶望していた時期だったので、本当に目の前が開けたような感覚でした」
「決めてからも迷うことはなかったのかい?」
「そうですね……確かに迷うことは一度もなかったかも知れません」

――『澪さん、よく考えてください。來智らいちは随獣型の守護獣です。憑依型の澄義ちょうぎのように、魂と器を繋ぎ止めておくというのは難しいでしょう。だとしたら、最大解放どころか第二解放だいにかいほうを続けることで、澪さんの生命そのものに危険が及ぶかも知れません』

ふと、温かなリビングの空気に反して、澪の背筋に冷たいものが走る。脳裏には、駒葉総合病院の中庭で聞いたしゅうの切実な声が浮かんでいた。膝の上で、無意識に拳が微かに握り込まれる。

「本当に迷いはないんです。でも……失うことが怖いと感じることは増えたかも知れません」
「それだけ大切なものが増えたんだね」

冴木はぼそっと呟いた。その視線は澪ではなく、自身の両手で包み込んだ茶碗の湯気に向けられている。

「え?」

不意にこぼれたその言葉に、澪は小さく聞き返した。

「澪くんに相談があるんだが……」
「なんでしょう?」

普段の温厚な冴木らしからぬ真剣な響きに、澪は少しだけ緊張した面持ちで顔を上げた。冴木は意を決したように、真っ直ぐに澪の目を見つめ返した。

「実は進路に悩んでいて、慶杏けいきょう大学を実際に見にいけないかと思っているんだ。オープンキャンパスだと、どうしても見せるためのものになってしまうから、なるべく大学の日常の姿を見たくてね」

重大な相談かと身構え、無意識のうちに肩を強張らせていた澪だったが、予想外の提案に少しだけ目を丸くした。やがて、その表情はパッと明るくほころぶ。

「じゃあ、俺と都合が合うところで、土曜日に実際に授業を受けてみるのはどうでしょう? 大人数の講義なら、たぶん一人二人増えていても誰も気にしないと思います。土曜日に俺が取ってるコマは少ないから、そのあと食堂とか図書館とか、施設も案内しますよ」
「本当かい? そうしてもらえるとすごく助かるよ」

冴木はホッと長く息を吐き出し、張り詰めていた糸が切れたような安堵の笑みを浮かべた。冷めかけていた茶を一口飲み、ようやく彼自身の肩の荷も下りたように見える。

澪はポケットからスマートフォンを取り出すと、素早くカレンダーのアプリを開いた。画面の青白い光が、彼の真面目な顔立ちを薄く照らす。

「じゃあ、さっそくですが今週末はどうでしょう。大学も後期が始まったばかりで受講者の顔ぶれも固定されていないので、潜入にはもってこいだと思います」
「僕も任務がない日だから、じゃあそこで頼むよ。念のため僕からみんなに共有しておこう」

冴木が弾んだ声で答えた。

その和やかで、どこにでもあるような日常の光景を見つめながら――澪の脳裏にふと、柊の言葉が蘇った。

――『私はどうやったら自我の消失を回避できるのか探します。だから澪さんも、自分自身と、自分自身の分身である來智と向き合ってください』

(俺も早く來智と向き合わなければなりませんね……)

スマートフォンの画面をスクロールしていた澪の指先が、ピタリと止まる。
目の前にある温かな食事と、自分を頼ってくれる仲間の笑顔。この愛おしい日常を、少しでも長く守り抜くために。
澪はスマートフォンをテーブルに伏せ、意を決したように顔を上げた。

「冴木さん。……俺も相談したいことがあるので、土曜日に話を聞いてもらえますか?」

澪の微かな迷いと、それ以上の決意を帯びた声。
そのただならぬ雰囲気を察したのか、冴木はすっと姿勢を正し、頼もしく、力強く頷いた。

「もちろんだとも」

永遠とわは帰宅後のトレーニングが終わりシャワーを浴びた後、自分の部屋で間宮まみや ときから手渡された文献に目を通していた。

当時の崩し字で書かれた古文書。だが今の永遠には、教科書でも読むかのようにすらすらとその内容が頭に入ってきた。
鷲尾わしのお家に保管されていた伝承役の記録――そこには、太陽のげきが政変を画策して失敗し、自害したこと。そしてその罪滅ぼしとして、残された索冥さくめい角端かくたんが全国各地で怨霊おんりょうの浄化行脚を強いられていた事実が記されていた。

(酷い書かれ方だな……)

救いを与えているはずの二人を「化け物」と蔑む当時の人々の冷酷な反応。それを想像するだけで、永遠の胸は焼けるように痛んだ。

そして、次に有坂ありさか家の写し――角端自身が残した記録を手に取る。

(澪さん……角端自身が、これを書いたのか)

窓の外ではからすが鳴いている。不吉な羽音を遠くに聞きながら、永遠は黄ばんだ紙面を指でなぞった。読み進めていた彼の瞳が、ある一行で凍りついたように止まる。

「……なんだ、これ」

そこに記されていたのは、炎駒えんくとしての彼が知るはずのない、あまりに冷酷で、あまりに救いのない「結末」だった。

永遠は耐えきれずに資料を伏せると、荒い呼吸を整えるように顔を覆った。

(……柊、お前は……)

自分の記憶が書き換えられていく恐怖以上に、知ってはならない「答え」に触れてしまった震えが、指先から伝わってくる。

「澪さん……。角端があれだけ索冥に固執していたのは……こういうことかよ」

千年前の、凄惨な幕切れ。
そののろいのような記憶を抱えたまま、柊も、澪も、今この時を生きている。
永遠はその残酷な現実を改めて突きつけられた。

――ブー……ブー……。

スマートフォンのバイブレーション音で永遠は現実に引き戻された。ディスプレイの表示を確かめると、『冴木 夏都なつ』という文字が浮かんでいる。

「冴木さん……?もしもしたちばなですが」

永遠は荒くなっていた呼吸を無理やり押し殺し、努めていつもの平坦な声を作って電話に出た。

『永遠くん突然すまない。今少し大丈夫かな?』
「はい、もちろん大丈夫です」

スピーカー越しに響く冴木の穏やかな声が、部屋に立ち込める冷え切った空気と不気味なほどに対比している。永遠はシャワー上がりのはずなのに首筋ににじんできた嫌な汗を、空いた手で乱暴に拭った。

『来週の土曜日なんだが、今後の進路のために澪さんに頼んで慶杏大学に見学に行かせてもらうことになった。僕も澪さんも任務からは外れている時間帯なんだが、念のため先に共有しておこうと思ってね』
「大丈夫ですよ。わざわざありがとうございます」
『澪くんも何やら悩んでいる様子だったから話を聞くつもりなんだ。任務に影響があることだったらみんなにも共有するように伝えるよ』

『澪さん』という名前に、永遠の視線が自然と机の上の古文書へと落ちる。
千年前のあんな凄惨な結末を一人で背負い続けている人が、一体何を悩んでいるというのか。永遠は手の中のスマートフォンを、きしむほど強く握りしめた。

「あの、慶杏大学に行くのって何時頃から何時頃までっすか?」
『1限の講義に参加して、その後お昼を挟んで午後も少し巡回させてもらうつもりだよ。何か気になることでもあったかい?』
「いえ、せっかくの大学見学ですし、澪さんの悩みも冴木さんにきちんと聞いてほしいので、緊急時の対応について入江さんと相談しておきますよ。なるべく邪魔が入らないようにしますんで」

永遠は込み上げてくる感情を必死に喉の奥へ飲み込み、頼もしい後輩としての「橘 永遠」を完璧に演じきった。

『……悪いね。気遣いありがとう。じゃあこの辺りで失礼するよ』
「はい、おやすみなさい」

ツーツーツー……。
通話が切れると、部屋には再び重苦しい静寂が舞い戻った。画面の明かりが落ちた黒いディスプレイを見つめながら、永遠は短く鋭い呼気を吐き出す。
そして、一拍置いてからディスプレイを再びタップし、別の連絡先へと電話を掛けた。

「――もしもし柊?突然ごめん。今日の夜、病室にみんなを集めても良いか?実は――」



【次話】121話 沈黙の天秤3-任重くして道遠し-
2026年6月20日(土) 21:00頃更新


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