【連載小説】君の消えた日-二度の後悔と王朝の光-105話 群青の密約4 -深い川は静かに流れる-
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昨日の松任椛による強襲を受け、永遠の退院日は急遽今日へと繰り上げられた。元々、退院手続きと送迎は母の陽子が行う予定だったが、安全を優先する本部の判断により、警護を兼ねて澪が代行することになった。
事務窓口で精算を済ませた澪が、ロビーで待つ永遠のもとへ歩み寄る。鞄に書類を収めると、澪は永遠の正面で居住まいを正した。
「橘さん、改めて、退院おめでとうございます。入院中、なかなかお見舞いに伺えずすみませんでした」
澪はそう言って深々と頭を下げた。整った顔立ちには、連日の任務と柊の看病による疲労が、隠しきれない影となって色濃く浮かんでいる。
「澪さん、病室でも言いましたけど、ずっと柊のそばにいたし、あいつが目覚めてからも任務に出てたじゃないっすか。むしろ、俺が穴を開けてる間のフォロー、あざっした」
「いえ……柊さんが目覚めてからは璃玖さんが警護を引き継いでくださっていたので、俺は通常任務をこなしていただけで。……それにしても、昨日は大変でしたね。まさか彼女が病院まで乗り込んで来るとは」
「松任椛が、あんなに強引に仕掛けて来るとは思いませんでした。……まぁ、おかげでこうして早く退院できたんで、結果オーライっす」
駐車場に向かうために外に出ると、秋雨前線の影響でどんよりとした鉛色の雲が低く垂れ込めていた。湿り気を帯びた空気に混じる雨上がりのアスファルトの匂いは、病院の消毒液の香りに慣れた鼻には、どこか清々しくも感じられた。
本部所有のセダンを見つけると、永遠は荷物を後部座席に放り込み、助手席に深く腰を下ろした。ドアが閉まると、密閉された車内に微かな芳香剤の香りと静寂が満ちる。永遠は何気ないふりをして、スモークガラス越しに周囲をそっと見回した。見慣れた日常が流れているはずなのに、今の彼の目には、風景の断片に異質な気配が混じっているように感じられてならなかった。
「……車、出しますね」
澪が静かにアクセルを踏む。エンジンの低い唸りが二人の間の沈黙を塗り潰していった。しばらく流れる景色を眺めていた永遠が、不意に声を落として呟く。
「……大石……松任椛の消息って、結局掴めたんすか?」
文化祭での激戦。そして昨日の襲撃。永遠の脳裏には、相内琉生の姿を借りた椛の異質な力と、その翡翠の瞳が鮮明に焼き付いている。
「……彼女に関する記憶が、一般の人々の意識から消去されているのは聞いていますか? その影響もあり、足取りを掴むのは難航しているようです。本部は松任家へ正式に捜査依頼を出したようですが、あちらは門前払いというか、そもそも相手にしていないようでして……」
「昨日の一件については、病室前にいた警官も相内のことを覚えていました。……ということは、昨日の術と、松任椛の存在そのものを消す術は別物ってことっすね。あいつが今、どこで何をしてるのか……誰も分からないのか」
永遠の表情に、ふっと暗い影が落ちた。行方不明のまま潜伏を続ける椛は、見えない刃のように喉元に突きつけられたままだ。
「入江さんや間宮さんが総力を挙げて追っていますが、おそらく……」
澪は横目で永遠の様子を伺い、言葉を濁した。その声には、今の組織の限界を悟ったような諦めが滲んでいる。
「そうっすか……」
永遠は短く応じると、深く、重い息を吐き出して窓の外へ目を向けた。駒葉の街並みを走り抜ける車内。永遠の思考は、その街のどこかに潜んでいるであろう一之瀬眞白、そして彼女の操る巨大な力へと及んでいた。
――
車が駒葉市内を十分ほど走り、永遠の自宅兼店舗の前に滑り込んだ。
「澪さん、この後少しだけ時間取れますか。折入って話したいことがあって」
車を降りる直前、永遠が投げかけた言葉は、これまでの世間話とは明らかに温度が違っていた。澪はその真剣な眼差しを真っ向から受け止め、迷いなく頷いた。
「……分かりました。お付き合いします」
「ありがとうございます。じゃあ、車は裏のコインパーキングに。後で店の駐車券、母さんから貰っておくんで」
澪が指示通り車を停め、永遠の後を追う。永遠が玄関の扉を開けた、その時だった。
「ただいまー……」
「永遠! 退院おめでとう!!」
パァン!! という盛大な破裂音。色とりどりのテープが、退院直後の永遠に容赦なく襲いかかった。驚きで固まった永遠がテープを掻き分けて顔を上げると、そこにはニヤニヤと笑う母・陽子と妹・千羽の姿があった。
「母さん……千羽……。盛大なのはありがたいんだけど。……それと、俺を送ってくれた澪さんを紹介させてくれ」
永遠が引き気味に身を引くと、背後から困惑したような笑みを浮かべた澪が、一歩前に出て丁寧に会釈した。
「……ご家族の団欒中に失礼します。橘さんの職場の同僚で、鷲尾澪と申します」
「あら! やだ! ごめんなさいね! 仕事先の方が代わりに来てくださるとは聞いていたけど……もっとおしゃれをしておけばよかったわー!」
陽子が慌ててエプロンを整え、千羽は目を輝かせて澪を凝視する。
「ちょっとお兄ちゃん、こんな格好良い人と一緒に働いてるの!? ずるすぎ! 私も澪さんと迎えに行けばよかった!」
「……いや、大会前にそんな理由で休んじゃだめだろ……それに別に顔で採用してるわけじゃないし……」
「ん? 澪さんって、よく柊ちゃんと一緒に歩いてる人? どっかで見かけたことある気がする!」
「……ええ。柊さんとは、仕事で組む機会が多いですね」
澪の丁寧な受け答えに、千羽が「やっぱりー!」と声を弾ませる。
永遠はその賑やかさにぐったりと肩を落とし、逃げるように階段へ足を向けた。
「……千羽、母さん。俺、ちょっと部屋で澪さんと話があるから」
「お菓子と飲み物、すぐ持っていこうか?」
「いや、いいから! 大丈夫だから!! ……澪さん、行きましょう」
ようやく二人から解放された永遠は、二階の自室へと澪を案内した。
「狭くてすみません。適当にベッドにでも腰掛けてください」
そこは男子高校生にしては不自然なほどに整頓された、無機質な部屋だった。
本棚には平安時代の文献が数冊だけ並んでいる。あとは全身鏡と勉強机、そしてベッドがあるだけだ。
ただ一つ、机の上に置かれた写真立てだけが、裏返しのまま伏せられている。
澪が室内を静かに見渡していることに気づき、永遠が「あー」と小さく声を漏らした。
「物が多くて、なんか……やかましかったんで。この間に結構、処分したんですよ。前は散らかってても全然大丈夫だったんすけど……」
その言葉に、澪は胸の奥をざわつかせた。
清潔というよりは、一切の雑音を拒絶するような、張り詰めた静謐さ。それは永遠の中に目覚めつつある前世の気質が、自室さえを変貌させてしまったかのようだった。
「……失礼します。それで、折入って話したいこととは……」
澪がベッドの端に腰を下ろすと、永遠は学習机の椅子を回して対面に座った。その瞬間、永遠の瞳から少年の色が消える。
「……『寂滅為楽』」
永遠がただ静かに言霊を紡ぐと、部屋の空気が一変した。壁の四方から透明な膜が広がるように結界が展開され、外の生活音——階下で騒ぐ家族の声や、遠くを走る車の音——が、ナイフで切り落とされたように消失した。
「橘さん……印を結ばず術を発動できるようになったんですか……!? ですが、自宅でこれほどの結界を張るなんて。もし本部に検知されたら……」
動揺を隠せない澪は、ベッドから身を乗り出すようにして永遠の顔を覗き込む。
対する永遠は、学習机の椅子に深く腰掛けたまま、感情の読み取れない瞳で澪を見返した。
「本部長や入江さんにあらぬ嫌疑をかけられるかもって、心配してくれてるんすよね。ありがとうございます。でも、……おそらく俺は、すでに芝山さんたちの監視対象に入ってると思うんすよ」
淡々とした永遠の言葉が、音の消えた部屋に冷たく響く。彼は自室の窓を塞ぐように展開された結界の膜へと、わずかに視線を流した。
「一体、どうして……」
澪の声が、あまりの静寂に吸い込まれるように小さくなる。結界の内側に取り残された二人の間に、密度の高い、重苦しい空気が立ち込めた。
永遠はゆっくりと上体を前に倒し、組んだ両手の上に顎を乗せた。その瞳には、もはや男子高校生としての幼さは微塵もなく、ただ真実を射抜こうとする鋭い光だけが宿っている。
「一之瀬眞白と、青龍。この二つについて、俺が持っている情報を隠しているから……澪さんにわざわざ部屋まで来てもらったのは、誰にも聞かれたくなかったからです。本部と答え合わせをする前に澪さんに教えてほしいことがあって」
永遠は単刀直入に、澪の目を射抜くように見つめた。
「病院で調査資料を見ました。一之瀬眞白に関する記載が一切なかった。……これ、みんなにはどう説明されてるんすか?」
澪は動揺を隠せないまま、言葉を絞り出した。
「いいえ、何も……。あの事件の後、俺も本部長とはお会いできていなくて。調査資料以上の情報を持ち合わせていません。でも、一之瀬さんはあの日、大石さんと対峙した現場に確かにいましたよね?」
「『青龍』の現状についても、言及なし……で合ってますか?」
「はい……少なくとも俺の耳には。橘さんが病院で椛に青龍のことを尋ねられた、という報告以外はありません……でも、橘さんは青龍の情報なんて持っていなかったはずでは……?」
沈黙が部屋を支配した。永遠は膝の上で拳を握り、並々ならぬ覚悟を込めて声を潜めた。
「澪さん。今から話すことは……俺と、柊と、澪さんの。三人だけの秘密にしてもらえますか」
その声の低さに、澪は背筋に冷たいものが走るのを感じた。目の前の少年が、もはや自分の知っている「橘永遠」ではないことを悟り、静かに頷く。
「……分かりました。お約束します」
永遠は意を決し、ずっと胸の奥に澱んでいた推論を、言葉にして解き放った。
「……俺は。一之瀬眞白が、前世の『太陽の覡』なんじゃないかと思ってます」
結界に守られた静寂の中で、その言葉だけが、重く、鋭く響き渡った。
【次話】106話 群青の密約5 -深い川は静かに流れる-
2026年3月14日(土) 21:00頃更新
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