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夫婦の倫理 その4 キリスト教的性倫理の根幹はストア派に由来:性行為を恥ずかしく思うのは、それが過ちであることを自覚しているからであるという原則。

これまで、フーコーが『性の歴史』で論じる、ムソニウス・ルフス(1世紀ローマ帝政期のストア派哲学者)からアレクサンドリアのクレメンス(2世紀キリスト教著作家)における性倫理の継承・変化をフーコーの参考文献をもとに3回検討してきた。
 フーコーは「性の歴史4巻 肉の告白」pp31 慎改康之 訳、新潮社において下記4点が逐語的にルフスからクレメンスに引き継げられたとしています。
1.正当な結合は子づくりを望まねばならないという原則。(その1
2.結婚においてさえも快楽だけを求めるのは理性に反するという原則。(その2
3.自分の妻に対し、性的関係の慎みのない形態すべてを免除してやらなければならないという原則。(その3
4.一つの行動を恥ずかしく思うのは、それが過ちであることを自覚しているからであるという原則。(今回)

今回はその3について。まずはムソニウスのルフスからフーコーの引用箇所
(肉の告白pp31)。その参考文献・注として(同書pp71(注16))
フーコーはアレキサンドリアのクレメンスを提示し、その補足にルフスを置いている。
クレメンスIIのxの100の1
ルフス XII [1-2]
ここでは時代順にルフスから見ていこう。
XII章 出典は以下からスクロールお願いします。

結論から言えばムソニウス・ルフスの本文の脚注を見ればアレクサンドリアのクレメンスと違わない、という指摘がHense校訂ルフスpp65に出ていて、その本文(pp65冒頭)はこれである。フーコーの指摘箇所はXII章の冒頭でありフーコーの注に混乱がある。
καίτοι τό γε πειράσθαι λανθάνειν έφ΄ οἶς πράττει τισ όμολογοῦντος  άμαρτάνειν έστί.

Hense指摘箇所
XII.   pp65  Line 1
καίτοι τό γε πειράσθαι λανθάνειν έφ΄ οἶς πράττει τισ όμολογοῦντος άμαρτάνειν έστί.
「それにもかかわらず、ある人が自ら認めている行為について、それを隠そうとすることは、まさに罪を犯すことである。」

これを対比するアレクサンドリアのクレメンスと比較してみよう。これも段落冒頭に出てくる。

2.10.100.1  Καίτοι τό γε πειρᾶσθαι λανθάνειν ἐφ’ οἷς πράττει τις ὁμολογοῦντος ἁμαρτάνειν ἐστίν,

文章はHenseの指摘どおり、全く同じである。τισのσとςの違いくらいでありこれは違いに入らないだろう。

ChatGPTに語釈してもらおう

語釈
καίτοι
接続詞。「それにもかかわらず」「ところがまた」。文全体を逆接的に導入。
τό γε πειράσθαι
τό = 定冠詞の中性単数主格/対格。ここでは「〜すること」という不定法の名詞化。
γε = 強調・限定の小辞。「少なくとも」「確かに」。
πειράσθαι = 「試みる」「努める」の不定法。
→ 「試みること(少なくとも…)」
λανθάνειν
「隠れる」「人知れず〜する」「〜に気づかれないでいる」。
ここでは「(人から)隠そうとする」という意味。
ἐφ’ οἷς
前置詞 ἐπί(上に、について)+関係代名詞 οἷς(中性複数・与格)。
→ 「〜に関して」「〜について」
πράττει τις
πράττει = 「行う」「実行する」。
τις = 「ある人」「誰か」。
→ 「誰かが行うことについて」
ὁμολογοῦντος
ὁμολογέω(同意する、認める)の現在能動分詞属格単数。
属格は「…であることを前提として」「…であるにもかかわらず」という属格絶対。
→ 「(それが)認められているにもかかわらず」
ἁμαρτάνειν
「過ちを犯す」「罪を犯す」。不定法。
ἐστί
動詞「ある」。ここでは主文の述語動詞。

もちろん文章が同じでも背景や出口が異なってくるはずである。
ルフスの今回の注目点の前後を確認しよう。

ὅθεν οὐδὲ πράττειν φανερῶς
οὐδὲν ἀνέχεται τῶν τοιούτων οὐδείς, κἂν ἐπ’
ὀλίγον ένθρασιν οἷός τε ᾖ, ἐπικρυπτόμενοι δὲ καὶ
λάθρᾳ οἱ γε μὴ τελέως ἀπερρωγότες ταῦτα τολμῶσιν.
「それゆえ、このようなことを公然と行うことに耐えられる者は誰一人としていない。たとえほんのひとときの快楽を得ることができるとしてもである。しかし、完全に堕落しきってはいない者たちは、これらを隠れて、密かにあえて行うのである。」(※ Hense 版の「ἔρνθριαν」は明らかな誤植で、正しくは ἔνθρασιν(「快楽・楽しみ」)と読むのが自然(ChatGPT)。)

pp65(今回の中心概念、再掲)
καίτοι τό γε πειράσθαι λανθάνειν έφ΄ οἶς πράττει τισ όμολογοῦντος άμαρτάνειν έστί.
「それにもかかわらず、ある人が自ら認めている行為について、それを隠そうとすることは、まさに罪を犯すことである。」


‘νὴ Δία’ φησίν `ἀλλ᾽
οὐχ ὥσπερ ὁ μοιχεύων ἀδικεῖ τὸν ἄνδρα τῆς διεφθαρμένης
γυναικός, οὐχ οὕτως καὶ ὁ τῇ ἑταίρᾳ συνών
ἀδικεῖ τινὰ ἢ νή Δία τῇ μὴ ἐχούσῃ ἄνδρα· οὐδὲ γὰρ σ
ἐλπίδα παίδων οὐδενὸς διαφθείρει οὗτος.΄
ἐγὼ δ᾽
ἐπέχω μὲν λέγειν, ὡς πᾶς ὅστις ἁμαρτάνει καὶ ἀδικεῖ
εὐθύς, εἰ καὶ μηδένα τῶν πέλας, ἀλλ᾽ αὑτόν γε πάν
τως χείρονα ἀποφαίνων καὶ ἀτιμότερον· ὁ γὰρ ἁμαρ
τάνων, παρ' ὅσον ἁμαρτάνει, χείρων καὶ ἀτιμότερος.

「――『ゼウスにかけて!』と言う人がいるだろう。『しかし、姦通する者が堕落させられた妻の夫に対して不正を働くように、遊女と交わる者が誰かに対して不正を働くわけではない。ゼウスにかけて、夫を持たぬ女と関わるならなおさらだ。なぜならその場合、誰の子供を得る望みも破壊しないからである』と。
だが私はこう考える。すなわち、罪を犯す者は誰であれ、たとえ他人には害を加えなくとも、すぐに不正を働くのであり、少なくとも自分自身をより悪く、より卑しめられたものとして示すのである。なぜなら、罪を犯す者は、その罪を犯すかぎりにおいて、自分自身をより悪く、より卑しめられたものにするからである。」

と不倫、子供への手出し、奴隷との性交渉、結婚していても快楽のみを追求するのはいずれも自己の制御ができていない、自分自身をより悪く、より卑しめられたものにするからである、としている。それを隠すのは自覚しているからだという論理。
 ではクレメンスを見てみよう:

2.10.100.1  Καίτοι τό γε πειρᾶσθαι λανθάνειν ἐφ’ οἷς πράττει τις ὁμολογοῦντος ἁμαρτάνειν ἐστίν, πᾶς δὲ ὃς ἁμαρτάνει, καὶ ἀδικεῖ εὐθύς, οὐχ οὕτως τὸν πέλας, ἂν μοιχεύῃ, ὡς ἑαυτόν, ὅτι μεμοίχευκεν· ἀλλὰ πάντως αὑτὸν χείρονα ἀποφαίνει καὶ ἀτιμότερον. Ὁ γὰρ ἁμαρτάνων, παρ’ ὅσον ἁμαρτάνει, χείρων καὶ ἀτιμότερος αὐτὸς αὑτοῦ· πάντως δὲ ἤδη που καὶ ἀκολασία πρόσεστι τῷ ἡττωμένῳ αἰσχρᾶς ἡδονῆς· διὸ καὶ πάντως ὁ πορνεύων ἀπέθανεν θεῷ, καὶ καταλέλειπται ὑπὸ τοῦ λόγου, καθάπερ ὑπὸ τοῦ πνεύματος, νεκρός. Βδελύττεται γὰρ

「たとえ自分が罪を犯していると自覚しつつ、隠れて試みたとしても、罪を犯す者は即座に不正を行うのである。不貞を働いた者は、隣人に対してではなく、自分自身に対して悪く、価値のない存在となる。罪を犯す限り、自らをより劣り、より恥ずべき者として示すのである。さらに、そのような者にはすでに淫らな欲望が付随しており、不貞を働く者は神に対して死んでおり、理性や霊によっても死んだかのように見捨てられている。忌み嫌われる存在だからである。」

途中までは、自己との関係について触れるが、後半は神との関係、すなわち「神に対して死んでおり、理性や霊によっても死んだかのように見捨てられている」と結論している点がストア派からキリスト教へ展開した証拠か。

 以上、フーコーによる、文献学者がストア派から初期キリスト教に逐語的に概念が「輸入され」倫理がキリスト教的に展開された初期の例をフーコーの提示した文献を用いて肉付けして提示した。
 もちろん、キリスト教の中でこれがこのまま継続されるわけでなく、フーコーによれば手段として生活規則(性行為の体位、時期、回数など詳細な告白と罰則)、司牧論、自己の放棄、浄化により、そして自己の内面として欲望、堕罪、過ちに「解体」される。その内容には、フーコーの「肉の告白」を辿らなければならない。今回の4点はその入り口に過ぎない。
 修道院内のカッシアヌスなどの考察はロマネスク美術にも大いに関係する。アウグスティヌスによる結婚論はアベラールとエロイーズと交差する。
 注目しているフレーズはエロイーズの第2書簡にある:

pp78(インデックスの)
Non enim rei effectus, sed efficientis affectus in crimine est ; nec quae fiunt, sed quo animo fiunt, sequitas pensat.
罪においては、行為の結果ではなく、行為者の心情が問題となる。正義は、何が行われたかではなく、どんな心で行われたかを測る。

https://la.m.wikisource.org/wiki/Liber:Abelard_Heloise_Cousin_-_Lettres_I.djvu

このような裁定になるのに、ストア派からアウグスティヌスへと辿ったのがフーコーの「肉の告白」の真骨頂である。また、さらに、第4書簡には

pp102 インデックス
…quam tamen in causam commissae malitie ex affectu convertit. Sed et si purget animum meum innocentia, nec hujus reatum sceleris consensus incurrat; peccata tamen multa praecesserunt, quæ me penitus immunem ab hujus reatu sceleris esse non sinunt.
「しかし、彼(=神)は、その罪の“原因”において、つまり感情(affectus)によってなされた悪意の“動機”に、私を転化させました。
けれども、たとえ私の心が潔白によって弁明され、同意によるこの罪の責めを負っていないとしても、多くの罪が以前に先立っていたため、私はこの罪の責めから完全に免れ得ないのです。」

ibid.

と同意の概念が出てくる。これはアベラールの政敵のベルナールでも議論が展開されている。あまりに小さいことに内向的にこだわり続けルフスにあったような社会と結びつくための倫理でなく、社会から切り離されていく中世哲学のある意味ダイナミズムの低下が露呈して「肉の告白」の枠組みで読み解くと興味深いと考える。その意味で「肉の告白」は読まれているがまだ読み解かれていないと考える。
 さらに、心の内面に沈潜していったわけでない中世哲学の調査にも興味を覚える。いわゆる自然科学や社会との統治の結びつきの展開はどうか。これら一連のイメージが私にとってのロマネスクの表象、芸術、技術と位置付けていますのでロマネスクからの脱線はそれほどでもないと思いたい。
 最後に、このようなカトリックの倫理の起源とその発展を明らかにすることでフーコーは生きることの従属がどのようにされるのか、という観点から提示している。カトリック的に生きること、それは個人の心の奥底にある最も貴い秘密を他人に話し、懲罰を受けることで自己放棄や自己の浄化を達成することである。この時代は他に「禁欲」「沈黙」を強要する。このような隠れていた「生の統治」のやり口を詳らかにすることは哲学の役割である。では近代では個の統治、いわゆる「生政治」「生の権力」はどのように引き継がれるのか。それは国家理性・ポリスであるとフーコーはいう。


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