【明治文豪、令和を歩く】第54回:ダイエットのメヌエット
午後のカッフェー、漱石は運ばれてきた珈琲を眺め、荷風は手帳を閉じながら

荷風君、先ほどから表の看板に「低カロリイ」だの「痩身(そうしん)」だのと書かれた文字が躍っているが、今の世の人々は、どうしてこうも自らの肉体を削ることに熱心なのだろうね。いわゆる「だいえっと」とかいうものだ。

全くでございます、先生。私も近頃、掛かり付けの医者から砂糖を控えるようにと厳命されましてね。かつて巴里や紐育(ニュウヨク)で親しんだ、あの甘美なショコラや、角砂糖を三つも放り込んだ強い珈琲が、今や私の身には毒だというのです。世間が美しさのために食を断つのに対し、私は「生」を長らえるために、半生慣れ親しんだ甘き快楽を棄てねばならぬ。これは真に忍び難い苦痛ですよ。

君の砂糖断ちは、もはや文芸上の悲劇に近いな。私の方はといえば、昔からこの胃が頼りなくてね。ある時は朝飯を廃してみたり、ある時は香の物を断ってみたりと、あらゆる養生法を試みたものだ。挙句の果てには、臓腑の位置をひっくり返すような残酷な按摩まで受けたが、どれもこれも一時的な痩せ我慢に過ぎなかった。今の若者が、流行のためにわざわざ空腹に耐えるのを見ると、私などは「勝手なものだ」と苦笑いしたくなるよ。

先生のような胃弱の苦しみも、私の砂糖への未練も、結局は肉体という古びた家屋に縛られている証左なのでしょう。雨が漏れば壁が落ち、柱が腐るように、我々の体も年々うつろになっていく。それなのに、今の世は「健康」や「若さ」という偶像を崇めて、無理に芽を吹かせようと躍起になっている。私は、塩鮭のように干からびていく自分を受け入れる方が、よほど自然な枯淡の境地だと思えるのですが。

全く同感だ。腹が鳴るのを堪えて本を読もうとしても、横膈膜の動きばかりが気になって文章どころではなくなる。そんな不自由な思いをしてまで、世間並みの体裁を整えることに何の意味があるのか。私はむしろ、三杯の正宗を傾けて、束の間の愉快を得る方に一票を投じたいね。もっとも、それも長続きはしないのだが。

おや、先生も左様で。私も医者の目を盗んで、たまには土耳古(トルコ)の珈琲の、あの酸いような渋い味を懐かしみたいものです。埃及(エジプト)煙草の香りに包まれながら、甘きものを口にする……。そんな放蕩の生涯こそが、私の著述には不可欠でした。それを「だいえっと」の一言で片付けられては、私の芸術も干上がってしまいます。

ははは。どうやら我々二人は、この飽食と節制の時代にあって、ひどく場違いな存在らしい。君は砂糖を惜しみ、私は胃の平穏を願う。しかし、腹を満たすことも、あえて空かせることも、結局は己の「生」をどう味わうかという問題に帰結するのだろうな。

ええ。私はこれからも、銀座の街角で珈琲の匂いがしないことを憤りながら、消えゆく江戸の情緒を、この痩せた指先で書き留めていくことにいたしますよ。先生も、どうか無理な養生で筆を鈍らせぬよう。

ありがとう。では、今日はこの「低カロリイ」などという無粋な看板に背を向けて、せめて心の中だけでも、かつての文明の香りを存分に味わうとしようじゃないか。
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