【明治文豪、令和を歩く】第53回:恵方巻ばらまき
銀座の通りをそぞろ歩き、デパートの軒先に並ぶ色とりどりの太巻きを眺めながら

おや、荷風君。あそこに積まれているのは、今の世で言う「恵方巻」というものだろう。節分に合わせて、あの巨大な海苔巻きを、特定の方向を向いて黙々と食すのだそうだ。明治の時分には、これほど大層な騒ぎではなかったように思うがね。

先生、あれは元々、上方の風習だそうでございますよ。私がかつて隅田の河畔や新橋の路地で耳にした江戸の情緒とは、どうも趣が異なります。今の東京は、こうした異郷の祭りを、まるで古くからの伝統であるかのように華々しく飾り立てるのが得意なようで。

黙って一気に食い尽くすというのは、いささか「余裕」に欠ける振る舞いのように思えるな。食事というものは、本来、その彩りを愛で、一口ごとに味わい、時には冗談を交えながら楽しむべきものだ。あんな風に、護謨(ゴム)を限界まで引き伸ばすような緊張感を持ってしては、せっかくの米の味も分からなくなってしまう。

全くでございます。太巻きを口に含んだまま、一言も発せずに東だの西だのを向いて座る姿は、滑稽を通り越して、どこか寂寥を感じさせます。私は、あの海苔の黒い塊よりも、春を待つ八重桜の蕾の紅や、江戸の草餅の深い緑を、静かに愛でたい。あんな風に「幸福」を無理に押し込むようなやり方は、どうも私の性には合いません。

ははは、君は相変わらず徹底しているね。だが、この現代という慌ただしい時代に生きる人々にとっては、そうした形式的な「縁起」に縋ることで、束の間の安寧を得たいという切実な願いがあるのかもしれない。もっとも、私のように胃を病んでいる者からすれば、あのような太いものを丸齧りしろというのは、一種の拷問に近いがね。

お労(いたわ)しや、先生。……私は、あんな騒がしい店頭を離れて、どこか古びた寺の境内にある、苔むした墓石でも眺めに行こうかと思います。そこには、流行歌も、恵方巻を頬張る喧騒も届きません。見ざりし世の人々と心の中で語らう方が、よほど「福」を招くような心持ちがいたします。

それはいい。君の掃墓(そうぼ)の趣味は、この騒々しい文明に対する、もっとも風流な抵抗だよ。私も、今日はあの太巻きの列を避けて、家で静かに茶でも煎じるとしよう。君が言う通り、今の世で趣味を説くのは「木に攀(よ)じ、魚を求むる」に等しいが、せめて心の中だけは、あの粥のような淡泊さと、静かな余裕を持っていたいものだ。

左様でございますね。では、先生。私はこれから、少しばかり銀座の裏通りを彷徨して参ります。恵方の方向などは気にせず、自分の足が向くまま、消えゆく江戸の残影を探しに。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!