見出し画像

【明治文豪、令和を歩く】第49回:年賀状エンガチョ

東京の雑踏を離れ、静かな書斎の片隅で、二人の文豪が向かい合っている。窓の外では現代の東京の喧騒がかすかに聞こえるが、室内には古き良き時代の空気が漂っている。

夏目漱石                                                                                                                         

……おい荷風君、また今年もこの季節が来た。机の上が、例の『年賀状』という紙片の山で埋め尽くされている。中には私の飼っている猫を勝手に描いて送ってくる不届きな門下生もいてね。吾輩が有名になったのは嬉しいが、主人の膝で丸くなっている肖像を勝手に『征露の二年目だから熊の画だろう』などと抜かす主人の迂闊さには、猫も呆れて眼を細めるばかりだよ。

                                                                                                                      永井荷風

(苦笑しながら)先生、それはまた賑やかなことで。私などは、三田の義塾に籍を置いていた頃は、上田敏さんや森先生からの、それはそれは華々しい事業への誘いや、あるいは断り切れぬ義理の手紙に追われたものですが……。今の私は、偏奇館の静寂の中で、ああした形式ばかりの年始の挨拶からは、なるべく遠ざかっていたいものです。現代の年賀状は、写真機で撮った家族の似顔絵だの、出来合いの意匠だのが溢れていて、どうにも江戸の浮世絵師が描いたような、あの墨の香りがする風情がありませんな。

全くだ。元日をめでたいものと決めたのは一体誰だか知らんが、新聞社も読者も、まだ餅も搗かぬ十二月の二十三日頃から、無理やり『おめでとう』の種を探して原稿を埋めろと急かす。実景のない空想で御目出度い顔をするのは、まるで高利貸しに飛び込まれた時のような不安な心地がするものだ。君のように、手紙のやり取りを『書かでもの記(※)』として、あえて沈黙を守る強情さがあれば、私も少しは胃の痛みが和らぐのだがね。

(※)1986[昭和61年]岩波文庫

先生、それは買い被りですよ。私はただ、市井の雑踏やカッフェーの女給とのやり取りの中に、真実の『春』を感じるだけです。年賀端書という限られた紙面の中に、恭賀新年などと判で押したような言葉を並べるよりは、路地裏の溝(どぶ)に映る正月の陽光を眺めている方が、よほど芸術家の本分に適っている。……おや、先生のその端書、猫の横に俳句が添えてありますな。『書を読むや躍るや猫の春一日』……ふむ、これはこれで、現代の殺伐とした風景の中では、一服の清涼剤に見えなくもありません。

ふん、寒月君あたりの仕業だろう。彼などは、女に恋しているのか、世の中を馬鹿にしているのか分からぬような文句ばかり並べては、私の書斎を去っていく。しかし荷風君、不思議なものだ。あれほど煩わしいと思っていた年賀状だが、いざ玄関の格子がチリンと鳴り、下女が新しい端書を持ってくると、牡蠣のように書斎に吸い付いている私でさえ、世間と繋がっているような妙な安心感を覚えることがある。人間というものは、どこまで行っても自己の孤独を、誰かに認めてもらいたい動物らしい。

……それは、否定できませんな。私も、どんなに世俗を厭うてみても、ふとした折に届く消息に、かつて歩いた銀座の舗道の足音を思い出すことがあります。年賀状とは、いわば『私はまだここに生きて、時代を観察していますよ』という、孤独な魂同士の合言葉のようなものかもしれません。……先生、せっかくですから、その猫の絵の端書を私にも一枚譲ってください。現代の電子の文字よりも、その下手な狸のような猫の絵の方が、よほど人間味があって愛らしい。

ははあ、君がそう言うなら、この『吾輩』も少しは鼻が高いだろう。だが、返事を書くのは明日にしてくれ。今はただ、この正月の静寂を、君との無駄話で埋め尽くしていたい気分なんだ。

前へ45464748|49 ▶次へ



いいなと思ったら応援しよう!

ぶるうす恩田 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!